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白樺派の作家・長与善郎の心を動かした東福寺の紅葉の海|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、時代を超えて人々を惹きつける古都の魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第6回は円熟期を迎えた白樺派の作家・長与ながよ善郎よしろうにこれまでの価値観を変えるほどの影響を与えた東福寺の紅葉です。

 京都の秋といえば紅葉。盛りを迎える11月には、毎年、多くの旅人が古都を彩る紅葉を楽しむために、京都の街を訪れています。紅葉の景勝地の多い京都ですが、美しさという点で五本の指に数えられるひとつが、東福寺通天橋から眺めた紅葉でしょう。JR東海の「そうだ 京都、行こう。」のCMにも登場した名所です。

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 1930(昭和5)年11月17日。一人の作家が東福寺の紅葉見物にやってきました。大正から昭和にかけて活躍した白樺派*の小説家、劇作家の長与善郎(1888~1961)です。代表作である小説『青銅の基督』は、キリシタン迫害の悲劇を描いた傑作として高く評価され、映画や舞台に何度も取り上げられています。

白樺派* 学習院出身者たちが明治43(1910)年に刊行した雑誌『白樺』を中心とした文学一派。社会の醜悪な部分も含めて描いた自然主義に対し、自己を肯定的にとらえ、自己実現を追求した。メンバーは武者小路実篤を中心として志賀直哉、有島武郎、柳宗悦むねよしら。

 前日まで奈良の志賀直哉宅に滞在していた長与は、次の目的地である城崎・天橋立に向かう途中、京都駅で途中下車。空き時間を利用して東福寺の紅葉を見ようと車を走らせました。42歳になり、作家として脂ののりきっていた長与にとって、東福寺は初めて訪問する場所です。

東福寺にはかねていいものがあることを知っている。境内の風光はどうか知らぬが、少くともその宝物を見得ればよいと思ったところ、宝物は見せぬと玄関で断られた。そのかわり通天の紅葉は実に見頃であった。

いかなる由緒の寺か、真宗か禅刹ぜんさつか、それさえ不案内な物識らずなのだが、この通天の紅葉なるものの美しさは宝物などを見られぬでも沢山すぎるほど、まさに素晴らしい一幅の絵であった。

 東福寺は臨済宗東福寺派の大本山。禅宗の寺院です。創建は13世紀。奈良の東大寺の「東」と興福寺の「福」から東福寺と名付けられました。たびたび火災に遭いながらそのたびに再建され、江戸時代には幕府の保護もあって、京都最大の禅苑として偉容を誇ってきました。

 通天橋は、本堂と開山堂を結ぶために境内の渓谷・洗玉澗せんぎょくかんに架けられた屋根付きの橋です。長さは約27m、幅は約2.7m、川面からの高さは約10.5mあります。初代の橋は14世紀に造られましたが、1959年の台風で崩壊。現在の橋はその2年後に再建されたもの。長与が訪れた時には、まだ室町時代の橋廊が健在でした。

通天橋 紅葉006

東福寺・通天橋からの紅葉の眺め

第一、 地形が申し分なき形勝である。次にその地形に配置した結構の調和が妙を得ている。こういう名勝がすべてそうであるように申し分なき自然と、申し分なき人工とが何百年という星霜の苔を通して完膚なく一つに融け合い、落ちつききっている。

回廊の如きこの橋は後で聞けば、よく京染模様などにもなっており、通天といえば浄瑠璃にまで慣染なじみのある五山の一との由、さてこそと思われた。

 通天橋の周辺には、東福寺の開山・聖一国師(円爾弁円えんにべんえん)が宋から持ち帰ったと伝えられる三ツ葉楓などが約2000本以上植えられています。秋のシーズンに橋上から眺めれば、眼下に紅葉が広がって、まるで紅葉の海原の上にいるような京都屈指の景観が味わえるのです。

臥雲橋 通天より004

この下の渓谷がゴミ捨場同然で、普段はいかにもきたないとのことであったが、これも運良く絶好の機に恵まれて、両岸の寂びた錦と、そのデコラティーヴな枝ぶりの下に心地よげに酒をあたためる男女の悠暢ゆうちょうなること、はては一杯機嫌に起って舞い出した風流な婆さん連の手ぶり足取りなどに好奇の眼を奪われて、穢いものなどに眼をとめる余地はない。

もとより市井の中のことであるから、高雄、栂尾とがのおほどの深山幽谷の重畳した壮観とは趣はちがうが、これはこれでまたいかにも京都らしく洗煉された一種古雅こがな美術品として、清水などの比ではないと思えた。

 もちろん、現在の洗玉澗の渓谷にゴミなど落ちていませんが、長与が訪れた昭和初期は人々の環境への意識は今より低かったのかもしれません。それでも、紅葉の下で宴を楽しむ一団もあって、東福寺の賑わいがよく伝わってきます。

 京都の紅葉の名所としては高雄や栂尾、貴船、大原など、街から離れた山里も有名です。鹿の鳴く声も聞こえてきそうな深山の紅葉も趣がありますが、東福寺のような街場の紅葉はまた別格です。長与は東福寺の紅葉を「古雅な美術品」と称え、清水寺の紅葉よりも遙かに上とみたようです。

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通天を渡って、緩やかに屈折した石段を登る左右の苔は、よく天鵞絨ビロードのようだと普通に形容するが、まさに文字通り白緑の天鵞絨の如く、滑らかである。

突き当った祖師堂には勅諡ちょくし(勅命による諡号)聖一国師の額がかかっている。聖一国師とは誰のことか知らぬし、別段大した書でもないようであるが、この堂に詣でて、自分ははじめてかかる神社仏閣というものにむかって自然に脱帽する心持ちをあじわった。

その祀ってある仏とか神とかに対してではない。ひとえにその寺そのものの美しさに対してである。「なにごとのおわしますかは知らねども……」というそんな大そうな感じでなしに、ただ自ずと帽をり、敬礼したくなったのは我ながら不思議な思いであった。

通天橋 紅葉014

 通天橋を渡り終えると回廊は右折し、さらに左折して緩やかに登っていきます。左右の庭の苔が美しく映えています。やがて、回廊は開山堂(祖師堂)の入り口に達し、石畳の道は庭に導かれます。突き当たりの堂の最奥には、東福寺を開いた聖一国師の尊像が安置されていますが、残念ながら非公開です。

 しかし、長与はそこに何かを感じたのでしょう。初めて「自然に脱帽する心持ち」を持ったと言うのです。しかも、仏や神という宗教的なものに対してではなく、ただ「寺そのものの美しさ」に心を動かされたのです。「我ながら不思議」と彼は記しています。

通天橋 紅葉016_2

ローマのセント・ピーターとか、ミランミラノの本寺とかいう建築に面したなら、やはりこうした気持ちがおおいに起るのかも知らぬと思った。が、これは荘厳とか神々しいとかいういわゆる襟を正す敬虔な感じとはまたちがい、もっといい気持ちで、楽に怡悦いえつして、礼を払いたくなるのだ。この愉快な経験もまた一つの図らざる獲ものであった。

 長与は、肥前大村藩に代々仕える漢方医の家系に生まれました。父の長与専斎は幕末から明治に活躍した医学者で、緒方洪庵の適塾で福沢諭吉の後任の塾頭を務めた逸材です。

 8人兄弟の末子である長与は医学には進まず、学習院高等科時代から思想書・文学書にめざめ、3歳年上の武者小路実篤の勧めで「白樺」の同人に加わり、文学者の道を目指します。武者小路や志賀直哉、有島武郎らとの交遊は長与には大きな刺激となっていたことでしょう。

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長与善郎直筆の草稿『個展を催すに当って』(右)と短冊『つまり私は 人間に触れたいのだ 必ずしもその群集にではない 長與善郎』(左)。
出典:玉英堂書店

 作家として、まさに円熟期を迎えようとしていた長与の心を動かした東福寺の美しさ。紅葉の時期には、早朝や夜間の特別公開も企画されています。この場所に立った時、あなたならそこに何を見つけ、何を感じるでしょうか。

出典:長与善郎『自然とともに』「橋立遊記」
写真提供:東福寺

東福寺
*2021年11月28日まで早朝拝観、30日まで夜間拝観を実施しています。
https://tofukuji.jp/

文:藤岡比左志

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作庭家・重森三玲みれいが手がけた本坊庭園。切石と苔で表現された市松模様が、大ヒットしたアニメ映画「鬼滅きめつやいば」で主人公が着ていた羽織の模様と同じであることから、多くのファンたちが訪れているという。
藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。


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