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自分を、疑っている。

昨年このnoteを書いて以来、自分という人間の感覚を疑っている。

例えば僕は揺るぎなく息子たちを愛している。

少し前の僕は、「揺るぎなく息子たちを愛していない」親たちのことが信じられなかった。同世代の親たち(特に父親)は、令和になった今でも仕事のことを優先している。昭和や平成を生きた親世代の父親と同様、働くことに「モーレツ」になっているのだ。

第二子の誕生時に8か月の育休を取得した。彼の成長を間近で観察できた日々はとても貴重で、課せられていた仕事なんて「どーでもいい」とさえ思えた。

だけど、もしかしたら僕のこんな感覚は、僕自身が純粋に保有しているものではないのでは?と疑っている。疑っているというより、もはや、僕の感覚は僕自身では規定し得ないと確信している。

僕の言動を規定しているのは、環境だ。

妻がいて、僕の両親がいて、何でも話せる友人がいる。当時所属していた会社の上司に理解があり、また世間的にも「男性育休」の声があがってきたタイミングだった。SNSでもチラホラと育休取得者の声があったし、そもそも僕は熱心なSNSユーザーだった。

全く別の環境にいたら、僕はたぶん育休を取得していない。周囲で誰も育休取得をしていなかったら、いくら「男性育休」の風潮を感じつつも育休には踏み切らなかっただろう。

育休だけでなく、どうワークライフバランスを取っていくのかも環境に規定されていただろう。

新卒で入社した会社では、かなり遅くまで仕事することが多かった。これは2000年代という「時代」のせいではなく、周囲が「残業は当たり前」だと認識していたため、つまり環境によることが大きかったんじゃないか。だんだん残業しないようになってきたのは、直接の上司が残業をしない人だったからという、ただそれだけの理由だったのではないだろうか。そこに自分の意思はなく、周りに合わせるように働き方を規定していただけだったんじゃないだろうか。

そういう意味で、環境とは大切なものだ。

だけど、自分がいられる環境を100%コントロールできるわけでもない。「どんな環境を選択するか」を選ぶ自分は、その時点の自分の環境によって規定されてしまうからだ。

環境に依存しないためには、どうすれば良いのか。自分の状況を客観的に見ようとするメタ認知はひとつの手段だが、「言うは易し行なうは難し」のような気がする。

となると、強制的に環境から切断するというアイデアが良さそうだ。規定される環境から離れてみるということ。物理的な距離を置くだけでなく、ときどきランダムに頼るとか。いくつかの選択肢がある場合、とりあえず「くじ引き」で決めてみるとか。自分の意思が介在しないなら、環境から規定されることもなさそうだ。

あとは、本格的な休みを取ることかなあ。環境に規定されやすいのって余裕がないときに生まれるのではないか。余裕がないときは、自分にとって楽な選択肢を選びがちだから、心身ともにリフレッシュするとか。ランダムに頼るよりは弱いけれど、多少は、バイアスの呪縛から抜けられるかもしれない。

疑い、疑われ、また疑う。

楽な生き方ではないけれど、そうやって非連続な気付きのループを作れたら最高だよなと。

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