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復刻版「よせあつめ瓦版・ランダム」その2(94.5.1~5.31)

1994年5月5日(木)
 浜松シネマウエストで、和田誠監督作品「怖がる人々」を観る。
 日本版トワイライトゾーンで、日本の恐怖小説の中から5作品を映像化してある。「火焔つつじ」「箱の中」「吉備津の釜」「乗越駅の刑罰」「五郎八航空」。タイトルほどには怖くないのだが、この5作品を選び出した、和田誠の感性には拍手を送りたい。
 日本映画の低迷は長く続いているが、一つには観客動員数が落ちたから「ヤクザ映画」を止めようという、採算だけで、時代状況を考えようとしない勝手な映画老人たちの考え方もあるのではないのか。前途有望な俳優をチンピラや鉄砲玉役に使って申し訳ないと思わないのだろうか。
 プロデューサー・パトロンとは、どういう人達なのか、真剣に考えていただきたい。

1994年5月6日(金)
 勁草書房・晶文社・農文協・みすず書房の4社による「出版ダイジェスト」が届く。
 私の蔵書となっている書籍の購入時の判断材料として重要な位置を占めている冊子だが、今回は、農文協が3月に東京で開催した「自然と食と教育を考える研究会」のレポートが掲載されていて、非常に関心を持った。今まで読んだ食関係の書籍には書かれていなかった事なので、ここに無断掲載をする。宮崎大学教授・島田彰夫氏の報告より、抜粋。
「‥私は『食術』というものを取り戻さなくてはならないと考えている。食術とは、元来その地域の自然と調和していた食文化、食生活の智恵や技術、経験などが集積されてものであり、母から子へと伝承されてきたもの、その伝承がこの数十年の変化で切れてしまった。また高度成長によって食術をもたない人たちが都市へ集まってしまった。そのような『無形文化財』としての食術の伝承を、その前の二千年、三千年につなぐことは、子どもの健康を取り戻すということにもつながっているのだ。」
 平成コメ騒動、輸入食品の安全基準等の問題から飛躍しているかもしれないが、現在の食生活を見事に批評していると思い、無断掲載してみた。

1994年5月12日(木)
 桃山晴衣さんより「桃レタア」が届く。
 どこかの論理に当てはめようとしない桃山さんの音楽世界に感動し、浜松西武シティ8での公演を二回プロデュースしたことがあった。
 今回のお便りでは、二・三月とパリのテアトル・デュ・ソレイユの俳優養成機関に招聘され、一日5時間の授業を一か月行った報告でした。アイヌの歌から、雅楽の越天楽から宮園節にいたる日本の歌の歌唱指導、論理にもコトバにもできない「気」「影」の紹介という、国家事業でもしていない事を一人の日本女性が成し遂げている事に感動し、又、ヨーロッパの芸術に対する姿勢をうらやましく思いました。

プロデュースさせていただいた、公演のチラシとチケット
1996年4月10日発行「立光学舎通信」第14号


1994年5月15日(日)

 遅ればせながら、浜松中央3劇場で「シンドラーのリスト」を観る。
 映画の中で描かれたシンドラーと、当時の現実の姿があまりにもかけ離れているとか。美談として描き過ぎているという批評もあるが、そんな事は、そんな事を書かないと食べていけない人種の世界の事で、スタンディング・オベージョンに値する映画だと思う。
 実は、私が感動したのは、この映画のモデルとなったシンドラー氏のドラマが出版されるまでの経緯であった。話半分しか記憶していないので申し訳ないが、当時、命を助けられた、あるユダヤ人がニューヨークで成功して、落ち着くうちに、この話を全世界の人に知らせようと、あらゆる作家・脚本家に声をかけて出版までこぎつけるのに20数年費やしたという事実である。
 日本にも、ユダヤ人の命を救った杉原リストがあり、関東大震災時に300人の朝鮮人を守った警察署長の話とか、どうして知ろうとしないんでしょをうか。

1994年5月19日(木)
 浜松市民会館で、つかこうへい事務所特別公演「熱海殺人事件」を観る。
 今回、モンテカルロ・イリュージョンとして、阿部寛が木村伝兵衛役、しかも棒高跳びでブブカと戦い、幻のモスクワ五輪の代表選手でありながら、「おかま」として新宿ゴールデン街に立っていたという過去を設定していた。
 この演劇も初演からは20年近くたっているが、枝葉を変えることで、まだまだ続けられると感じた。オーディションに通ったとはいえ、阿部寛の木村役には様々な批評がされていたが、今まで多くの生の視線に慣れてきたことが、演劇の舞台でもいい意味での余裕になっていると感じられた。

1994年5月20日(金)
 深夜の人気番組「探偵!ナイトスクープ」で、上岡局長のプッツン場面に遭遇する。
 桂小枝探偵担当のコーナーで、ある医大生のマンションに毎日のように幽霊があらわれるので、真相を究明してほしいという内容であった。一晩、徹夜してカメラを回しても、何も起こらないので、結局、祈祷師にお祓いをしてもらって‥チャンチャンという内容であったと思う。
 今回は、確かに究明にも、何にもなっていなかったし、ただ時間を埋めるためだけに編集されたようで、つまらなかった。それだけに、プッツンして退場してしまう程のことなのかと不満は残った。ただ、上岡氏がEXテレビ時代に、霊媒師とか祈祷師たちと戦っていた姿勢には賛同している。彼は、霊魂や神霊現象を全面否定はしないが、それを意図的に商売に利用している事が許せないのである。最近、統一教会の犯罪的カネ集めにも利用されてきた事が判明してきたが、容認派は何といって弁明するのか、EXテレビの復活を期待する。

1994年5月22日(日)
 豊橋市駅前文化ホールで、豊橋三愛寄席の第115回例会「林家たい平独演会」の前座出演。春団治バージョンの「代書屋」で約25分の高座を務めた。
事情があって、昨年11月6日以来の高座となってしまったため、久しぶりに緊張してしまった。上方落語をご存じの方ならご存じだろうが、見台と膝かくしが備品として用意されていたので16年ぶりに使ってみた。学生時代を思い出し、当時のギャグが出てきたが、覚えているもんでんなぁ。
 林家たい平さんの演目は、「金明竹」「たい平版・松竹梅」「湯屋番」の三席でした。

1994年5月28日(土)
 第8回「奥山落語会」が奥山JA会館で開催された。今回の出演は、春風亭鯉昇・柳亭楽輔師のお二人。年一回のペースで、田植え後に、鯉昇師の同級生・友人たちによって企画・開催されてきた。夜7時からの開演なので、終演は10時近く、そのため。打ち上げは10時30分頃から。結局、14時15時までという実に健全な落語会なのです。
 マイクなしの会場で、150人近くのお客様に、蛙の大合唱の中、落語を聴かせていくというのは、実にたいへんな労働であると感じさせてくれる、一年に一回の研修のような落語会なのです。
 宴席での楽輔師の「しゃべり」は、現在レギュラーの「ルック・ルック」と「らーめん天国にっぽん」をご卒業されたら発表しますので、それまでお楽しみを・
 ちなみに、当日の演目は、鯉昇「粗忽の釘」「妾馬」、楽輔「痴楽伝説」「禁酒番屋」でした。

1994年5月29日(日)
 第31回本果寺寄席として、「鯉昇・楽輔二人会」開催。
 昨年11月の例会で「百席」達成したため。演目は自由になったのですが、私が「代書屋・枝雀バージョン」、楽輔「痴楽伝説」、鯉昇「長短」と全員が新しいネタにチャレンジしてしまうのが、この会の特長なんですよ。
 13年目で、今回の新規会員を含めて、お客様名簿がやっと200人。それでも70名近くが集まっていただけました。マイクなしでの落語会の観客数としては、最高であると自負しております。
 今回の打上げ時の「しゃべり」は、9月7日以降に発表しますので、お楽しみに‥。

第31回本果寺寄席のチラシ

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