脚立

自死遺族として生きる

私の父はアルコール依存症でした。

いつもお酒を飲んで暴れ、夜中来客があったと思うと玄関先には警察が立っていることもしばしば。

私に直接的に害があったものだけでも、

・羽毛布団に火を付ける(危うく一家全焼しかける。羽毛はよく燃えます)
・家の中でロケット花火を飛ばす(カラス避けに使うのがたくさんあった)
・背中にたばこの灰をかけられる(服が燃えただけで済んだ)

その他でも、

・線路の上で寝る(終電後だからよかったけど時間によっては大惨事)
・大声で騒ぎながら外を歩き回る(もちろん通報されて家に警察が来る)
・母が「死ねって言うならあなたが殺しなさいよ!」って刃物を持ち出す

etc...

なかなかクレイジーです。
他にも色々ありますが、あまり思い出したくないのでこの辺にしておきます。

私は、当然のように父が大嫌いでした。
死んでもいいとまで思っていました。


そんな父が、自宅の車庫で首を吊っているところを発見されました。


短大2年、2016年の夏、お盆。
私が帰省し、久しぶりに家族4人が揃った時の出来事でした。
無事就職が決まったという報告を聞いて、安心したのでしょうか。

バカみたいな話ですが、父が家の外の車庫で首を吊っている中、私は家の2階にある自室でのんきに粘土をいじっていました。
短大の卒業制作で、クレイアニメの製作をしている途中でした。(この卒業制作ですが、最終的には父の死を受けて全く別の作品を作りました)

何やら下が騒がしい、と思って階段を降りてみると、家の中を警察がドタバタと歩き回っていました。
ドラマの世界の中で、くたびれたオレンジのチェックのパジャマを着た私だけ、取り残されているような気分でした。

一体何が起きているのか。

たくさんの警察の中に紛れて、兄がいました。
兄に何があったのか聞いてみると、

「あのバカがついにやったらしい」
と、一言。

「首を吊っただと」
と、もう一言。

兄の言葉にも現れていますが、この時はまだ、
「あぁ、また迷惑なことをしてくれたなぁ」
くらいの気持ちでいました。ひどい話ですね。

程なくして、母が仕事を早退して帰って来ました。
3人で車に乗って、母の運転で父が運ばれている病院へ向かいました。

出発する前、父が首を吊った車庫を見ました。
首を吊ったロープだけは警察の方が外してくれていましたが、
車庫の真ん中にぽーんと立っている脚立が印象的だったのをよく覚えています。

病院に到着し、本当に父本人かどうかの確認のため、ベッドに寝かされている父と思われる死体の顔を見せられました。
顔は青黒く変色し、首にはロープの跡がはっきりと残っていました。
母が医者に、「確かに本人です」と告げました。

ここで、やっと父の死を理解しました。

医者が言うには、父は体重が重かったため、衝撃で首の骨が折れて即死だったようです。窒息で苦しんで死んでいったのではないだけ救いでしょうか。死んだら救いも何もないんですが。

この後のことはあまり覚えていません。


私は父が大嫌いでした。
死んでもいいとまで思っていました。
こんなこと言ったらやばいと思うけど、母と兄と3人で、どうやって殺そうか、なんて話をしたことだってある。

さて、死んでもいいとまで思っていた父が自ら命を絶ち、本当に私の前からいなくなりました。
喜ばしいことであるはずなのに、涙が止まりませんでした。


本当に、死んでもいいって思ってたんだけどなぁ。


父は遺書を残していました。
内容は相続について、葬式についてなどよくあるものでしたが、その遺書の隅っこには、「ごめんなさい」という一言が書かれていました。

その一言は、他の文章とは少しだけ違うインクの色をしていました。

あぁ、この遺書は、前々から用意されていたものだ。
死を覚悟して生きていたんだ。
一体いつからだろう。
死の直前、一言付け加えて、死んでいったんだ。

それに気付いて、母は泣いていました。
「ばかだなぁ」と言いながら。


父は、この1週間お酒を飲んでいなかった。


きっと、時間はあったはずなんだ。
死を選ぼうとしていることに気付くことはできなかったのだろうか。

自死の本当の原因は、死んでいった本人にしかわかりません。
一番恐ろしいのは、自分だって加害者だったのかもしれないということです。


私の実家はぶどう農家でした。(父の死後、廃業。)

自然相手の仕事というものは難しく、台風でぶどうが落ちてしまったり、ぶどうが病気にかかったり、全く収穫できない年もありました。

ぶどうが収穫できなければ収入はない。
生活は苦しい。
借金の返済だってある。

そして、父は躁鬱病パニック障害を患ってしまいました。

自室に引きこもり、全く出てこない。
夜中起きて来て、冷蔵庫を食べ漁り戻っていく。
お風呂にも入らず、毎日同じ白のインナーと股引のだらしない姿で過ごす。
そんな生活をしていました。

鬱になったら、何よりも家族のサポートが必要だといいます。
でも、父が鬱だろうがアルコール依存症である事実は何も変わらず、躁状態の時には今まで通りお酒を飲んで当たり前のように暴れる。そして私が酷い目にあう。

いきなり献身的になれるか?
無理な話だろう。

でも、それでも、
私がただ嫌いの一言で済ませず、しっかり向き合うことができていたら?
もしかしたら、私の態度で父の鬱がもっと悪化していたのでは?
鬱状態の父を冷たくあしらわず、サポートできていたら?


父に酷い目に合わされたと言うけれど、一番苦しんでいたのは父本人だ。
最終的に自死を選んでしまうほどなんだから。


父を殺したのは、私なのかもしれない。


・・・・・・・


「思い出は美化される」とよくいいます。

この父の自死という一連の出来事において、確かに父は被害者なのかもしれない。その被害者である父を救うのは、確かに私たち家族の役割だったのかもしれない。

でも、父が自死を選ぶまで、私にとって父は圧倒的に加害者でした。

助けられたかもとか色々言っていますが、父の存在が思い出となり美化されてしまったからこそ言えるだけであって、実際嫌いなものは嫌いなんだし、当時の私にはどうしようもなかっただろうと思います。身も蓋もない話ですが。

どんなに自分を責めたところで父が生き返るわけでもないので、素直に悲しんであげた方が父も報われる。いつしかそう考えられるようになりました。時間はかかりました。

罪悪感にかられて自分を責める行為は、ただ自分を苦しめるだけでなんの意味も持ちませんでした。というか、勝手に責めてるだけなのに勝手に病んで生産性下がりまくりなので、もはやマイナスでしかなかったです。

母は、父がアルコール依存症であることは誰にも言うべきではない、と幼い私によく言い聞かせていました。恥ずかしいことだと思っていたからでしょう。自死についても同様です。

ですが、私は現在、普段から父のことを公言しています。割とさらっと話します。私にとって恥ずかしかったのは父の存在ではなく、その父を助けられなかった自分自身だったのです。父の自死を受け入れるということは、「自分を許すこと」でした。そんな自分を許せたからこそ、人に話せるようになったんだと思います。

と言いつつも、今でも許し切れているかはわかりません。もしかしたら、人に話すことで許しを請っているだけかもしれません。だからわざわざ、こうしてnoteにも吐き出してみた次第です。迷惑な話ですね。

でもきっと、だめだめな父がいたことも、その父が苦しんでいたことも、それを助けられなかった私がいたことも、今の私を形作る大切な要因です。

とりあえず、まっすぐ向き合って、堂々と生きようと思います。


・・・・・・・

追伸

実家のぶどう農園は父が2代目だったのですが、1代目である父方の祖父も自死を選んでいます。
私が生まれるより前の話ですが、富士の樹海へ行き、死体も見つかっていないそうです。

農家って大変ですね。



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