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ディープな維新史」シリーズⅦ 癒しのテロリスト❸ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

神代直人


平成26(2014)年5月に、山口県文書館は小展示「神代直人の捕縛」を行った。役所がテロリストをテーマにした資料展示をしたことが興味深かった。担当者は専門研究員の伊藤一晴さん(平成29年4月から国立公文書館に転勤)である。
 
なるほど、神代直人は脱隊兵騒動の黒幕・大楽源太郎が主催した西山塾の門人で、過激な攘夷派だ(西山塾については『ディープな維新史』Ⅵの「「禁断の脱隊兵騒動」❸の「大楽源太郎と河上彦斎」参照)。
 
有名なところでは、東京招魂社(のちの靖国神社)をデザインした洋学者・大村益次郎を明治2(1869)年9月4日に京都の三条木屋町の旅館で襲撃した8人のうちのひとりであった。大村の銅像は靖国神社の社頭や山口市の鋳銭司郷土館にある。

大村益次郎遭難地(京都)
大村益次郎像(鋳銭司郷土館蔵)


大村は大阪病院でボードウィンの治療を受けるが傷は悪化の一途で、11月5日に大阪で息を引き取る。
 
もっとも神代直人は、これより前の元治元(1864)年8月の第2次馬関攘夷戦争(四ヶ国連合艦隊に下関を攻撃)の直後に、戦後処理をしていたイギリス帰りの伊藤博文たちを暗殺しかけたこともあった。
 
そのことは伊藤博文自身が、「大村を斬つた奴の中に神代直人といふものがある」として、「彼は予と高杉を斬らうとした男だ」(『伊藤公直話』)と明かしている。西山塾も、松陰の松下村塾に劣らぬ過激派テロリストを抱えていたのだ。
 
ともあれ大村暗殺の罪により、神代たちは明治2年9月中に、つぎつぎと捕縛される。
 
この時の資料として、山口県文書館は、10月20日に神代の知行を没収して斬首した記録『罸事奉伺録』を示す一方で、捕縛時に割腹したため、余儀なく斬首したと記す『朝廷江御願出控』を並立して展示していたのである。
 
斬首か自刃かは大きく意味は異なる。担当の伊藤さんは、「公的な記録といえども事実と異なる場合がある」と資料展示の意図を示していた。
 
だがしかし、私の興味はそんなところにはなく、むしろ殺された側の大村益次郎と、殺した側の神代直人のコントラストの方だった。
 
昭和19(1944)年刊『大村益次郎』によると、大村の遺体は11月6日に棺に納められると琴子夫人らに付き添われ、大阪常安橋から船で三田尻に送られ、さらに吉敷郡鋳銭司村の大村家に運ばれて長沢池畔の円山に墓が造られたとしていた。
 
現在、長沢池畔の鋳銭司郷土館の背後にある丸山に鎮座する玉垣に囲まれた「故兵部大輔贈従三位大村永敏墓」が、その後身である。隣に鎮座する琴子夫人の墓には「明治三十八年四月二十一日 逝」と刻まれているので、後から建てられたものとわかる。

大村益次郎の墓〔左〕と夫人の琴子の墓〔右〕

面白いのは暗殺された大村の招魂祭が、墓碑の建立と共に行われていたことなのだ。
 
招魂祭を行ったのは、後に靖国神社初代宮司になった青山清(青山上総介)である。
 
山口県文書館蔵『贈従三位大村君事蹟 中』(大村家文書)に、そのときの様子が詳述されていた。
「十一月二十日君の葬儀を執行し その霊柩(れいきゅう)を鋳銭司村(すぜんじむら)の内(うち) 丸山(まるやま)に葬(ほうむ)る 神葬式(しんそうしき)にして祭主(さいしゅ)ハ青山上総(あおやまかずさ)なり」
 
藩主名代の笠原半九郎の参列をはじめ、親族や旧門下生たち、なかでも秋穂に屯在していたときの鋭武隊士たちは儀仗兵となって列をなし、山口明倫館時代の学科塾の生徒たちも列をなって神葬祭に臨んでいた。
 
鋭武隊が参列したのは青山が鋭武隊の書記をしていた関係もあったのだろう。『旧諸隊戦功賞典原簿』(山口県文書館蔵)の「旧鋭武隊士官其他戦功賞典表」に、「青山上総」の名の上に「書記」と見える。
 
一方でこの時期は、早くも脱隊兵騒動の気配があり、鋭武隊の参列は護衛の意味もあったと思われる。実際に直後に脱隊兵騒動が勃発し、「今般脱隊卒暴挙之節、故大村兵部大輔墳墓ヲ破毀シ候趣相聞へ…」と明治3年2月の記録(『奇兵隊反乱史料 脱隊暴動一件紀事材料』)は記している。
 
また、明治3年4月付の「山口藩公用人 宍道直記」の報告書(『防長回天史 第六編下』)に、「大鳥居ヤライ抔(など)倒シ」と見える。大村の神葬墓に「大鳥居」が建ち、「ヤライ(矢来)」すなわち、竹や丸太を縦横に粗く組んだ仮の囲いがされていた様子がうかがえる。
 
鋳銭司郷土館に隣接する現在の大村神社は、昭和15(1940)年ころの改築の義で建立が始まり、大東亜(太平洋)戦争中に工事が中断し、戦後に完成した社殿である。もともとの古い大村神社は、現在の墓所の近くにあり、その風景写真は山口県文書館に保管されている。

大村神社(山口県文書館蔵)

実に、この古い大村神社こそが、青山清の明治2年11月20日の招魂祭で建立された招魂墓の延長線上の社であったわけである。





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