映画「きみの色」を観た
映画「きみの色」を池袋のヒューマックスで観た。すごく、すごくよかったので軽く感想を書こうと思う。
いや~~~きみの色よかったねぇ!!!!!ぽかぽかした色彩とか、雰囲気とか、よかったね….. きみの色みたいな音楽の在り方ってとてもよくて……
きみの色での音楽って、なんというか人が生きるという中にある音楽というか(音楽とは行為である論)、「人と人との関係で生まれる言語としての音楽」とか、「個々の人間性が滲み合うということ」(音楽を通じて共有される人間性 humanity(参考文献1の196頁を参照))みたいなあり方で、映画の中でもあった異なる色が滲み合うという描写と音楽というのがとっても美しくリンクされているなぁ…って思いながら見てた。弊はクラァシック畑の人間で、クラァシック畑は基本的に音楽というものを行為ではなく「製作されたもの」として神聖視する風潮があって、それがあんまり好きじゃないからそれをキャンセルするためにあえて冷たくて批判的な口調でそれは「行為」であるみたいな主張をすることがあるんだけど、でも行為であるというのは何か神聖なものを否定して引きずり降ろすようなことだけじゃなくて、きみの色での「人が生きる」、つまり人と人がコミュニケーションをするという行為の中にある音楽のあたたかさ、ぬくもりみたいなものが必ずあって、そのほっとする空気をひしひしと感じることができて本当に嬉しかった。 人と人との関係性が嬉しいと感じるのは、作品の世界が性善説で構成されているからこそかもしれないという可能性は考慮すべきことなのかもしれない(私には自分の身体が生きている世界を性善説で解釈することができなくて...…)。
善と悪と言えば、この物語は、登場人物3人がそれぞれ等身大の悩みを抱えていてそれをそれぞれ隠しつつ思案し、どうするのかという過程を描いている。
これらの選択の中で重要な役割を果たすのが、シスター日吉子先生の存在だ。物語で彼女は迷える子羊たち、特にトツ子を導くよき羊飼いとしての役目を果たしているが、それがもっとも顕著に表れているシーンは、船が欠航して戻れなくなった時の電話越しでの会話だと思う。
ここで発生していることは、「外泊、しかも男性と一緒という学校生活上禁止されている罪を犯したと恐れているトツ子」「それは"合宿"である、意味のあることだ、だから大丈夫と説く日吉子」というものだ。当然視聴している我々からすると欠航という不可抗力だから大丈夫だろという思いがよぎるのはいったん置いといて、小説版では「無断外泊=奉仕活動」という法があることが明らかになっているし、トツ子はこの前奉仕活動をしたばかりな上にこんなことになって、更に(先日問題が発生したばかりの)きみちゃんと、男の子であるルイ(異性との交流は節度を守って慎むべきであるのがあるらしい)といっしょにいると更なる罰則があるのではと恐れていることがわかる。それを日吉子先生が「合宿だと考えよう、そこにいるのは意味のあることだ、自分たちを責めないで」と言う。このシーンで、私は聖書のとある箇所を想起した。
キリスト教において(少なくとも私の認識しているキリスト教の信仰について)、イエス・キリストの存在が私たちにもたらしたことの1つとして、「律法からの解放」というキーワードがある。簡潔に説明すると、イエスキリスト以前は、キリスト教徒が「旧約聖書」と呼ぶ書物に記されている神(唯一なる神であるヤハウェ)から与えられた律法に基づいて人々は行動してきた。律法とは当然聖なるものであり、それで善悪の判断を行い、より「正しさ」へと近づくためのツールとして役に立っていた。しかし一方で、律法そのものは「○○をしてはならない=○○をしたものは罪人である」、つまり、「人を罪に定めるもの」としても機能する。『すべての人は罪人である(ローマ3:9)』と述べられているとおり、人は罪を犯さずに生きていくことはできない。それはやがて「自分は罪人だ」という罪悪感への束縛へと至り、自らを蝕んでいくようになる『律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ローマ3:20)』。 なぜならば律法とは罪を明らかにするために存在するものであり、律法そのものに罪からの救いを提供することはできなかったからである。これを『罪の下に閉じ込めた(ガラテヤ3:22)』と表現できよう。
しかし、新約聖書(とキリスト教徒が呼ぶ書物)では、イエス・キリストによる十字架―すべての時間上のすべての人のすべての罪を代わりに背負ったという事実―による救済により、『キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した(ローマ8:2)』、つまり自由になったと宣言する。
もちろんこれは律法が完全に無効になり、無法地帯となったことを意味するのではない。『「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)』でイエスが述べているように、律法は無効化された訳ではない。むしろ、律法の真の意義や究極の目的をイエスはこの世に実現させたのである。それまではどれだけ律法に従い守ろうとも到達しえなかった「義」を、イエスは前述した十字架による罪の贖いでそれを我々に福音として与えた。故に、我々は「イエスが我らの罪を引き受けて、十字架で帳消しにした」(≒罪、そして罪悪感を捨てること(罪なる自分の死)への絶対的存在からの絶対的な肯定)ことを受け入れる、つまり信じることによって「義」とみとめられるのである(信じる者すべてに義をもたらす)。
その結果として、律法は完成された。イエスは数百頁に及ぶ律法の本質を『「神を愛すること」「隣人を自分のように愛すること」(マタイ22:37~40)』の2つに集約し、人は信仰によって救われ、イエス・キリストとともに「愛」に生きるのである。
これらを理解した上で再度話を「きみの色」に戻そう。日吉子先生とトツ子の関係について見えてきたものがあるはずです。
先ほどの会話で発生していることは、「学校規則という律法によって罪に定められると考えている、何かしらの罪悪感を抱いている」トツ子に対して、日吉子先生は、「学校規則という硬直した律法によって罪に定めようとするのではなく、むしろ学校規則の本質から罪ではないとキャンセルし、『合宿』というキーワードを与えて肯定するとともに、罪悪感を持たなくて良い、責めなくてよいとする」という構造である。正にキリスト教の精神そのものを想起しないだろうか。
同様のことが、次のシーンでも言えるだろう。日吉子先生が古本屋にたまたま訪れるシーンである。
そう、罪は相手を傷つけるだけでなく、自分自身も傷つける。噓をつくことは確かに罪である。しかし、それをいつまでもそれを抱えて自分自身を傷つけて続ける必要はない。日吉子先生とのやり取りはきみにとって「光」となった。
ここまで、「罪からの解放」というキーワードで話を進めてきた。日吉子先生はトツ子に「決して自分たちを責めることのないように」と伝えた。では、私たちが罪悪感から解放されるためにはどういったプロセスがあるのだろうか。それを示すのが「合宿」のシーンである。
船が欠航したあと、トツ子、きみ、ルイの3人は旧教会で「合宿」をする。雪が降り続ける中で旧教会に灯したロウソクのあかりを頼りに3人は寄り添いあい、やがてルイがおずおずと「告白」を始めて、きみ、トツ子も少しづつ吐露していく。まるで「告解」のように。
それまではシスター日吉子とトツ子、日吉子ときみの中で発生していた「告白」と「赦し」に似たプロセスが、このシーンでルイ・きみ・トツ子の同等な関係性の3人によって実現する。人はいつまでも自分の中だけに荷物を閉じ込めていることに困難がある。それを信頼のおける他者と互いに共有して、受け入れられることで、その重荷から解放される。ルイくんが「僕たちは今、〝好き〟と〝秘密〟を共有してるんだ (きみの色小説259頁)」と言ったように。その後、3人がテルミンとギターと踊りで音楽を共有したように。
「告解」日の後、きみとルイはそれぞれ自分と、自らの親族と向き合い、告白し、その後文化祭ライブへと進む。その場は、トツ子・きみ・ルイ、そして彼らが向き合った家族、シスター日吉子、この映画で登場したたくさんの人物が一緒に「音楽」をしていた。
キリスト教には、もっとも重要かつ普遍的なものとして、「主の祈り」と呼ばれる祈禱文がある。これは聖書内でイエスが山上の説教を行ったとき「祈るときはこう祈りなさい(マタイ6:5-15)」と伝えたものだ。
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」
人の関係はときに縺れ、互いが互いを大事に思いあっているからこそ発生するゆがみやすれ違いがおきることがある。そういうとき、悩み悩んで、ささやかな幸せと触れて、そして勇気を出して人が持つ異なる旋律や色を少しづつ互いに共有しあい、互いにゆるしあい、それをゆるやかに受け入れたり、ちょっとした変化をおこしたり。 滲みあったり、離れたりしながらも太陽系が円を描くように、レコードがまわるようにそこにある。そう、まるで音楽みたいだ。
クック、ニコラス『音楽とは――ニコラス・クックが語る 5つの視点』(MUSIC - A VERY SHORT INTRODUCTION, SECOND EDITION. Oxford, 2021) 福中冬子訳、東京:音楽之友社、2022年。ていうか1度これ最初から最後まで読んだほうがいいです。私たちが音楽と呼ぶ概念について基礎的ながら丁寧な議論を行っています。
佐野晶、「きみの色」製作委員会 『小説 きみの色 (宝島社文庫)』Kindle版 東京:宝島社
『新改訳聖書』 第3版第6刷、新改訳聖書刊行会訳、東京:日本聖書刊行会、2004年。
『聖書――聖書協会共同訳』 東京:日本聖書協会、2018年。
おまけ TLで時々聖書読んでみたいとつぶやいてたフォロワーへ 軽く聖書についての解説をします
翻訳本は訳者によって様々な違いがあるのと同様、いわゆる「日本語訳聖書」にはその宗派や立場、考え方の違いから言い回しや書き方が異なっていたりする関係で非常に多くの訳がありますが、「どれがいいのかわかんない~~~」ということを考える一助として、2大派閥?と言っていいかわからんけどとりあえず多少の解説をしますね。
1. 『聖書――聖書協会共同訳』
これは、プロテスタントの各会派とカトリックが共同で訳した聖書『新共同訳』の後継と言われているものになります。新共同訳と同様、できるだけ多くの会派を巻き込んで訳したものです。
2.『聖書――新改訳2017』
戦後に出版された『口語訳』がやや自由主義神学的では?という批判がおきて、主にプロテスタントの福音的な立場をとる諸派がいっしょになって翻訳した『新改訳』の1番新しいバージョンです。
両者の違いについて
例えば、きみの色で直接的に引用されているイザヤ書 43:4を比較してみます。
他には、ヨハネ3:16。
あとこのブログで出したローマ7:6は
神学的に重要だとされるヨハネ1:1~5については
このように、多少の違いがあり、どっちが優れている/正しいといったことは一概に言えないというのがあります。
非信者が聖書を読むときの読みやすさとしては、個人的には聖書協会共同訳のほうに軍配があがります。なぜなら、翻訳の方針のひとつとして、聖書協会共同訳は「格調高く美しい日本語」を、新改訳2017は「原典に忠実である」というのがあり、これらが関係しているのか新改訳はちょっと区切りが長かったり、いわゆる「翻訳口調」っぽさがある箇所があったりします。
一方で、「聖書を買うなら注釈付きのほうが絶対に良い!」というのがあります。なぜなら、翻訳するときに発生した別訳も書かれていたり、聖書のどことどこがどのようにリンクしているのかというのが一目瞭然だからです。しかし、聖書協会共同訳で引照・注付きの聖書は大型版にしかありません。新改訳2017は小型・中型・大型全サイズに引照・注付きがあります。
この大型版、かなり重いです……もともと聖書ってやたら分厚いので、重くなりがちで…… そもそも高くて……
値段と言えば、一応聖書って宗教本なので布教活動に熱心な方々のおかげで無料で読むことができます(新共同訳になります)(このアプリの創設者はアメリカの福音派の教会の牧師らしい)
なお、ネットの無料の聖書を読むときに留意して欲しい事項として、「聖書 無料」と検索すると、「JW.ORG」の新世界訳聖書というのがあり、これは「エホバの証人」と呼ばれる新宗教の聖書になります。なぜ私が新宗教だと言ったかとすると、その見解の非常に大きな違いからキリスト教の多くの宗派からモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)・旧統一教会と並ぶ「異端」であるとして別物扱いされていることが挙げられます。異端認定とかそんなの外野からするとどうでもいいし関係ないかもしれませんが、一応知識としてキリスト教内では異端扱いを受けているというのを留意することは必要だと考えます。
↑聖書の選び方についてはこのリンクとかわかりやすいかも