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自分を空っぽにする旅:アナトリアの大平原疾駆の自動車旅行2600キロ|イスタンブル便り

この連載イスタンブル便りでは、25年以上トルコを生活・仕事の拠点としてきたジラルデッリ青木美由紀さんが、専門の美術史を通して、あるいはそれを離れたふとした日常から観察したトルコの魅力を切り取ります。人との関わりのなかで実際に経験した、心温まる話、はっとする話、ほろりとする話など。今回は、トルコの世界遺産への旅をお送りします。

「ねえ美由紀さん、トルコに行くから、一緒に旅行しない?」

そういうことになったのは、この6月、コロナ後3年ぶりに帰国して、東京のみどりさんの家だった。
あとから聞いたところによると、責任あるプロジェクトを抱えていた彼女は、何か大きな楽しみがないと乗り切れないと思ったそうだ。仕事の手が離せないパートナーのN氏はお留守番で、一人息子の小学四年生、あおくんと二人でくる。そう話しているうちに、 あおくんの同級生の、なつめちゃん一家も一緒に、ということになった。わたしにとっては初対面である。

頭に浮かんだ行き先は、ディヴリーイとハットゥシャだった。
中世イスラーム建築の突然変異種ともいえるディヴリーイ、鉄の精錬技術を持った古代ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャ。トルコにある17のユネスコ世界遺産のなかでも、比較的知られていないものだろう。何かのついでに行くには難しい場所にあり、わざわざ、そのために日程を組む必要があるからだ。
住んでいると、いつでも行けると思ってなかなか行かないものである。
コロナで「思い立った時に旅行ができない」となった時、骨に沁みて思った。トルコに住んでもう30年近くになるのに、行ったことのない場所がたくさんある。そのうちの筆頭が、上記の二つだった。
しかし、子供たちにとっては初トルコ。
トルコに初めてくる人を、そんな玄人好みすぎる場所に連れて行くのはいかがなものか。そこで、外せないカッパドキアは各自見てもらうことにして、途中から合流とした。

路上で食べた昼食、羊の丸焼き。口に入れた瞬間とろりと溶け、絶品。自分史上ベストだった。

              *   *  *

ところで、わたしは車を運転しない。そもそも、免許を持っていない。したがって、自動車旅行といえば自動的に運転手はパオロ騎士ということになる(騎士なのだから当然だ)。今回の旅行は、自宅のあるイスタンブルから出発する心づもりをしていた。するとパオロ騎士が言いだした。「エーゲ海の街に行って、そこを起点に出発しよう」。なんでも、イスタンブルからアンカラに行く幹線高速道路は、イスタンブルの出口がいつも混むから嫌なのだそうだ。
しかし、エーゲ海の街からディヴリーイまで直線距離にして1300キロ、往復2600キロ。日本で言えば、ざっと福岡から福島まで往復するくらいの距離だ。それを、3泊4日で行くのである。あまりにもタイトなスケジュールになるのではないか。そういうと、パオロ騎士は言い放った。「でも、運転するのは僕だ。僕がいいっていうんだから、いいんだよ。そのルートで行こう」。

出発起点としたエーゲ海の街。
エーゲ海の風景。向こうの島に見える廃墟は、ギリシャ正教の修道院。

エーゲ海の街からの出発は、朝6時半。
南下して、古代都市ペルガモンことベルガマを通り(これも世界遺産だが今回は素通り)、一気に東に進む経路だ。ここからコンヤ北東の塩湖に一泊、翌朝カイセリの西、カッパドキアのネヴシェヒル付近で日本からの一行と合流し、一緒にディヴリーイまで行って一泊、翌日シヴァス経由でハットゥシャ、そこで別れて日本組は飛行機でエーゲ海岸の街へ移動、われわれはその夜のうちに進めるところまで進み、一泊して翌日夜までにエーゲ海で合流の日程とした。理論的には、だいたい一日5~6時間のドライブの行程である(もちろん実際は、そうではなかったが)。
だが、ふと頭に浮かんだ。ディヴリーイは訪問可能なのだろうか。日本からわざわざやってきて、みられない、などということになったら、目も当てられない。急に不安になった。
インターネットで調べてみると、嫌な予感が的中した。なんと、現在補強修復工事中で、3年間、内部は見学不可能というのだ。

7月、イタリアの小さな村に滞在中、ディヴリーイ町役場に電話してみた。
「あの、今度、日本からわざわざ来たいという人たちがいるんです(友人をダシに使うとはこのことである)。わたしも今イタリアにいますが、同行します。修復中とのことですが、作業が終わった後などに、なんとか見せていただけないでしょうか」。
電話に出た女性は、「普通は閉まっているんですが、そういうことでしたら町長に相談してみましょう。日が近くなったらまた電話してください」。
その後何往復かのやり取りのあと、調査見学の一環としてめでたくゴーサインが出た。
あとから判明したのだが、ディヴリーイ大モスクと病院を世界遺産にした立役者、昨年亡くなったトルコ建築史の碩学、ドアン・クバン教授のおかげだった。不肖の孫弟子、同じ大学、同じ専攻で、わたしは頼りなくその後を引き継ぐ立場にある。

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トルコ自動車旅行の醍醐味は、大きな大きな風景に出会えることだ。
エーゲ海からアナトリアの懐に入るにつれて、オリーブ畑と緑の多い景色から、真っ青な空と枯れた草色にくっきり分かれた、乾いた大地が続くようになる。

舗装のない道をゆく。
アナトリアで出会う、真っ青な空と、乾いた大地。

コンヤ北東のトゥズギョル(塩湖)に行く途中、幹線道路を離れ、アスファルト舗装のない道を延々と走った。土埃で、車も真っ白、視界も効かない。左右は見渡す限りの麦畑、インターネットはほぼ通じない。 自分が正しい道を正しい方向に行っているのかもよくわからなくなる。
ときどき忽然と、人の住む集落が登場する。しかし、グーグルマップにはない道だったりする。
困難といえば困難である。だが、その疾駆の最中、突然とてつもなく自由な気分になった。
“進む、食べる(休む)、正しい方向か確認する。”
長距離の自動車旅行は、関心が次第にその三つのことに集約されるようになる。それ以外のことは、あまり重要ではない。疲れも手伝って、脳が麻痺したような状態になるのだ。正しい方向へ、正しい速さで進んでいるか。日々の由無よしなし事は当面彼方に押しやって、その削ぎ落とされたシンプルさがたぶん、人を空っぽにしてゆく。ジャック・ケルアックが『路上』で描いたような、疾駆の快楽に、われわれはとりつかれ始めていた。

だが旅情に浸る暇はない。
日暮れまでに宿泊地にたどり着かなければならない。というのも、塩湖のほとりで、遊牧民のテントに泊まることにしていたからだ。暗くなってからでは、宿の場所がわからなくなる。
トルコに遊牧民がいなくなって久しいが、遊牧の旅とはもしかしたら、進むということ、移動するということそのものに、定住するわれわれとはまったく違う、生き方の姿勢があったのかもしれない。
結局日の入りには間に合わなかった塩湖、薄れゆく光の中でたどり着いた真っ白な塩の世界は、天か地かわからない、この世の果てのように見えた。

夕陽の残照の中で見た塩湖。不思議な形の雲と、天も地も距離の感覚もなくなってゆく浮遊感、凄絶な色彩。
乾いてひび割れた塩の大地から、ところどころ植物が生えている。生命の力。
塩湖での宿泊は、自然保護地区で建設禁止のため、遊牧民のテント。
テントといっても内部はモダンで、近代的なコンフォートを備えている。洒落たレストランが併設され、地元のワインも楽しめた。

イスタンブルには、1453年以前の「イスラーム建築」は存在しない。
それもそのはず、1453年、オスマン帝国によるイスタンブル征服(同じ事象は、「コンスタンチノープルの陥落」とも言われる)より以前、この街はビザンチン帝国、つまり、キリスト教帝国の首都だったからである。
そのせいもあるだろう。こと「イスラーム美術」に関して、長らくイスタンブルにいると、知らず知らずのうちに見方が偏っていることに気づく。セルチュク朝が支配するアナトリアの一君候国だったオスマン帝国の建国は1299年。オスマン帝国の歴史とは、そこからいかに抜きん出、 海のあるイスタンブルを勝ち取ったか、の成功物語である。美術の流れを帝都イスタンブルから俯瞰すれば、 多種多様有象無象だったものが、強い帝国のパトロネージとともに、「オスマン帝国的」と言える一つの様式、美意識として完成されていく、という大きな筋道がある。

ところが、アナトリアはそう一筋縄ではいかない。成功物語の陰画として、枝分かれして途絶えてしまったもの、消えてしまったもの、いわば「敗者の歴史」の存在に思いをいたすことになる。
行きたいと思ったディヴリーイは、ちょうどそんな存在である。
セルチュク朝が、大帝国としてアナトリアを淘汰する過程で、一つだけ生き残ったエアポケットのような王国。今はもう亡き、メンギュジェックという王朝の遺産である。12~13世紀、日本でいうと鎌倉時代ごろの話だ。そして謎がある。なぜこのディヴリーイという場だったのか、という点だ。
実際に行こうと思って調べてみて驚いた。シヴァス・ディヴリーイといつも言われるので、シヴァスの「郊外」、せいぜい車で2、30分の距離だと勝手に思っていたら、大間違い。現在の中心都市シヴァスから、2時間半もかかる場所にある。
そんな辺鄙な、というと失礼だが、その後歴史の表舞台に出ることもなかった場所に、忽然としてパリのノートル・ダム大聖堂のような大伽藍が残っている。

ディヴリーイの大モスクと病院、病院の入り口部分。この装飾性は圧倒的だ。
細部を見れば見るほど、そのイマジネーションに魅入られる。
病院とは精神的疾患のためのもので、治療は音楽療法だったという。水の流れる音を患者に聴かせるため、さまざまな形の流水経路、水盤がある。

ディヴリーイ大モスクと病院の複合施設は、1985年、ユネスコ世界遺産の登録が始まった際、アヤソフィアやブルーモスクのあるイスタンブルの歴史的半島とともに、最初に登録されたたった二つの遺産のうちの一つである。つまり、トルコが国として一押しで重視した文化遺産、ということになる。
そういえば、親しい友人、オヤは、ディヴリーイについて論文を書いていた。彼女は世界的に知られる専門家である。行く前に、電話して聞いてみた。

「ねえ、ディヴリーイの大モスクは、なんであの場所に、ディヴリーイに造られたの?」
「いい質問。じつはね、専門家の間でもよくわかっていないのよ。」

一瞬の空白の後、オヤは次のような話をしてくれた。
ディヴリーイは、メンギュジェック王国の中心都市だったわけではない。首都はディヴリーイの東、トルコ東部のエルジンジャン。だが、度重なる地震で町全体は何度も崩壊し、なんの跡も残っていない。現在のエルジンジャンは、全然違う場所に新しく造られた街だ。だから、大モスクの建設を跡付ける文書も、建物の入り口に刻まれたキターベ(建造銘)の他、ほとんどないのが専門家泣かせなのだという。
しかしなんらかの理由で、メンギュジェック王国の王女トゥーラン・メレッキが、いとこと思われる(夫との通説には確証がないのだそうだ)アフメット・シャーとともにディヴリーイにやってきた。そして、大モスクと病院の複合施設を寄進した。
興味深いのは、メンギュジェック王国が滅び、セルチュク帝国に統合された後も、ある程度の経済力を保ち、その家名は存続したとのことだ。その経済力は、鉄の生産か、それに関連する事業だった、とオヤは推察している。
ちなみにディヴリーイは現在でもトルコ有数の鉄鉱石の産地で、共和国建国最初期に国立の鉄鉱石採掘場が作られた地だ。人口は鉄鋼産業に従事する人が多い。
冒頭で突然変異種、と書いたが、美術史的には、周辺のどこのものにも似ていない、大胆な幾何学構成、立体表現、精妙な石彫りの装飾が見どころだ。 同時代の、セルチュク建築の石彫り細工でさえ、これに比べると平板な感じがしてくる。だがよく考えれば、王国の首都エルジンジャンに残っているものがない以上、これが「突然変異」なのかどうかはわからない。首都にはこれに似た、あるいはこれを上回る建造物が、櫛比しっぴしていた可能性もあるのだ。
美術史は今残っているモノを対象にするが、今はもうここにない、あったかもしれないモノへの想像は尽きない。
突飛に思えるかもしれないが、土埃の道の果てにたどり着いたディヴリーイの大モスクと病院は、わたしの眼には、まずスペインのトレドのイスラーム的建築、細かく見ていくと、インドのアジャンター石窟寺院で見た蓮の花の天井装飾を思い起こさせた。
ディヴリーイの石彫り装飾には、いわゆる「イスラーム建築」に典型的とされる幾何学紋、植物紋のほか、キリスト教の象徴である十字架まである。建設に、ムスリムだけでなくアルメニアのキリスト教徒の石工集団も関わっていた可能性が指摘されている。
実際、そういう例はディヴリーイだけでなく至るところにある。「イスラーム建築」というラベルだけでものを見ることがいかに表層的か、を考えさせられる。

              *   *  *

なつめちゃんのお父さん、修一さんの運転する車でカッパドキアからやってきた日本隊と無事合流した。ディヴリーイの病院はお姫様が作らせた、というと、目を輝かせたなつめちゃんとあおくん。

「トルコはどう?」
「すっごい楽しいです!」
「どこが気に入ったの?」
「犬や猫がどこにでもいるところ!」

聞けば、カッパドキアで子供達は洞窟そっちのけで、動物たちと親しんでいたらしい。ディヴリーイでも、レストランで人懐っこくついてくる犬と仲良しになっていた。大人では気づかない角度からのトルコの魅力を、子供達に教えてもらった。

シンプルな路上の昼食、その2。細かい牛角切りと野菜の載ったピデは、サクサクと軽い生地だった。ミントやハーブの入ったヨーグルトと、トマト、きゅうり、ししとう、玉ねぎのみじん切りで作る定番「羊飼いのサラダ」が添えられていた。

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ディヴリーイに行く途中、出会った雄大な風景。遠くに、集中豪雨の雨柱が見えた。この辺りの標高は1200メートル以上。

返す刀、ならぬ、帰りの道は、古代ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャを目指すルートをとった。
古代、と一口に言っても、ヒッタイトは紀元前17世紀から13世紀ごろ、日本で言えば縄文時代後期ごろの話である。本格的な発掘の開始は1906年、ちょうど日本の建築家、伊東忠太がオスマン帝国を訪れた翌年のことで、ドイツの調査隊による。このころのオスマン帝国でのヨーロッパ列強の考古学発掘合戦について、ご興味のある向きは、拙著『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』のご一読を。
古さ比べはナンセンスとは思うが、参考までに言えば、トルコには人類最古の都市と言える規模の居住跡がある。チャタルホユックが約一万年前、それより古いギョベックリ・テペの祭祀構造物が一万一千年前とされる。それに比べると、ヒッタイトはずいぶん新しい「古代」といえる。 昔から、ヒッタイトは鉄を発見した民族として有名だったが、最近の考古学の発見によれば、鉄をヒッタイトの独占とするのは誤りで、同時多発的に、緩やかにいろいろなところで少しずつ広がっていたようだ。

「ミーナちゃんと一緒の車に乗りたい!」と、私の娘とすっかりうちとけたなつめちゃんをわが家の車に迎え、そんな予習をしていたら、時差ぼけのなつめちゃんはスヤスヤと夢の世界へ。小学生には、ちょっと専門的すぎたかもしれない。
シヴァスで昼食後、紫に近いような深い赤銅色の岩山が見え始めた。ヒッタイト帝国がクズルウルマック(「赤い河」の意)のほとりに発達したというのも、なるほど、と思う。

紫に近いような赤銅色の岩山。

そこまでは良かったのだが、甘かった。たどり着くのに、道に迷った。グーグルになんて載っていない道である。道無き道をゆき、村人に尋ね尋ね、最後にはトラクターの道か? と思われる、かなりワイルドなところで這々の体で引き返した。

シヴァスの中心部に残るチフテ・ミナーレリ(「対の光塔のある」の意)神学校は、チンギス・ハーンの孫、フラグが創始したモンゴル帝国、イル・ハン朝時代の建築、1271年竣工。 さまざまなイスラーム王朝が割拠したことが肌で感じられる。
建物本体は残っておらず、現存するのはこの写真に見えるファサードの裏側(内部)の構造と、画面には写っていない広大な基礎部分の遺構のみである。

長年発掘考古学者の宿を務めるホテルで一泊し、仕切り直しで翌朝。宝塚歌劇の原作にもなった人気漫画「そらは赤い河のほとり」の作者、篠原千絵先生と、現地からヴィデオ通話でつないだ。日本のご自宅にいる篠原先生と繋いだまま、見どころの獅子門を一緒に歩きながら、「この門の後ろに広がる風景を初めて見たとき、ここを舞台にした作品を書こうと決心しました」と聞いた。それがミリオンセラーの誕生秘話かと思うと、鳥肌が立った。

ハットゥシャ遺跡の見どころのひとつ、獅子門。巨石の質量が迫る。獅子の彫刻の部分は右側がオリジナルで、左側は2011年に再制作されたレプリカ。

ヒッタイトの聖地ヤズルカヤ(トルコ語で「文字岩」)に後ろ髪を引かれながらまっしぐらにエーゲ海へ。途中、公会議で知られる古代ニケーア(現イズニック)にほど近いイズニック湖のほとりで、湖から獲れたナマズ料理で夕食を認め、真夜中前にエーゲ海に帰着した。3泊4日89時間、走行距離約2600キロ。
振り返ってみれば、目的地の滞在時間より、移動の方が長いような旅だった。トルコの抜けるような青空と、大地と。その激しい移動は、自分が空っぽになったような、爽快な感じをほんのひとときもたらしてくれた。
身体はへとへとに疲れたが、なんだか清々しい気分になって、新学期を迎えられそうである。

文・写真=ジラルデッリ青木美由紀

ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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