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トルコにバロック建築がある!?|魅惑のオスマン美術史入門(2)|イスタンブル便り

この連載「イスタンブル便り」では、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、すっかりオスマン美術史に魅了された筆者が、トルコへ留学を決意し、留学・奨学金試験を受けるまでの道のりについて。目の前に次々と沸き起こるハードルをいかにして超えたのか……。

トルコのことを研究する。

星山晋也先生に背中を押されて、人生にそういう方向があるということを示された。だが、右も左もわからない。大学四年生になった、春のことだった。

先生がコピーしてくれた英語の世界美術百科事典 『Encyclopedia of World Art』の項目、Turkeyは、当然ながら英語で書かれていた。トルコのことを勉強しようとすると、文献は英語なのか。その事実に愕然としていた。

外国のことを学ぶのだもの、当然だ。しかしそれを知っているのと、実際にやる、というのは、大違いだ。だがどうやら道はそれしかないらしい。仕方がない。腹を括った。同時に、わたしは図書館に入り浸りとなった。「トルコ/Turkey」というキーワードから、日本で手に入る限りのあらゆる文献を探した。

しかし、完全にわたしの知りたいことが書いてある書物には、なかなか巡りあわない。イスタンブル旅行の最終日、わたしの興味を強烈に惹いたドルマバフチェ宮殿。なぜ西洋式のこの宮殿が、トルコの地で作られたのか?トルコの建築史のなかでも、特殊なものだ。

19世紀半ば、オスマン帝国の近代化の象徴として建設されたドルマバフチェ宮殿。これはつい先日撮った写真、イスタンブルは今、チューリップの季節である。

そのうち、次のようなことがわかってきた。19世紀の近代化の時代は、「トルコ建築史」の中では、邪道とされている。西洋の影響を受けた建築は、 「純粋なトルコ建築」ではない、らしい。むしろ、忌むべきもの、トルコ建築の堕落、とさえ、思われている。

トルコに行く前、もともと同時代の明治に興味を持っていたわたしは、驚いた。明治から大正浪漫、昭和への流れは、日本では研究者も多くいるし、少なくとも「堕落」と捉えられてはいない。

それはなぜだろう? 日本では、近代化は肯定的に語られる。日本の現代``建築が、 いわゆる世界の「近代建築史」のなかで、ある程度の地位を保っているからだ。メタボリズム、ポストモダン、脱構築。日本の建築家たちは、世界で時代時代を反映する建築を牽引する理論も構築してきた。近代建築の評価とは、現在から見た過去のつじつま合わせである。

そんなことが薄々感じられるようになってきた。でも、わたしが知りたいのは、日本でなくて「トルコの」、その部分だった。それに。では「純粋なトルコ」とは、一体なんだろう? かつては「オスマン・トルコ」と呼ばれていたが、オスマン帝国、とは、そのままトルコ共和国ではない。「トルコ」以外のさまざまな民族が共存する、多民族国家だった。その点も、日本人にはかんたんに測り難い謎である。

そうこうするうちに、一冊の本を見つけた。外国の出版社の、新刊カタログの中だった。美術史の学生が溜まり場とする専修室には、そういうカタログが置かれているから、みるといいよ、と先輩から教えてもらったのだった。
たしか、当時助手だった益田さん(益田朋幸早稲田大学教授、ビザンチン美術)だったか、ドイツ美術史研究の安松さん(安松みゆき別府大学教授)だったように記憶している。

『A History of Ottoman Architecture』(オスマン建築史)。イギリスの出版社から出ている本は、日本では手に入らない。注文すれば取り寄せられることを教わった。トルコ語講座をようやくのことで見つけて習い始めた頃だった。

数ヶ月後、届いた。大学生協で受け取ったその本は、美しかった。黒地に白抜きの文字、表紙には美しい装飾が施されたドームの写真。5センチほどの厚みのある、大判の分厚い本である。遠い異国からはるばる来た本。その重みを抱えて、わたしは胸がいっぱいになった。

これを読めば、オスマン建築の謎に、近づける(はずだ)。嬉しさではちきれそうになりながら、文学部キャンパスのメタセコイアの並木路を歩いたのを、今も鮮明に覚えている。明日から夏休みになる、ちょうどその日だった。

留学で日本を発つ時、限られた手荷物の中に入れてトルコへ持参したグッドウィン教授の本。現在はイスタンブルの自宅の書棚に鎮座している。

日本の図書館に、他にオスマン建築の概説書がなかったわけではない。だが、わざわざこの本を注文したのは、カタログの説明に、こう書かれていたからだ。「本書は、通常重視されない18世紀の<オットマン・バロック>に焦点を当てたものである」。

オットマン・バロック。

それは、オスマン建築が西洋と出会い、独自の進化を遂げた結晶である。現在では、「オスマン・バロック」として建築史の中でも定着している。だが、当時は新しすぎて、突飛、あるいはオスマン建築の<堕落>とさえ見る保守的な歴史家も多かった。むしろ、それが大半だった。

著者はゴッドフリー・グッドウィン。話は逸れるが、遠い遠い世界の人としてわたしの人生に入って来たこの人物と、のちに知遇を得た。絵に描いたような品のいい痩せぎすの英国紳士で、美しい英語を話した。不思議なご縁がある。博士号取得後、わたしが初めて教えたのは、なんと恐れ多くも、このグッドウィン教授が過去に教えた講座「三首都の建築史」だった。

結婚後、ある夕方、ボアジチ大学キャンパス内の森の中を一人で散歩していると、グッドウィン教授にばったり出会った。一対一で話をするのは初めてだったが、その時、初めて買ったこの本の話をご本人に伝えることができたのは、ほんのひとときの幸運だった。 イスタンブル滞在中に、ぜひお茶にいらしてください、とお誘いしたが、果たせないまま亡くなられてしまったのは、心残りである。

グッドウィン教授とばったり出会ったボアジチ大学キャンパスは、ボスフォラス海峡の絶景を望む美しい場所にある。

閑話休題。

基本文献を手に入れたはいいが、道のりは険しかった。英語の障壁が依然としてあるのはもちろんだ。それに加えて、オスマン建築のモスクは、見分けがつかない。どれもみな丸いドームがあって、どれにも鉛筆のようなミナーレ(光塔)がついている。平面図も、立面図も、建築を学んだことのないわたしにはチンプンカンプンである。その上に、専門用語である。パンダンティフ・アーチやらスキンチ・アーチやら、一体何のことかわからない。「プラットホーム」と言われても、駅のホームのこととしか、思えない。

初期オスマン建築の名品、エディルネのエスキ・ジャーミイのドーム。四角の平面の角を埋めて作るスキンチ・アーチは、実現可能なドームの大きさに限界がある、中世の技術。

そんな時、わたしは何をしたか? まずとにかく単語の意味を調べた。次には一文の意味がわかるようにした。 のろのろと、ただひたすらに、目の前の一文だけがわかるようにしていったのである。まるで修行である。

もっと賢かったら、色々なことがすぐにわかるのだろう。いつも歯がゆく思う。けれども、わたしにできることは、目の前の小さなことを、まず解決することだった。その方式は、ゆっくりだけれども、諦めずに続ければ、しばらくするとそれが蓄積となる。

どうにかこうにか書き上げた卒業論文は、「オスマン・トルコの建築に見るバロック」。そのまま大学院に進み、修士論文でようやくドルマバフチェ宮殿をテーマにした論文を書いた。

トルコ語で書いた博士論文の指導教授となった恩師、アフィーフェ・バトゥール先生とわたし。トルコ近代の建築家、ナズミー・ヤヴェル・イェナル(1904-1987)回顧展覧会のオープニングにて、建築家の自画像の前で。2017年。

その過程で、トルコでの恩師、2018年に逝去されたアフィーフェ・バトゥール先生に出会った。オスマン建築の19世紀、近代建築研究の草分けであり、泰斗である。今では自分の職場となったイスタンブル工科大学建築学部、タシュクシュラ校舎の先生の部屋に初めて訪ねた時、わたしは一も二もなく、「留学したいので指導教授になってください」と頼んだ。その頃にはもう、留学する以外にこの道を続ける方法はないとわかっていた。

わたしの現在の職場となったイスタンブル工科大学。オスマン帝国時代の兵舎だった建物には巨大な美しさがある。猫が自由に歩いているところがイスタンブル的。

第一外国語がフランス語のアフィーフェ先生とは、フランス語で話したような記憶がある。先生の答えはこうだった。

「いいでしょう、でもまず、トルコ語を習得しなさい。研究に使えるレベルでね」

イスタンブル工科大学建築学部、タシュクシュラ校舎の現在の様子。
イスタンブル工科大学建築学部、タシュクシュラ校舎。アフィーフェ先生の部屋のあった、建築史専攻室のドア。入り口にビザンチン時代の柱頭がごろりと横たわる。現在、ここにわたしの研究室があるとは、不思議な感じがする。

* * *

留学のチャンスがやってきた。トルコに留学するにはいくつかの奨学金があった。トルコ政府給費留学生、企業の奨学金、そして第一希望は日本政府の「文部省(当時)アジア諸国等派遣留学生」だった(今思ってみれば、この奨学金が初めて適用、支給されたのは、のちにわたしが本のテーマとした、伊東忠太だ )。博士課程の学生対象の、国費留学である。 書類審査があり、面接に呼ばれた。

初めて足を踏み入れる文部省のいかめしい建物、どんな格好をして行ったのか覚えていないが、おそらく着慣れないスーツで窮屈な思いをし、周りの人がみんな賢く偉く見える。たしか数人一緒に面接を受けた。

部屋へ入ると、面接官の先生がたの人数の多さに驚いた。せいぜい4~5人と勝手に予想していたのが、広い部屋に、ずらりと10人くらいいる。それに加え、いろいろな係官がたくさん控えている。まずそれに圧倒された。そして全員がすごく怖い顔で、にこりともしない。冷や汗が出る、とはこのことである。

わたしの番になった。面接官は、全員書類に目を落とし、質問が始まった。

「青木さんね……。えー、通常の留学奨学金は一年ですが、この奨学金は、二年間あります。えー、これに受かったとして、あなたね、二年も何するんですか?」

質問に驚いた。わたしの知りたいことは山のようにある。何年かかるか、一生かかってもわからない、と思っているのに、たった二年で何が学べるというのだろう?

思わず口をついて出た。

「二年では足りないくらいです!」

その瞬間、面接官が全員顔を上げて、わたしを見た。

(続く)


文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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