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世の中は常にディストピア禍かもしれない(100分de名著:レイ・ブラッドベリ『華氏451度』)

今日、東京は4度目の緊急事態宣言下となった。

良いことも悪いことも、何度も続けば「慣れ」てくる。

「冗談じゃない!」と激しく憤怒している人がいる。しかし同じくらい「仕方ないか」と諦めている人もいる。温度差は、立場や役割によっても違う。感情の出どころも千差万別だ。

2021年は、大半が緊急事態で塗り潰されている。

「いつまでマスクをつける?」
「ワクチンは打つべき?」
「飲食店はお酒を提供すべきでない?」
「不要不急の外出は自粛すべき?」
「オリンピックはどうする?」

観点は無数にあって、もっともらしい因果関係を見出すのは困難だ。誰の意見にもそれぞれの言い分があって、考え続けることは正直しんどい。

こんなとき、世論を強烈に引っ張るカリスマ的な指導者を求めようとするのが世の常だ。歴史を辿れば、それは不幸の始まりだというにも関わらず。

──

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』は、社会的問題が幾重にも絡み合った近未来が描かれている。現代の寓話として評価が高い。

とりわけ「本を読むこと / 所有すること」が禁じられたディストピアとして知られている。

『華氏451度』の世界では、「考える」という行為が、徹底的に排除されているのだ。

本の所有が明らかになると、「ファイアマン」によって本が燃やされる。ファイアマンとして従順に仕事に務めてきた主人公・モンターグが、本に対して好奇心を寄せることから物語は動き出す。

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「社会の敵」は本と本読みだけではありません。読書によって促される思考それ自体もやはり社会の敵なのです。(中略)「なぜ、どうしてと疑問を持ってばかりいると、しまいにはひどく不幸なことになる。気の毒だが、死んだほうがよかったんだ」。だからおれたちファイアマンが、「相反する理論や思想で人を不幸にしたがる連中のささやかな潮流を押しとどめている」というのです。
(100分de名著:2021年6月 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』P69〜70より引用、太字は私)

優れた本は、読む手に様々な解釈を与える。

また同じテーマを扱っていても、筆者によって見解が異なる。

それは視野を広げ、物事が一面的ではないことを示唆している。しかし読書経験の低い読者は「答えが得られない」ことに失望することがある。(しかしそれは一時的なことで、読書経験を重ねることによって解消されていく)

だが『華氏451度』の言い分は違う。

失望はネガティブな感情である。「何が正しいのだろう」と混乱し、迷いや不安が生じる。場合によっては心を病む。考えなければ病むことはない。

ゆえに、本は有害だという理屈。

その理屈がおかしいことは自明だが、もう少しロジックを補強したり、極端な部分をカモフラージュしたりすると「思考停止が楽だよね」というモードに至るかもしれない。

その結果を如実に表したのが、このコロナ禍において、都議会議員選挙の投票率が極めて低いという事実だと言えまいか。

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NHK「100分de名著」で、本書の解説を務めた戸田山和久さんは、『華氏451度』でみられる人々の特徴として「忘れっぽさ」という点を挙げている。

人々:記憶の不在、忘れっぽさ
社会:人々の忘れっぽさに依存されて維持される

大切なのは本そのものではなく、「記憶し伝えることと、それに基づく反省的思考」だと戸田山さんは言う。

何もかも忘れてしまえば、人は反省することができなくなる。

「僕は頭の中で色んなことを考えているんだ!」と主張しても、そのことさえ、すぐに忘れてしまう(間違った言動をしていても、時間が経てば、人間は積極的に自らの誤解を正当化してしまう)。

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視点を変えると、忘れっぽいという人間の特徴は、「嫌なことは忘れたい」という本能から起因している。

そのおかげで、人はいつまでも悲しみや苦しみに浸るのでなく前を向くことができる。「忘れる」とは本来、立派な能力なのだ。

一方で「忘れたい」という願望は、社会に対して不健全な要請として発露することがある。「本は有害だ」という『華氏451度』のディストピアを、単なるフィクションだと侮ることはできない。

繰り返しになるが、「本は有害だ」と看做す背景には、「忘れたい」と要請する人々のニーズがある。個人は権力によって抑圧されるのでなく、自由を抑圧したいと無意識で人々が願っているということに他ならない。(それを権力側がニーズ通りに導いているだけだ)

コロナ禍の現在とクロスオーバーすることが幾つもあって、読めば読むほど、暗澹たる気持ちになってしまう。

では、僕らは本書から何を学ぶことができるだろうか。

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冒頭、戸田山さんは『華氏451度』を薦める上で、このようなメッセージを著している。

この小説は「読書が禁じられている社会って怖いですね」「やっぱり本っていいですよね」という単純なものではありません。コミュニケーションの本質、歴史と記録、知識人と大衆、都市と自然、権力のしくみなど、多岐にわたる問題がごちゃ混ぜになって描かれています。(中略)読者はこれらの問題を自分で引き受けて、自分で考えていかなければいけません。すぐれた小説は、簡単には答えの出ない問いを読者に投げかけ、自分自身で考えることを促してくれるものでしょう。だからこそ読むべきなのです。
(100分de名著:2021年6月 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』P7〜8より引用、太字は私)

世の中には、問題解決しようと多くの人たちが奔走している。

「どうやったら感染者数を抑えられるのか」も喫緊の課題と見做されている。

しかし果たして、これは本当に解決すべき問いだろうか。

『華氏451度』が示唆するのは、僕らが、生きてから死ぬまで、ぬるま湯のようなディストピアにずっと浸かっているということかもしれない。そのディストピアは、じわじわと(市民が要請することによって)ディストピアの度合いを高めていて。

ユートピアは存在しないし、求めてはいけない。

だけど、今よりはマシなディストピアを目指しながら、妥当性の高い問いを見出していきたい。

小さな達成は生き甲斐であり、社会の希望に繋がる。自他を少しずつ啓蒙することで、妥当性の高い意思決定を促せるようになりたいものだ。

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*おまけ*

100分de名著 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』の感想を、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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