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真鶴が「なんとなく」いい町であるワケ──駄菓子屋・ウオキヨ〈前編〉|駄菓子屋今昔ものがたり

駄菓子屋今昔ものがたり」はノンフィクションライターの山田清機氏が地域に愛される駄菓子屋を訪ね、その歴史を紐解きながら店主の想いに迫る連載です。今回は、地域に新たな風を吹き込む神奈川県真鶴町の駄菓子屋「ウヨキヨ」の仕掛け人に話を聞き、その開業の背景と狙いを前後編で探ります。

なんとなく、真鶴を訪れるのを毎年夏の恒例行事にしている。

伊豆半島の付け根からちょこんと相模湾に突き出ている真鶴半島は、総面積約7平方キロメートルの小さな半島である。小田原方面から眺めると、もこもこした緑が半島全体を覆っているのがわかる。「お林」と呼ばれるかつての御料林ごりょうりんが、うおつきの保安林として残されているのだ。保安林にはマツやクスノキの巨木が生い茂っていて、どこか神秘的な空気が満ちている。

*御料林:明治憲法下で皇室が所有していた森林のこと
*魚つきの保安林:魚介類の繁殖と保護を目的に、伐採を制限または禁止している岸近くの森林のこと

先端の真鶴岬にはトンボロ現象が見られる三ツ石という奇岩があり、岩の手前がちょうど鶴の首のように細くなっていることから真鶴の名前がついた。

 わが立てる 真鶴崎が二つにす 
 相模の海と 伊豆の白波
 与謝野晶子

真鶴での主な目的は琴が浜でのシュノーケリングだ。琴が浜は日本におけるダイビング発祥の地という説もあるそうだが、巨大なタイドプールのような浅瀬があるので、水中メガネにシュノーケルという簡単な装備でも十分に楽しめる。

立ったまま水面に顏をつけるだけで、コバルトブルーのソラスズメダイや、黄色の体に黒い縦じまの入ったカゴカキダイ、しゃれた斜めのストライプのタカノハダイなど、カラフルな魚たちを観察することができる。

透明度が高く子どもでも安全に遊べるので、かれこれ6年近くも通っている。琴が浜をぐるりと取り囲む鄙びた風景もいいし、昨今の海の家のように、観光客相手の騒々しい施設がないのもいい。

シュノーケリング以外にも真鶴に行く楽しみはいくつかあって、そのひとつはなんと言っても干物である。琴が浜で潜った帰りには、必ず干物屋に寄って真鶴名物の干物を買って帰る。

わが家が贔屓にしているのは「髙橋水産」と「魚伝」の二軒だ。なぜか息子は髙橋水産派で、入り口に置いてある大型の七輪で試食の切り身を焙って食べるのを、無上の楽しみにしている。

彼がこよなく愛するのが、「小鯵みりん」だ。髙橋水産のおかげで魚が好きになったと言っても過言ではなく、親としては感謝の念にたえない。

髙橋水産の店主は、あご髭を伸ばした仙人みたいな人物で、実際、「三代目ひもの仙人」と名乗っている。無口だけれど決して愛想が悪いわけではなく、「子どもがここの干物が大好きで」とか「毎年必ず来てるんですよ」などと若干のお愛想を言ってみると、ちょっと嬉しそうな顔をしてくれる。

品物と一緒に渡してくれる神社のお札のようなものには、筆書きで髙橋水産の干物づくりにかける強い意気込みが綴られていて面白い。

真仙流 感性と心の干物
十年間ひもの造りに没頭し
独自の製造術を編み出し
今もなお探究中である
更に速く 更に美しく
更に上の味わいへ
我干物の悟りを
切り開く者なり

仙人はひとりで干物を製造しているそうだが、近頃、隣に女性が立っていることが多くなった。

果たして彼女は従業員なのか、それとも配偶者なのか、あるいは恋人なのか。プライバシーに属することだから、客としては尋ねにくいところである。しかも、その女性も仙人と同様にはにかみ体質らしく、ニコニコしているだけでほとんどしゃべらないので、正体がわからないのである。

この奥床しくて謎な感じも、髙橋水産のえも言われぬ魅力のひとつだ。そう言えば、わが家の息子氏もはにかみ体質だから、馬が合うのかもしれない。

贔屓のもう一軒は、創業明治10年の老舗「魚伝」である。

すり鉢の底のような真鶴港からJR真鶴駅に上がっていく坂道の途中にある魚伝は、店の構えにも風情があるのだが、なんと言っても干物自体がうまい。筆者の贔屓は、「さばの酒干し」。大げさでなく、これを食べて干物に対する観念が変わってしまったほど、うまい。

干物というと塩がきつい、身が硬いというイメージがあると思うが、この酒干しは焼くとふっくらとして、しかも脂がたっぷりと乗っていて、もはや、一般的な干物とは別の食べものだと言いたくなる味わいなのだ。これを買うためだけに交通費をかけて真鶴に行ってもいいぐらい、無暗矢鱈とうまい。

ちなみに『真鶴町案内読本 真鶴手帳』(真鶴町発行)によれば、作家の川上弘美さんが『真鶴』(新潮文庫)というタイトルの長編小説を書いているが、同時期に書いた短編集『どこから行っても遠い町』(新潮文庫)に登場する魚屋「魚春」の主人は、真鶴の干物屋の主人がモデルになっているそうである。

『どこから行っても遠い町』を読んだ印象では、どうも無口な仙人ではなさそうな気もするのだが、それは読者が実際に本を読んで、真鶴を訪れて確かめてみていただきたい。

さて、冒頭の一文を「なんとなく」で書き出したが、なんとなく毎年の夏、真鶴に通うようになった理由のひとつに、「二藤商店」と「肉の石川」の存在があったことは否定できない。

ふたつの店は、真鶴駅から港に下っていくおおみち商店街にあった。駅からすぐの二藤商店は魚屋であり、鮮魚だけでなく地魚を使った天ぷらやフライ、煮つけなどの惣菜類が充実していた。一方の肉の石川は手作りのローストビーフやチキンロールや鶏の唐揚げなどを売っていて、値段はちょっと高めだったけれど、味はよかった。

真鶴に着くと、まずは二藤商店に寄って地物のカマスやアジのフライを買い、甘じょっぱい味付けの稲荷寿司を買い、次に肉の石川に寄ってローストビーフや鶏のから揚げなどを仕入れて、琴が浜に向かうのがお決まりのコースであった。

琴が浜の上空にはいつもトンビが舞っていて、ちょっとでも隙を見せると惣菜類をさらわれてしまうので、常に上空を警戒しながら短時間で昼食をとることになる。

筆者は少しでも長く水中世界を眺めていたいたちなので、そうやってそそくさと食事を済ませることは苦にならなかったし、目の前の、いままさに潜っている海で獲れた魚を食べるのは、なにか特別な感じがして嬉しかった。

ところが、である。

この真鶴を代表する──と勝手に決め込んでいた──二軒の店舗が閉店してしまったのである。

肉の石川は2022年の1月に閉店。二藤商店は2024年の夏に行った時にはシャッターが下りており、シャッターの貼り紙に12月24日から休業すると書いてあった。つまり、2023年のクリスマスにはすでに休業に入っていたことになる。

なんでも、社長さんが急逝してしまい、後継者がいないのが休業の理由だそうである。

この二軒の閉店は、本当にショックだった。自分でもこんなにがっかりするとは思わなかった。

肉の石川も二藤商店も、観光客相手の店ではなかった。肉の石川は自家製の惣菜を詰めた弁当も売っていたが、普通の値段の弁当だったし、惣菜類も決して安くはないがそれほど高くもなかった。二藤商店も、海辺の観光地にありがちな、法外な値段の海鮮丼などを売りつける店ではなく、値段も味も普通。基本は、地元の人向けの魚屋だった。

ちなみに、先述の二軒の干物屋も決して値段は高くない。大ぶりなサバの干物で、一枚400円から500円ぐらいである。

こうした、観光地観光地していない普通の商店が、間をあけて訪れても変わることなく営業していて、普通の値段で買い物ができるということが、なんとなく嬉しかったのである。田舎に帰ってきたような安堵感、とでも言えばいいだろうか。

ふたつの店舗の閉店は、筆者の家族にとって痛手であったが、真鶴町の現状を知ってみると、致し方ないことなのかもしれないとも思う。なぜなら、真鶴町は神奈川県で唯一の、「全部過疎市町村」(市町村の全域が過疎である)なのである。

真鶴町の人口減少のスピードは中途半端なものではない。平成27年(2015年)に7333人だった町の総人口は、現在6596人。12年(2030年)には高齢者すら減少してしまう急減期に突入し、令和27年(2045年)には3790人まで減ってしまうと予測されている。ピークだった1970年頃の約1万人と比較すると、実に60%以上の減少ということになる(「第二期 真鶴町まち・ひと・しごと創生人口ビジョン 総合戦略」)。

神奈川県には消滅可能性自治体が6つあるが、真鶴町はそのひとつであり、しかも鍵を握るといわれる若年女性人口変化率が-67.8%と、6自治体の中で最も高い。

若年女性人口変化率とは2020年~2050年の30年間で20~39歳の若年女性の人口がどのように変化するかを予測した数字であり、2050年の真鶴町の若年女性はわずか128人になってしまうというのである(人口戦略会議のデータ)。

これはまずい。

町民の方はもっと切実だと思うけれど、真鶴を愛する者のひとりとして、この状況はなんとかしなくてはならないと思う。

それにはまず、人口減少の原因を特定する必要があるだろう。真鶴町は様々な角度から調査を行って原因の究明を試みているが、たとえば、中学校以上の学校、すなわち高校や大学が町内にないことを原因のひとつとして挙げている。

特に高校を卒業した時点で他の市町村に出ていった若者が、そのまま帰ってこないことが大きいというのだが、これはどの地方にも共通の問題のような気もする。

あるいは、かつては町の主力産業だった漁業の衰退も、人口減少の一因かもしれない。

いまでも真鶴では定置網漁が行われているが、戦後間もなくは「ブリバブル」と呼ばれるほど、ブリが獲れた時期があったそうである。

真鶴でブリの定置網漁が盛んだったことは、古くは、夏目漱石の日記にも記されている。

漱石は、大正5年の1月28日から2月16日まで湯河原近辺を旅しており、湯河原の門川を経由して真鶴まで足を伸ばしたと日記に記している。

漱石一行は真鶴でブリの定置網漁を見物しているのだが、案内役の船頭とのこんな会話が記録されている。

「凡てで十一艘います。あれで十四五人宛乗ってゐるんですから。惣勢は二百人近くです。大漁の時は七万位ブリがかゝるですから、まあ、十万円近くの金になるんです。一人が一晩に二十とか三十とかいふ金を懐に入れますがそれをみんな飲んぢまいます」
「それで揚屋が必要なんだね」

  (『漱石全集』第二十巻 日記・断片 下 岩波書店)

揚屋というのは置屋から派遣された女性が客と遊ぶ施設であり、同じ日記に、真鶴には揚屋が十軒あるという記述がある。

一日で七万匹のブリが獲れるというのが、いったいどんな事態なのか想像もできないが、ともかく、漱石の昔から戦後しばらくの間、真鶴がブリ漁で栄えたことは間違いない。

もうひとつ、真鶴には主要産業があった。それは意外なことに、石材業なのである。筆者は何度も真鶴に通いながら、そのことをまったく知らなかった。

奈良時代の昔から真鶴は小松石を産出していて、江戸時代には江戸城の普請にも石材を提供していたというのである。

小松石の名前は古くから石丁場(採石場)があった町の北西部、東海道線の山側に位置する小松山に由来し、山側で掘られた石を本小松石、海側(半島側)で掘られた石を新小松石と呼んで区別しているという。

『ふるさと史話 真鶴湊』(真鶴町教育委員会)には、「真鶴の石材史」と題してこんなことが書かれている。

保元・平治の戦乱をのがれて岩に定着した土屋格衛が創始したという。

鎌倉幕府の創設と共に鎌倉の街並み整備や寺社の建築墓塔の建造などに真鶴近辺の石材が用いられている。

小田原城や江戸城の築城に当たって大繁栄し、現在、町の基幹産業の一つとして発展している。

岩というのは真鶴にある地名だが、最盛期には「岩の石屋は豆腐の皮をむいて食べる」と言われたそうだから、よほど景気のいい時期があったのだろう。

ちなみに、岩の民族資料館は旧土屋邸を改装したものだというから、おそらく土屋格衛の末裔の屋敷だったのだろう。残念なことに民俗資料館は2024年の9月末で閉館してしまったが、東海道線の山側に行ってみると、石材業はいまもって健在であり、海側とはまったく異なる風景を目にすることができる。

丁場と呼ばれる採石場に行ってみると、何台もの重機が山の中腹から、表面の酸化した茶色く大きな石を掘り出している。その大きな石に穿たれた穴に矢(楔)が打ち込まれていくつかに分割され、それを大型トラックが麓にある加工場に運んでいく。

ジェットコースターの軌道のように急な山道を大型トラックが往来する様子は、ワイルドというか、壮絶というか、のんびりとした海側とはずいぶん違う雰囲気なのである。

割られた石の断面は青みがかったグレーをしていて、これを石垣や庭石にしたり、鏡のように磨き上げて墓石にしたりするわけだが、源頼朝の墓にも使われている本小松石は、石材の世界で「東の横綱」と呼ばれるほどの銘石だそうである(「西の横綱」は香川県の庵治石)。

たしかに高校や大学はないものの、かつてはブリ漁で栄え、現在も小松石の採石加工という主要産業を持ち、半島の先端には真鶴岬、三ツ石という景勝地を持ち、琴が浜や岩海岸という観光資源にも恵まれた真鶴町が、なぜ、「全部過疎市町村」などという不名誉な称号を与えられなければならないのだろうか。後継者がいなくなってしまった二藤商店はともかく、なぜ、肉の石川が閉店しなくてはならなかったのだろうか。

筆者には、本当にその理由がわからない。逆に言えば、真鶴は衰退の原因がわからないほど、いい町なのだ。それも、くどいけれど「なんとなく」いい町なのである。

「なんとなく」の正体を探していて、一冊の書物に出会うことになった。

真鶴町発行の『美の基準』である。真鶴にある小さな本屋、「道草書店」の店頭で手に取った。

『美の基準』は真鶴町独特の「真鶴町まちづくり条例」の建築デザインコード(ルール)集である。といってもイメージがわかないと思うので、『美の基準』から”自己紹介”に当たる部分を引用してみることにしよう。

真鶴町を見てください。この「美しい町」はみんなが何らかの作法をわかちあってきた結果、長い年月をかけてつくりあげてきたものだとは思いませんか? この作法を「ルール」化したものが「美の基準」なのです。

「ルール」化されることによって、真鶴町はさらに「美しい質」を持つことになるでしょう。

ということなのだが、これを読んでも、まだピンとこないかもしれない。

真鶴町のホームページによれば、真鶴町は平成5年(1993年)に「真鶴町まちづくり条例」(通称・美の条例)を公布している。この条例は「土地利用規制基準」「建設行為の手続き」「美の基準」の3つの柱からなり、「美の基準」は第10条(美の原則)の細則だと考えればいいだろうか。

「美の基準」は「場所」「格づけ」「尺度」「調和」「材料」「装飾と芸術」「コミュニティー」「眺め」の8つの基準から構成されていて、その8つの基準を合計69個のキーワードによって詳説している。

たとえば、「美の基準」のひとつである「尺度」という基準は、次のように説明されている。

すべてのものの基準は人間である。

建築はまず人間の大きさと調和した比率をもち、
次に周囲の建物を尊重しなければならない。

なんとなく、人間の体の大きさに比べてあまりも大きな建造物を作るのはやめよう、周りの建物に比べてあまりにも高い建物、あまりにも大きな建物を作るのはやめようと訴えているようだ。

「尺度」という基準を詳説するキーワードは8つあるが、その中には、「終わりの場所」といった、一層わけのわからない言葉が掲げられている。

よくよく読んでみると、どうやら「終わりの場所」とは、建物が終わって外の世界と接する場所、たとえば屋根の軒先とか、柱が地面に接している部分とか、外壁などのことを指していることがわかる。

そして、「終わりの場所」が「他の何とも関係を持たない終わり方をしている姿は自然と建物との関わり合いに寄与していない。」ので、そうした状況を生み出さないために、次のような解決法が提案されている。

建築が終わる所、例えば屋根の傾斜が地面に出会う所、屋根の頂部が空と出会う所等々、終わりが自然に溶け込む部分は特に注意してやわらかいつながりが保たれるようにすると良い。

「屋根の傾斜が地面に出会う所」とは、要するに軒先だと思うのだが、軒先がゆるやかな曲線を描いて地面に近づいていく形にすることによって、「他の何とも関係を持たない終わり方」を回避できると、「美の基準」は言っているわけだ。

なんとなくわかったような気もするが、隔靴掻痒の感を免れないのは、「美の基準」が数値を定めた基準ではないからだ。使われている言葉が抽象的で、相当に詩的というか文学的なのだ。

しかも「美の基準」は、新たに建築物を建設する際に守らなければならない「規制」ではないのだ。行政はあくまでも、「美の基準」に適合した設計や施工が行われるように、施主や建設業者に対して働きかけをする。そして、合意が得られるまで協議を重ねていくのである。

なぜ、このなんともデリケートな「美の基準」を真鶴町は必要としたのだろうか。

前出の『真鶴手帳』に、日本総合研究所の井上岳一さんが「美の基準」誕生の経緯を綴っている。

井上さんによれば、「美の基準」が構想された原点は、1988年、真鶴駅前に当時としては高層だった7階建てのマンションが建設され、完成と同時に即日完売となったことにあるという。

この出来事の背景には、1987年に成立したリゾート法(総合保養地整備法)がある。同法の成立によって日本中をリゾートブームの波が覆うことになったが、真鶴は温泉街の熱海や湯河原に近く、都心から1時間半という好立地にある。この7階建てマンションの即日完売をきっかけにして、真鶴町役場には1日に何件もの開発計画が押し寄せることになったのである。

この異常事態を「合法だが不当」であると受け取った当時の町長、三木邦之さんは、真鶴には水源がないことを盾に「水の条例」を制定して大型開発を認めない方針を打ち出した。町民の多くがそれを支持したが、開発の許認可権は神奈川県にあったため、開発の抑制には限界があった。

そこで、「真鶴町をどのような町にしたいか」を町として積極的に打ち出すことによって乱開発にストップをかけるために公布されたのが「美の条例」であり、その詳細を紐解く「美の基準」であった。

「美の基準」の作成は、町長の三木邦夫さん、弁護士の五十嵐敬喜さん、都市プランナーの野口和雄さん、建築家の池上修一さんが中心となり、町民を巻き込む形で行われたそうである。

厳密に言えば、「真鶴町をどのような町にしたいか」という表現は、ちょっと違うのかもしれない。

「美の基準」はリゾート法に対抗して新しい町を作るためのルールではなく、真鶴町が長い歴史の中で守り育んできた町の美しさの本質を町民が共有できるように言語化し、その美しさの質をさらに高めていくためのルールと言うべきであって、決して、新たな開発のためのルールではないのだ。

たとえば、実際に真鶴を歩き回ってみればすぐに気がつくことだが、真鶴には高台から港を見下ろせる場所があちらこちらにある。海への視界を遮る高い建物がないからだが、これは、漁師が多く暮らしていた時代の名残りだという。

漁師は朝、自宅の窓から海の様子を眺めて、その日の仕事の内容を決める。だからどの家も、背後にある家の視界を遮らない配慮をしていたというのだ。

この配慮こそ、現在の真鶴の、いたるとこから海を見下ろせる環境の原点なのだ。「美の基準」が守り育てようとしているのは、こうした生活や仕事に根差した美しさであって、決して、観光客を意識して保存されている美しさではないのである。

さて、何度も真鶴は「なんとなく」いい町だと強調してきたが、筆者は『美の基準』にひと通り目を通してみて、ようやく「なんとなく」の正体がわかった気がする。

真鶴には、熱海のように大きなリゾートホテルもなければ、湯河原のように温泉も出ない。小ぢんまりとした中川一正美術館はあるものの、客寄せに寄与するような大型レジャー施設、大型温泉施設、大型リゾートホテル、高層マンションといったものが、ほとんど存在しないのである。

料理屋やレストランもたくさんはないし、駐車場も少ない。高台に大きな別荘があるにはあるが、多くの民家はむしろ質素な佇まいをしている。

にもかかわらず、真鶴が「なんとなく」いい町であるのは、町の随所に「美の基準」が言語化している「配慮」が生きているからなのだ。そして「美の基準」の存在が、その配慮を守ってきたからなのだ。

タワーマンションのように、視界を遮り、周囲の建物を睥睨し、人間を威圧するような、傍若無人な建物は一棟も建っていない。自然への配慮、近隣への配慮、仕事をする人への配慮が、道や建物の形に宿っている。訪れた人は、その配慮を肌を通して感じ取る。

それが、「なんとなく」の正体ではないだろうか。

だが、しかし……。

真鶴町は神奈川県唯一の全部過疎市町村なのだ。2050年には若年女性人口がいまより60%も減ってしまうのだ。そして、将来、消滅してしまう可能性がきわめて高い自治体なのだ。

もしも、「美の基準」などというややこしいものを持ち出さずに、リゾート開発の波に乗って大型の開発案件をどんどん受け入れていたら、いま頃、真鶴はどうなっていただろうか。

もしかしたら、神奈川県切っての人気リゾートエリアとして、観光客をわんさと集めていたかもしれない。インバウンド需要の波に乗って、外国人が大勢押しかけていたかもしれない。お金が落ちて、雇用が生まれて、子どもがたくさん生まれていたかもしれない……。

花より団子ではないけれど、急速な過疎化の進行という現実を前にして、誘致だ、開発だ、経済だという本音が噴出したとき、町の人たちはいったいどうするだろうか。

筆者はよそ者ながら、そんな心配をしてしまう。

過疎化をくい止めながら「美の基準」という理念を守っていくのは、なまなかなことではないと思わずにはおれないのである。

>>>後編に続く

取材・文=山田清機
撮影=飯尾佳央

山田清機(やまだ・せいき)
1963年、富山県生まれ。ノンフィクションライター。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。

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