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信頼のメカニズムって?

主は私の思いを励まし

わたしの 心を夜ごと諭してくださいます。

私は絶えず主に相対しています。

主は右にいまし、

私は揺らぐことがありません。

詩篇16:7-8


人生のベースになるものが、誰しもあるものです。
試練にあうとき、その土台が試されます。

他人と比べてどうのこうのという比較に意味はありません。自分の中で、信頼できるものかどうか。

人に頼ると裏切られます。
人間は変化するからです。
心がわりするとか、気持ちが冷めるとかただけでなく、年齢を重ねることで、あるいは物理的に引き離されることもあります。

常に一緒にいる人間――自分を信じるというアイデアもあります。合理的だと思いますし、必要なことです。

その自分も人間、時とともに変化します。
その変化は成長です。
ですから、歓迎していいものです。
しかし、一見退歩している感覚に陥るときがあるのも確かです。

成長しているから本来いいことですが、嵐の渦中ではそのことに気がつきにくかったりします。ヤバイよヤバイよと気持ちばかり焦ってしまう。
あるいは、頭でわかっていても気持ちがついてこないときもあります。
自分を信じたいけど、なかなか信じにくい状態です。

イスに座るとき、全体重を預けます。まさか、足が折れてひっくり返ると思いながら、ドカッと座ることはありません。
さらに、イスよりも床に直に座るほうが安全です。
しかし、その床も抜けてしまえば頼りになりません。

自転車も車も電車も飛行機も船も、確率的に高い安全性を提供してくれます。だから気軽に乗ります。
地面だって立っていられることが普通だから、安心して踏み出せます。
リスクを言い出したらキリがありません。気にしすぎは逆にリスクです。過ぎたるは及ばざるが如し。考えるのはほどほどに。

信頼は認知の一つの表れです。
認知に影響を与える2つの指標。それは、
・インパクト
・反復

繰り返し安全なら、安全と感じます。
しかし、一度でも大きく危険を感じたり、被害を受けたら、安全神話は崩れます。

信じるメカニズムは、どうもそうなっているようです。

聖書の語る神は、全知全能、万物の創造主であります。時空を超えて不動です。

信仰と信頼の違いは合理的な説明ができるかどうかの違いと考えます。主観的であっても、信じるならば安心を得られます。そのこと自体、他人が介入できることではありません。それが信仰の自由だとわたしは考えています。

いいんですよ、どれでも。
もちろん、聞かれたらオススメはできますけど。
押しつけはしたくない。そうされたくないから。
まずはありのまま。そして、オープンに交流する中で最適な状態に近づいていけばいい。
いまのわたしはそんな風に考えています。

今日もよい一日を!

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