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カステラ返せ

正月休み。たったひとりしかいない社内の友達からさわやかに誘われた。

10年も働いてこれかよという少なさだが、私はこの大西ライオン(一応仮名)と仲良しになれたことだけで、もうお腹が一杯である。これ以上は断りたいくらいだ。

スパイラルのロングヘアで、電子化していないスモーカーという、さわやかさとは程遠いアラフォー女性だが、念のため言っておくと冒頭の「さわやか」とは大西ライオンの言動ではなく、静岡の有名なハンバーグレストランのことである。

彼女は毎年正月、律儀に帰省するのだ。

杵と臼で餅をつき、かまどで煮るといくらでも食えるというようなことを言っていたから、静岡とはいえ、そう遠くはないのかもしれないとは決して言えない。

逆に私の実家は、ヘタしたら出勤するより近い場所にあるが、帰るという選択肢は一切ない。

家を出てまだ1年であるが、私の家は後にも先にもこのワンルームだけだと感じている。家賃が払えず追い出されたら、逃げ込むのは実家ではなく、ネットカフェだろう。

夜逃げ同然のように出た実家には、あれから一度も足を向けていない。

短時間かつコンパクトに引っ越すため、たくさんの物を置いてきてしまった。物や思い出には執着がなく、本に関しては、どうしても読みたければまた買えばいいと思ってあきらめた。もう、選んでどうこうできる量じゃなかったとも言える。

だが、先日有楽町時代の後輩であるチベットスナギツネちゃん(仮名)から、そろそろカステラを返しほしいと言われて、自分の迂闊さを呪った。カステラは実家の山の中だ。すっかり忘れて1年も放置してしまった。

とりあえず新しいものを神保町で買って返したが、どうも反応がおかしい。彼女のカステラは、確かにこのカステラだったはずだ。

念のため言っておくと、『カステラ』とは、パク・ミンギュという作家の韓国文学である。3時のおやつを返せというほど、チベットスナギツネちゃんはケチではない。

よくよく話を聞いてみると、どうやらそれはサイン本だった。借りたことも忘れていたが、まさかサインが入っていたとは。

実家に帰って山を掘り起こせば、必ずや発掘されるだろう。とても面白かったので、借り物ということを忘れていても、捨てることはまずない。

しかし、実家に足を踏み入れるくらいならLCCで韓国に飛んでいってパク・ミンギュ氏を探し出し、拙い韓国語で事情を話してサインをしてもらほうが、私にとってまだ現実味がある。

お姉さん、貯金がんばるから、ちょっと待っていてくれないか、チベットスナギツネちゃんよ。

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