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【盧舎那仏坐像】小さな力をたくさん集めて造った大仏(奈良・東大寺)―『仏像に会う』

仏像は見るものではなく、出会うもの――仏像にはそれぞれ、作った人、守り伝えてきた人の願いが込められています。仏像一つ一つに込められた願いや、背景にある歴史物語を知ることで、仏像との本当の出会いが訪れることでしょう。2014年まで奈良国立博物館の学芸部長を務めていた西山厚先生の新刊書籍仏像に会うー53の仏像の写真と物語(2020年10月20日発売)の内容を抜粋してお届けします。

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『華厳経(けごんきょう)』に登場する盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、「光の仏」という意味で、太陽のように、この世のすべてのものに、等しく明かりと温もりをくれる。

『華厳経』は、すべての存在は等しく尊いと説く。聖武天皇は『華厳経』を中心にして他のすべての仏典を学んでいこうという詔(みことのり)を出したほど、『華厳経』を大切にしていた。

 聖武天皇の時代は、災害が相次いだ。旱魃(かんばつ)飢饉、大地震、天然痘(てんねんとう)の大流行。多くの人たちが苦しみながら死んでいく。わが子も死んだ。

「責めはわれ一人にあり」。苦しみぬいた末、聖武天皇は盧舎那大仏を造ろうと思い立つ。

 しかし、それは、途方もない大事業になることが予想され、決心がつかない。

 天平12年(740)のある日、河内国の知識寺(ちしきじ)を訪れた聖武天皇は、仏教の信仰のもと、大勢の人たちが小さな力をたくさん集めて造った盧舎那仏を拝した。

 国家の大きな力ではなく、多くの富でもなく、民間の力、小さな力をたくさん集めて造る。そんなやり方があった。そのやり方で造ってこそ盧舎那仏は真の太陽になりうるであろう。

 程なくして、聖武天皇は、思うところがあると言って、平城京を離れる。

 まず東へ向かい、伊勢神宮に使いを送って、祖先神の天照大神(あまてらすおおみかみ)に祈りをささげた。そして北へ。

 これは曽祖父の大海人皇子(おおあまのみこ)が壬申(じんしん)の乱の際に通った道である。そのあと、大海人皇子は戦いに勝利して即位し、天武天皇として「日本」をつくり上げた。

 壊れかけている「日本」を再生するには、もう一度、初めからやり直す必要があった。

 そこから西へ。さらに南へ。ほぼ一周して平城京の近くまで戻ってきた聖武天皇は、新しい都(恭仁京<くにきょう>)を建設し始めた。そして、その北東に位置する紫香楽<しがらき>(信楽)を、盧舎那大仏を造る地に定め、紫香楽へ続く道を整備した。

 天平15年(743)に紫香楽宮で出された大仏造立の詔には「動植ことごとく栄えんとす」(すべての動植物が栄える世をめざす)とある。そして大きな力や多くの富で造るのではなく、「一枝の草・一把(ひとにぎり)の土」を手にして助力を申し出た人には協力してもらうようにとあり、小さな力をたくさん集めて大仏を造るという聖武天皇の基本方針が明らかにされた。そこには、華厳思想や、知識寺での体験が反映されている。

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◉盧舎那仏坐像
奈良・東大寺 国宝
銅造 像高14.98m
奈良時代~江戸時代 8~17世紀

 盧舎那大仏は銅で造る。そのためには、土で原型を造る。作業はまず内部の木組みから始まった。体骨柱<たいこつちゅう>(心木<しんぎ>)を立てる際には、聖武天皇もみずから綱を引いた。同じ思いを持つ行基(ぎょうき)が、仲間とともに全面的に協力してくれた。しかし、片田舎の紫香楽に住むことを望まない勢力が放火を繰り返し、運悪く地震も相次いだことで、次第に人心不安が生じ、聖武天皇は平城京に戻ることを決断する。そして病んだ。

 それでも、盧舎那大仏を造ることはあきらめない。平城京において新たに選ばれた聖地が、金鍾寺<こんしゅじ>(→金光明寺<こんこうみょうじ>→東大寺)だった。

 天平勝宝4年(752)4月9日、出来上がった盧舎那仏に魂が入れられて、大仏はついに完成した。

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 それから428年後、平氏による焼き打ちにより、東大寺の伽藍の大半は失われた。

 大仏の頭と手は地に落ち、体は溶けて塚のようになった。それを見た工人たちは、再造は「人力の及ぶ所に非ず」と述べた。大仏復興は不可能かと思われた。この時、重源(ちょうげん)が登場した。

 朝廷は、重源に勧進による復興を命じた。勧進とは広く寄附を募ること。重源が作成した勧進状には「尺布寸鉄(しゃくふすんてつ)といえども」とある。

 端裂(はぎれ)や鉄釘一本でもいい。わずかな寄附をたくさん集めていくやり方は、聖武天皇による大仏造立(ぞうりゅう)の精神に立ち返ることを意味していた。

 文治元年(1185)、完成した大仏に魂を入れる開眼(かいげん)の儀式がおこなわれた。

 それから382年後、大仏はまた焼かれた。大仏の頭は溶けてお湯のように流れたという。

 なんとか体部は造ったが、木製の仮の頭部をのせ、大仏殿がない状態で百年が過ぎていく。

 これを復興したのが公慶(こうけい)だった。公慶の勧進状には「一針一草(いっしんいっそう)の喜捨」を募るとあり、聖武天皇の精神が、なおも受け継がれていることがわかる。公慶は、聖武天皇像を造って天皇殿に安置し、重源像を安置するために俊乗堂(しゅんじょうどう)を建てた。現在の大仏の顔は公慶が造ったもの。

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おみぬぐい

 元禄5年(1692)、大仏開眼の法要には、各地から群衆が押し寄せた。江戸時代の大仏復興を機に、観光都市奈良が形成されていく。

 それから13年後、公慶は、大仏殿の完成をみることなく、訪問先の江戸で急死した。

文=西山 厚  写真=許可を得て著者が撮影したもの

西山 厚(にしやま あつし)
奈良国立博物館名誉館員、半蔵門ミュージアム館長、帝塚山大学客員教授、東アジア仏教文化研究所代表。徳島県鳴門市生まれの伊勢育ち。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館で学芸部長として「女性と仏教」など数々の特別展を企画。奈良と仏教をメインテーマとして、人物に焦点をあてながら、さまざまなメディアで、生きた言葉で語り、書く活動を続けている。主な編著書に『仏教発見!』(講談社現代新書)、『僧侶の書』(至文堂)、『別冊太陽 東大寺』(平凡社)、『語りだす奈良 118の物語』『語りだす奈良 ふたたび』(いずれもウェッジ)など。

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