今日も1日.
外気がサウナな6月. お店の空調が水風呂なら, 外気浴とやらは日陰を散歩することなのかもしれないけれど, こんな危険度の高い外気浴って何やねんと1人でに呟いている.
梅雨の過ごし方, 室内遊び多様性を考えていたのに“熱中症と光化学スモッグからの避難としての室内遊び”を考えることになってなんとも言えない所存である. ちなみに来週あたりに梅雨さんが戻ってくるらしい.
そうか今年に気候はちょっと驚かせたかったんだな. お帰り梅雨さん.
話は変わるが, 我々人類にとってそんなに理由づけや動機付けが必要なのか最近よく首も頭も捻っている. いやそれは勿論必要な場面もあるだろう. そんなことは当然なのだけれど, 人類はそこまでロジカルに生きていなくてもいいと僕は思っている.
そんなロジックと合理性&正当性とやらの鎖を首に繋いで生きれるほど, 我々は無機質に作られていない. それができる人もいるだろうけれど.
美しいと思うことを考えに考えて, この世の全ての言語を当てはめても抜け落ちてしまう感覚というのは, ある種そう言った理由を探しても見つからないというのが答えだった感を経験するには大切だ. 言語化できない何か.
かと言って, 考えに考えてもない薄っぺらいロジックで唐突に考えるのが無駄だと言わんばかりな思考停止は異なることも付け加えておきたい.
ロジカル首輪を繋いで, どこで息を吸えばいいのだろう?
無機質なものに触れすぎて人はいつか壊れてしまうことを忘れがちで, 有機質と触れあっていると生命の重さをダイエットしてしまいがち.
そんなことを銭湯の帰り道で思い巡らす.
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