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浅草・八月・Fade-out 〜大林宣彦監督『異人たちとの夏』(1988)

 大林宣彦監督『異人たちとの夏』(以下『異人〜』)を、衛星放送で久しぶりに見た。原作となった山田太一氏の同名小説は、『小説新潮』1987年1月号に発表され、同年12月に新潮社から上梓されたもの。1991年11月には新潮文庫に収録。小説は山本周五郎賞受賞の著名作品であり、映画化は小説発表の翌年の1988年である。

 物語の重要な舞台は浅草。庶民的な街の風景によって、消えゆく昭和がノスタルジックに描き出されている。制作時期は1980年代の終盤。つまり、昭和の終わりであり、バブル期の只中ということにもなる。過渡期の街並みを表現するためであろう、下町の木造家屋の背後に高層ビルを意識的に垣間見させている。

 小説や映画が世に出た当時、当方大阪でサラリーマン生活を送っていた。銀行の過剰融資や土地暴騰は関西も同じ。就職は極端な売り手市場、不倫ドラマの氾濫等々、まさに狂奔の時代。自分の仕事も、カネの乱舞に振り回されていたのだ。独身貴族謳歌の後、90年代初頭、ナニワを去り渋谷区はずれの社宅に引っ越した。大学卒業以来、約10年ぶりの東京復帰であった。

 映画のもう一つの重要なロケーションは、都心の幹線道路に沿った主人公の住むマンション。原作では、環八沿いとある。住所地の特定はできないが、風景はわが社員寮の付近に似る。90年代初め、通勤途上には建設途中のまま放置されたビルなど、まだまだバブル狂宴の残骸が。

 離婚直後の主人公(風間杜夫)が一人暮らしをする一室は事務所兼用。手前は交通量が多い場所だから、住む環境としてはよろしくなさそう。それでも、至極便利な立地は高額家賃のはずで、当時のテレビ業界人の経済的余裕を感じさせる。棚には、書籍類がギッシリ。同じ建物の3階の美女(名取裕子)とブランデーグラスを交わすシーンなどは、金余りの時代ならでは。このビル、大都会のど真ん中なのに、夜になると灯りのつく窓は2室だけ。「沼の底のような静けさ」が訪れるという。

 映画『異人〜』はホラー映画に分類されることがある。確かに、オカルトっぽいところはある。諸人がしばしば指摘するところだが、当方も初めて見た時は、結末に興醒めした覚えがある。

 にもかかわらず、数年に一度また見たくなる。なぜか?

 展開の終盤に少々の不満を感じつつ、劇場公開以後、ビデオやレーザーディスクなどで複数回見てきた作品である。いつも感じるのは、主人公とその両親(片岡鶴太郎と秋吉久美子)が『浅草今半』ですき焼きを囲むシーンがあまりにもよい。この場面が、視聴をリピートさせる。

 すき焼きのシーン以外で当方が好むのは、主人公が父親と寄席で出会う場面。高座には、桂米丸の姿が。

 オカルト作品としての評価は芳しくない。しかし、何回か見て、ホラー部分に対するフォーカスはピントはずれと再認識した。

 さて、見所については、もっと述べたい気持ちもあるものの、とりあえずここまで。

 久しぶりに原作も読み返した。

 両親は花札好きである。花札などする暇はなかったという主人公に対して、父親が温かく叱咤する。

 「いい齢して忙しがってんじゃないよ。それ以上齢取ってから遊んだって面白くもなんともないぞ」(小説127頁、新潮社)

 主人公は、50歳に近い中年。シナリオ・ライターとして、多忙な毎日を送っている。プライベートでは、離婚で疲弊している。

 残念ながら、原作者・山田太一氏の近年の作品発表は途絶えている模様である。ご高齢ということもあるだろう。小説『異人〜』は、移り行く時代を自らの言葉で伝えて来られた山田氏の一つの達成である。

 映画の脚本の方は、市川森一氏による。この方の紡ぐセリフも、実に胸に迫る。生前、氏が旺盛な著作活動だけでなく、メディアにおいても良心的発言をされていたお姿が思い出される。1960年代の『ウルトラシリーズ』からNHKドラマ『黄色い涙』(1974)などまで、当方の幼少年期に幸せなドラマ体験を授けてくれた稀有なライターである。

 大林宣彦監督は2020年に逝去。氏の名作は数々あれど、今回、『異人〜』を見返して、改めてその目配りに感心した。ことに、片岡鶴太郎と秋吉久美子の夫婦のキャスティングが成功している。父親の「職人風のいなせ振り」(小説104頁、新潮社)が爽快。母親は、母親を超えて仕草や表情がコケティッシュで魅力的である。もちろん風間杜夫、名取裕子の熱演も光っているし、永島敏行も存在感がある。

 邦画『異人〜』は、監督、原作者、脚本家、俳優陣をはじめ、これら才能豊かな昭和のクリエイターたちを支える制作関係者の協業の成果である。

 この世に永遠の別れほどの悲しみがあるだろうか。映像を追う度に、肉親だけでなく、身の回りからフェードアウトした数多くの人々が思い出される。別離の悲哀。この月並みなテーマを、現代日本の市民生活をスクリーンにして、叶わぬ願望を込めて描き出したのが映画であり、原作である。

 この物語で、主人公が現実と異界を彷徨するのは8月。時節は内容にふさわしく、仏教的とも言える。

 かつて、とても感銘を受けたこのストーリーも、当方歳をとったせいであろう、久しぶりに見たり、読み返したりすると少々きついと感じる。自分は、亡き人々が、目に見えずとも、身近にいると考える方が楽になった。

 人は、死者が黄泉の国へ行ったとか、星になったとか言った矢先、墓をつくったり、遺骨を傍におこうとしたりと、矛盾した行動をとるものだ。亡き者を遠くに追いやるのは、どちらかというと一人よがりの考えだ。また、魂は墓でもなく、骨壷でもなく、案外、いつも身近にいて、我々といっしょに暮らしているのだ。遠くに行くことなどない、と考えている。

 


 

 

 

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