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「時代が作った天才クシシュトフ・コメダ」 ポーランドのジャズ・コンポーザーの話

どんな芸術も、社会や政治のあり方と完全に無縁ではいられないのは今や自明のことですが、それと同じくらい大事なのは「どんな人たちがいて、どんなつながりが生まれていくか」という出会いの運命だと思います。

今年日本との国交樹立100年のアニヴァーサリーイヤーを迎えた中欧の文化大国ポーランドには、「現代のショパン」とでも言えそうな偉大なジャズ作曲家がいます。

1969年に亡くなったクシシュトフ・コメダ Krzysztof Komedaです。コメダは亡くなって半世紀経つ今でもポーランドのジャズシーンに大きな影響を与えていますし、ジャズのコンポーザーですがその作品はポップやクラシックのミュージシャンにも広くカヴァーされています。コメダのカヴァーが収録されたアルバムは毎年必ずリリースされます。

まさに国民の「誰もが知っている」偉人なのです。一国の音楽史の中で、夭逝にもかかわらずこのような立ち位置を保ち続けているジャズ・ミュージシャンは、世界を見渡してもアメリカのマイルス・デイヴィスなどをのぞきほとんどいないでしょう。

先日まで開催されていたポーランド映画祭のプログラムに、彼の人生を多彩なインタヴューで追った『コメダ・コメダ』というドキュメンタリーがあります。僕はその最終上映後に解説トークをしました。

そのしめくくりにお話ししたのが「コメダの偉大さと音楽性は、彼一人によって成立したわけではなく、まわりのみんなと一緒に作り上げられていったものなのだ」ということでした。そういう人脈と出会いの数々が、彼のまわりに存在したのです。

トークでお話しした内容を引用しつつ、クシシュトフ・コメダの音楽と彼の仲間たちについてご紹介したいと思います。長いのでじっくりお楽しみください。

ジャズ・ミュージシャンとしてのコメダの特色はいくつかありますが、まず挙げられるべきは「映画音楽家としての作品数のほうが圧倒的に多い」ということです。

純粋なジャズアルバムは、ポーランドでオールタイムベストの1枚に必ず挙げられる『Astigmatic』と、スウェーデンのレーベルMetronomeからリリースされ、数年前まで二けた万円のメガレア盤だった『Ballet Etudes - The Music of Komeda』、その他点在する音源くらいしかありません。

その一方で、録音されていないものも含め70~80に及ぶ映画、舞台、パフォーミングアートのための音楽を制作しているのです。映画音楽の代表作としてはロマン・ポランスキー『タンスと二人の男』『水の中のナイフ』『ローズマリーの赤ちゃん』アンジェイ・ワイダ『夜の終わりに』イェジ・スコリモフスキ『バリエラ』『出発』などが挙げられます。いずれも傑作映画ですよね。

作中でポランスキは「彼はきっと自分の音楽を映画音楽だと言うだろう」と言ってました。それほど、そのキャリアは映画音楽よりにアンバランスなのです。にもかかわらず、彼はポーランドジャズのイノヴェイターでもありました。

コメダの音楽の特徴としてはもう1つ。「シンプルなメロディの組み合わせのなかに、複雑な要素がミックスされている」ということです。『コメダ・コメダ』の中でポーランド・ジャズ史を代表する鍵盤奏者のヴォイチェフ・カロラク Wojciech Karolakが「彼の音楽は複雑でいきなりやれと言われてできるものではなかった」と証言していますが、その「複雑」はcomplecatedではなく、いろんな音楽の要素が混在していて複雑なニュアンスを持っているという意味です。一聴した印象は、むしろシンプルなんですよね。

今では日本にたくさんのファンがいるポーランドのピアニスト、スワヴェク・ヤスクウケ Sławek Jaskułkeはコメダの作品を再構築した『コメダ(Recomposed)』↓というアルバムをリリースしています。この作品が録音される前に、このプロジェクトについて彼にインタヴューしたことがあるのですが、「コメダが生きていた当時のあらゆる音楽が詰め込まれている」と言ってました。

『コメダ・コメダ』内ではそうした彼の音楽について面白い証言がいろいろ聴けます。例えば、複数のミュージシャンが「即興パートではまったく口を出さず自由にさせる反面、譜面に書かれた部分では自分のイメージに完璧に合致するまで執拗に練習やリテイクを繰り返させた」と言っているのです。ここにも彼の音楽が内包する矛盾、複雑性が見て取れます。

彼がはじめて結成したセクステットで取り組んだオリジナル「メモリー・オブ・バッハ」も、バッハのインヴェンションをジャズブルースの形式に落とし込むというミクスチャーなものでした。

また、映画の中で90年代以降のコメダとも言うべきレシェク・モジジェル Leszek Możdżerが語っているように、コメダはちょっとしたハーモニーとタッチの操作で、シンプルな短い旋律の向こうに広大な宇宙を作ってしまうのです。

先に書いたように、彼は母国での偉大さからアメリカのマイルス・デイヴィスに例えられることが多いのですが、ピアニストとしてはむしろ、セロニアス・モンクジョアン・ドナートなんかに近いセンスを持った人ではないかと思います。

ではなぜ、彼の音楽はそのような個性を持つに至ったのでしょうか。彼が天才だったから? もちろんそれは間違いありません、しかしもっとも大きな要因は「映画関係者と密なコネクションができたから」だと僕は考えています。そしてもう一つ重要なのは、彼のキャラクターです。

モジジェルはかつて僕のインタヴューに「彼は赤毛で片足が短いことをからかわれて強いコンプレックスを持っていて、また両親からは医者になれと言われ続けた。短いメロディは、彼が自分の中に閉じこもる性格を表しているように思う」と答えてくれました。

映画で明らかにされるように、コメダの奥さんゾフィアも少々コントロール・フリークなところがあり、彼がポランスキとともに新天地アメリカに乗り出したのは、そうした環境から逃げたかったからということもほのめかされています。いつも誰かから圧をかけられ続けていた彼の内面には、鬱屈した感情と自由へのとても強い執着の両方があったのだと思います。

そうした要因に加えて、たった十数年のキャリアで何十もの映像作品へ作曲した経験の蓄積は、コンポーザーとしての彼にかなりの影響を与えたはず。

仕事として映像にフィットする音楽を作っていった側面と、彼のアイデンティティ表現としてのメロディの短さがあるゆえに映画の仕事が爆増したこと。この両方が補完し合い、さらに彼の音楽を特殊なものへと洗練させていったという感じなのではないでしょうか。

では、映画人たちとのコネクションは、どのような背景のもとで生まれたのでしょうか。その鍵を握るのが、戦後ポーランドの最初の人気ジャズグループ、メロマニ Melomaniの存在です。

このバンドはウッチという街で結成されました。ウッチは、ワイダやポランスキ、クシシュトフ・キェシロフスキらポーランドの名だたる映画監督たちが学んだ国立のウッチ映画大学があることで知られています(『蜜蜂と遠雷』石川慶監督もこの大学で学びました)。そしてこのメロマニもメンバーの半分くらいが映画人の卵であるこの大学の学生だったのです。

リーダーのサックス/クラリネット奏者イェジ・ドゥドゥシ・マトゥシュキェヴィチ Jerzy Duduś Matuszkiewiczもこのウッチ映画大で学び、巨匠イェジ・カヴァレロヴィチ『影 Cień』では撮影助監督として参加しています。彼はのちに自国でジャズムーヴメントが起こるのを見届け「僕らのバンドの義務は果たした」と映画音楽家へと鞍替え。コメダに負けるとも劣らないサウンドトラック・コンポーザーとしてポーランド・カルチャーを支えます。今回の映画祭の『月曜日は嫌い』の軽快なスコア↓も彼によるものです。

メロマニのトランぺッター、ヴィトルト・ソボチンスキ Witold Sobocińskiは逆にジャズ・ミュージシャンからポーランド映画史を代表する撮影監督へと成長していきます。よく知られた参加作品としては、スコリモフスキ『手を挙げろ!』、ワイダ『婚礼』、アンジェイ・ジュワフスキ(ズラウスキー)『夜の第三部分』、ポランスキ『フランティック』など。

コメダがはじめて結成したセクステットのメンバーを紹介されたのも、メロマニのメンバーが彼の「求人情報」を聞きつけたからです。また『タンスと二人の男』で映画音楽家としてデビューを果たしたのは、メロマニとはじめて共演したコンサートで観客として来ていたロマン・ポランスキと出会ったのがきっかけでした。

メロマニのメンバーからは他に、アンジェイ・クルィレヴィチ Andrzej KurylewiczAndrzej Trzaskowski アンジェイ・チシャスコフスキなど、コメダのライヴァル的に「映画音楽も作る」偉大なジャズコンポーザーたちが巣立っています。

メロマニ自体はスウィングジャズ的なスタイルで音楽性の面で特に新しい何かがあるわけではないのですが、映画とジャズに未来を感じる若者たちをつなげたという意味で、ポーランドジャズ史において非常に重要なグループだったと言えるでしょう。

スコリモフスキとコメダの出会いのエピソードは、僕も大好きなものです。1956年、ポーランドではじめて公けに観客の前で行われたジャズ・コンサート「ソポト・ジャズ・フェスティヴァル」が開催されます。すでにジャズ好きの若者たちの間で人気者だったメロマニの参加が話題になる一方で、コメダのセクステットは告知なしで参加。先にご紹介した「メモリー・オブ・バッハ」などを披露して非常に高く評価されました。

このフェスティヴァルの面白いところは、出演バンドがプラカードなどを掲げ、会場である競技場に入りオリンピックのように練り歩くところと、街全体が不夜城のようになり朝から晩まで人が入り乱れる「祭り」になったところです。東欧ジャズ版ウッドストックとでも言えばいいでしょうか。ソポトはバルト海に面したリゾート地で、開放的なムードに拍車をかけました。

この記録映像の04:10くらいから少し当時の模様が見れます↓

コメダたちが棺桶を模したヴィブラフォンケースを運んで街を歩いていると、興奮した面持ちで「あなたのファンです。断固支持します」と話しかけた青年がいました。まだ詩人だったころのスコリモフスキです。この青春の1ページ的な瞬間から、彼らの厚い友情がはじまったのです。この出会いは、のちに映画とジャズの人脈が交錯していく時代の幕開けとしても、非常に象徴的なシーンだと思います。

この後、スコリモフスキはカードゲームの賭けに負けてお金がなくなり、当時ワイダに並ぶ天才と評されていたアンジェイ・ムンク監督の撮影に偶然参加したことをきっかけに、映画の世界に足を踏み入れていきます。詩人としての鋭敏な感性を買われワイダ『夜の終わりに』やポランスキ『水の中のナイフ』で脚本に起用されるなどし、やがて自らも映画監督になりました。そして、ジャズ・ファンでした。

さてでは、なぜこの時ソポト・ジャズフェスはこんなに盛り上がったのでしょうか。

戦前のポーランドでは、ジャズも普通に聴かれていたと言います。レコード以外ではレストランで主に演奏されていました。しかし、戦争とソ連による社会主義体制支配が続き、ポーランドとジャズのつながりをほぼ断ち切ってしまいます。その期間のジャズは、アパートや地下室などでこっそり聴いたり演奏したりする「地下の音楽」と呼ばれていました。

ところが1953年に親玉国ソ連で強烈な独裁体制を敷いていたスターリンが亡くなり、1956年にはフルシチョフが「スターリン、あかんかった」と批判する演説をして流れが変わりました。ポーランドでは多くの死者を出したポズナン暴動という市民の反乱も起こります。そして追放されていたゴムウカが統一労働者党第一書記に返り咲き、当時の政府はスターリン後の独自路線を模索しはじめます。

その変貌の一環として、理由は定かではないのですが「ジャズはまあ、ほっといていいんじゃないか」とポーランドでは弾圧の対象から半ばオミットされるのです。ただの偶然でしょう。でも、この体制変換が結果的にその後のジャズの盛り上がりを後押ししたわけです。

こうした背景が、ソポト・ジャズフェスを単なる音楽フェスから新しい時代への熱い期待を反映した「若者のプラットフォーム」へと変えたのです。ソポトの街での、まさに映画のワンシーンのようなコメダとスコリモフスキの出会いは、こうした偶然の数々が交差したところに生まれたのだと言ってもいいでしょう。

コメダの周りにはジャズ・ミュージシャン仲間や映画関係者だけでなく、才能あふれるヴィジュアル・アーティストたちが集いました。例えばこういう人たちです↓

ロスワフ・シャイボ Rosław Szaybo
デザイナー、フォトグラファー。数多くの国内アルバムジャケットの他、ジューダス・プリースト『ブリティッシュ・スティール』クラッシュ『白い暴動』のジャケなども手がけた国際的デザイナー
マレク・カレヴィチ Marek Karewicz
フォトグラファー、デザイナー。数多くのジャケットやメディア用の写真を手がける。60年代のジャズ報道写真はほぼ彼の独壇場で、世界は彼の写真を見てポーランドのミュージックシーンを知った
ラファウ・オルビンスキ Rafał Olbiński
画家、デザイナー。数多くのポスター、アルバムジャケットを手がける。NYのMOMAにも作品が所蔵され、TIMES誌の表紙なども手がけた
ヤン・ビルチェク Jan Byrczek
ベーシスト、編集者、ライター、オーガナイザー。ベーシストとしてコメダやチシャスコフスキ、クルィレヴィチらの初期レコーディングに参加。病気のためミュージシャンをリタイアし、60年代前半に今も続く老舗ジャズ雑誌Jazz Forumの発行を開始する。いくつもの音楽家組織も立ち上げた名裏方

彼らは時に一緒に暮らし、コラボを重ね、一種のアート・レジデンス的なコミュニティを築き上げていました。その共同作業の中心に位置するのが、ジャズと映画でした。彼らのディープな協力関係は、単にお互いの作品性を尊敬していただけでなく、同じ時代を生きる若者同士としての仲間意識が強く作用していたと僕は考えています。まさに、青春群像というやつです。

この才人たちの輪の中でも、コメダの芸術センスは飛びきり「ポスト・モダン」なのですが、その感覚はこの仲間たちに囲まれたからこそ磨かれていったのでしょう。

彼の音楽の普遍性と斬新さは、当時の若手アーティストたちの豊かなコラボレーションの歴史が凝縮した一粒なのです。その意味でコメダは、まさしく時代が作った天才だったのです。

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