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モヤるけど、あえて受け止め生きてみる|武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』〈後編〉



はじめに


これは前回の〈前編〉の続きである。

この武田砂鉄氏の『父ではありませんが 第三者として考える』を手にとった経緯は〈前編〉を読んでほしい。

今回は、特にジェンダー色が濃くはないんだけど、最近の生活や、過去を振り返って浮き上がってきた「違和感」について話そうと思う。結局は「分断」「格差」「差別」、そしてジェンダーを考えるときの「第三者性」について掘り下げているので、大きく道を外れるかと思いきや、また元の道に戻っているところが面白い。


気になった二、三のこと


「もう、違うから」

今、こうして大人になると、それぞれの立場によって、生活の余白の作り方・用意のされ方が異なるので、遊ぶ・集まるための日時を設定するのが難しくなってくる。(中略)この予定の合わなさに耐えなければ、私たち大人は、すぐに「状況が違う人」との交流を止めてしまう。

引用:武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』P.36より

この人のプライベートはこうなのだろうと確定されてしまうと、話はたちまち厄介になる。

引用:武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』P.43より


武田氏の本を読むと、時々、こうした別の問題提起「枝葉」が良く伸びる。

この人の醍醐味はこの「枝葉」を残すところに面白味がある。

「論理的でなくわかりにくい」というレビューもネットで見かけるが、なんでもかんでもカットカットばかりじゃ、世の中つまらなくなるでしょ。

この「状況の違う人」扱いは、今年に入って実体験することになる。

去年の自分を取り巻く環境が、今年はガラリと変わった。

自分自身は変わらないので、前と同じように、ある知人と接していたら、明らかに「他人行儀」に変容した。

最初は何が起こった? と自責していたが、どうやら「状況の違い」で峻別してる感じがした。

居場所の非共有だけで付き合い方も違ってしまうことを学んだ。


「一人前になれよ」


無責任な言葉であり、共有すべき言葉でもない。


これについては実体験がある。


とある業界の記念パーティーに参加するため、見栄をはって、急いで名刺を作り、泣け無しのお金で購入した似合わないジャケットに身を包み、高額な会費を支払った。

いざ、出席してみると、まるで相手にされない。

肩書もお粗末なうえ、未婚であることで「半人前扱い」されているのか、なんとなく周囲と深い溝ができた。

やがて、冷めた唐揚げと気抜けし生温くなったビールを持って、ひとり所在なく1時間ぐらい突っ立って、逃げるように会場を後にした。

あれは、なんだったのだろう。


「わからないけど、受け止める」

(桐野夏生が)子どもについて考え続けている人が、子どもについて考えているわけではない人の話を受け止める。多様性、とつ使われすぎている言葉も、こういう光景で指すのかと思えば腑に落ちる。多様性とは、様々な意見があっていいよね、だけではなく、同じ状況でない人の意見を時として受け止めてみること、なのだろうか。

引用:武田砂鉄『父ではありませんが 第三者として考える』P.151より


「同じ状況ではない人の意見」を受け止める器はあるだろうか。

わからない事象を差し出されて「どうです?」と訊かれても「わからない」と答えてしまいそうだ。

いや「わからない」も答えではないか

ここを出発点に、いろんな「わからない」を集めて、
比較したり、
質や量を分析することで、
また「別の問い」とか「見方」が生まれるんじゃないかと思う。


まとめ

「判らないところがいいんじゃないの。何でもかんでも判っちゃったら、長生きしてたって、ちっとも面白くありゃしない」

これは向田邦子の小説版『寺内貫太郎一家』の貫太郎の祖母である寺内きんのセリフである。

テレビでは名女優・故樹木希林が演じていたので、なおさら説得力がある。
もうすべてがここに集約され、小難しい理由や論破ではない、切れ味鋭い日本刀のような凄みが宿っている。


ここが自分の着地点である


このような「はじめから正解が不透明」なものに向き合うために、解像度をムリに上げることはない。

モヤっとしているからこそつかみ取れる「何か」は、人それぞれにあるはずだ。

自分は、「わかる」「わからない」のレベルでとらえるのではなく、重層的な一人のひとり者として生きている第三者として立ち振る舞おうと思う。



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