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鈍感な読者にしか書けない文章を

僕は元ブロガーである。そして今はいちおうプロのライターだ。

2011年の3月の終わり頃にはじめて「原稿料が出る」仕事の依頼を受けたので(対価がもらえないものはそもそも「仕事」じゃないだろう、というツッコミはとりあえずなしで)、もうすぐプロになって10周年を迎えるということになる。

この10年間で「仕事がゼロになる」ことはなくて、たとえ首の皮一枚的な感じであっても、いちおう仕事の口はなくさないでこられたわけだ。

ブログを書いていた頃はぼんやり「プロになれたらいいな」と思っていたし、プロデビューしてしばらく図書館員との二足の草鞋を履いていた頃はぼんやり「フリーとして独立できたらいいな」と思っていた。

フリーになれたのは成り行きでしかなかったし、いま冷静に振り返ると、自分にそれに足るスキルがあったとも思えない。ただ単に運が良かった、としか言えない自分がいる。

そして、ぼんやり「なれたらいいな」と思っていた時も、実際になった今もずっと考えているのは「自分の武器ってなんだろう。そしてそれは、この先生き残っていけるレベルのものなんだろうか」ということだ。

ブロガーからプロになった頃は、ポーランドのジャズ専門というマニアックな知識が武器になった。当時、このジャンルをまともに書いている人はほとんどいなかったから。ニーズがあったわけではないが、一定期間それを切り拓く役割を担ったとは思っている。

SNSでは「ポーランドのジャズってやっぱりいいよな」とある種のブランドのように評価する投稿がちらほら見られる。そして一連のスワヴェク・ヤスクウケ作品で注目を集めたコアポートをはじめ、今では複数のレーベルがポーランドのジャズ作品の国内盤をリリースしている。ありがたいことだ。

でも、僕の役割はこの状況を作るところでもう終わったと思う。なぜそう思うかと言うと、いろいろ失敗を重ねてきて、「この先」を歩いていくための武器が自分にはないと痛感したからだ。

見切り発車でプロとしてやってきたが「音楽をテキストにする」というのは僕があらかじめ想像していた以上に深く、難しいことだった。少なくとも「オラシオでなければ書けない」とか「この人にオファーしてもいいな」と思わせるようなものはほぼ持っていない。ついでに言うと、たぶん音楽愛があまりない。NO MUSIC,NO LIFEとか絶対言えない。

音楽ライターとして10年やってきた自己評価は、まあそんなところに落ち着いた。依頼があればありがたくお受けするが、特に「やっぱオレ、すごいな」と感じることはもうなくなった。まあ裏を返せば少し前まではそんなふうに思っていた、ということではあるが(笑)

音楽の分野ではそういう結論にいたったわけだが、だからと言って物書きをやめようとは思っていない。できるなら続けたい。だからやっぱり考えなきゃいけない。自分の武器っていったいなんだろう?

僕が仕事をする時に、内容以上にこだわっているのが「止まることなく最後まで読めるか」ということだ。まずそれが第一で、次に腐心しているポイントが2つ。1つ目が「読むスピードと内容を理解するスピードが限りなく同じであるように」ということ。2つ目は「読みやすさは落とさず、情報をできるだけ多く」ということ。

と言うか、それだけが武器になりうると思って、ずっとずっと磨き続けている。人が「これは自分の武器」と自覚する中には、正解もあるだろうけれど、願望とか勘違いだったりすることもある。仕事が早いと自分では思っていても編集者にはそう思われていないとか、よくあることだろう。

僕も「文章の読みやすさ」以外に「これはワシの武器やな」と思っていたことがいくつかあったのだが、長い間仕事を続けていてすべて勘違いだったことが判明した(笑)

同じように「読みやすさ」も勘違いの可能性だってあったのに、ブロガー時代から「これは武器になるかも」とあたりをつけて一生懸命そのスキルを磨くようにした。なぜその「あたり」をつけられたかと言うと、僕はものすごく「鈍感な読者」だからだ。

例えば、僕は相方と同じ本を読み合うことが多いのだけど、彼女にあとから「○○のシーンではこうだったけど」とか「こういうストーリーだったじゃない?」とか言われても「えっ、そうだっけ」と驚くことがほとんどだ。つまり、内容を理解できていないし、細部を読み飛ばしていて読んだそばから忘れていく。

読んだ本の書評などをウェブ記事で見ても「えっ、あれってそういう本だったんだ」と思うことも多い。ぼんやりとしか読めていないのだ。また、小説内の登場人物や論者の論旨を「自分の思想と照らし合わせて気に入るか気に入らないか」で読んでいるから、著者の構築意図を読み解くことができない。感想は「なんかこいつ、むかつく」とかで終わることがほとんどなのだ。

純文学などを読んでいても、ストーリーしか追えていない。ひとつひとつの文章が表現している立体的な世界を、あまり感じ取れない。要するに、文章に関する感性が鈍い。

そして極めつけが、読みやすい文体の本しか読めないということ。難しいタッチのものは理解が追い付かないので、僕が読む本を選ぶときはパラパラめくってみて「これはすらすら読めそうだな」と感じた本に限られる。あるいは、読みにくい部分があったらそこは適当に斜め読みする。

自分がそういう「鈍感な読者」だということを俯瞰して見た時に、なぜ読みやすい文章を書くことにこだわり続けてきたのか腑に落ちた。

僕は、自分が読んでも理解できるような文章を書いているのだ。

仕事として書く時、僕は死ぬほど読み直す。少しでも引っかかるところがあれば、スピード感が損なわれないように書き直す。そして読み返すたびに留意しているのは「すべての読者は、この文章をはじめて読むのだ」ということ。

自分は著者だからここに書かれている内容をすべて知っていて当たり前だけれど、読者はまっさらの状態で向かい合うから何も知らない。その文字数を消化する一定の時間の間に、文中で書いている内容(=情報)を伝えきれなければ、プロとしての勝負は負けだと思っている。おおげさに言うと、そこだけには命を懸けている。全身全霊でそれを心がけている。

これは言い換えれば、読者としてそういう文章を読みたいし、できればそういうわかりやすいものであって欲しいと思っているからだ。何回か読み直してようやくすべての情報をつかみ取れるようなものは、鈍感な読者としてはしんどい。

きっと僕はこの先もずっと鈍感な読者のままだと思う。文章に関する感性も鈍い。でも、だからこそ書ける文章というのも間違いなくあると思っている。ニーズなんか知らん。とにかく自分自身がそういう文章を読みたいのだ。

いつか通用しなくなって仕事がなくなる時まで、この武器をひたすら磨き続けたい。

(おわり)


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