「お気持ち&感情」VS「論理&理性」の構図の虚しさ〜徳島県中央病院事務職員男性による女子高生と男性への暴行事件とそこから波及した「キモい」の是非〜男のヤレる、女のキモい

またTwitterが荒れていますね。6月2日午後10時頃、徳島県中央病院事務局の職員の男(35)が徳島市内の路上で女子高生に「うちに来ないか」などと声をかけ、拒絶され「キモい」などと言われたことから激昂し、女子高生と制止しようとした男性(50代)にそれぞれ負傷部位は違うものの全治1週間の怪我を負わせたとの事。

女子高校生に「キモイ」と言われ…髪を引っ張り暴行した疑い 35歳の県職員を逮捕
6/16(火) 13:04
配信
1928
関西テレビ

https://news.yahoo.co.jp/articles/4993a391bc6c478d3f97db97c35f7135c0992c2e

死者は出ていないし、今のところ深刻な後遺症が残ってしまったなどの情報もないです。不幸な事件ではあったものの、それほど際立って話題性があるとは思えない人もいるでしょう。

しかし、この事件に関する詳細は不明のままで、追加情報もないのに何故か皆言及し議論を生んでいます。何故夜10時に女子高生が路上にいたのかも、女子高生は制服を着ていたのかも、襲われた場所はどんな場所で、加害男性はどの様な人物であったかも不明です。

基本的には女子高生が被害者で、暴行した職員の男が加害者である認識自体は共有されているものの、女子高生が放った「キモい」との発言は、危険人物相手にあまりに思慮に欠けていたし、常日頃から軽い気持ちで「キモい」と誰かしらに向けて言っていたのではとの意見も一定の支持を受けています。

「キモい」は、根拠も証拠もなく一方的に反論を許さずに他者を過度に貶めるものであり、気心の知れた仲で冗談とお互いに理解して使う以外は控えねばならぬ暴力的な言葉でもあります。また、過度に用いる事は言語能力の低さを露呈し、表現力や思考力や忍耐力を養う機会を逃すリスクとデメリットがあります。男性から女性へ物理的暴力が行われる事が多いのに対し、「キモい」などの精神的暴力は女性から男性へ放たれる事も多いです。
勿論男性も「キモい」は使いますし、物理的暴力と「キモい」などの精神的暴力を両方女性や他者に放つ人間も存在します。しかしながら男女の非対称性が顕著な場合では女性から男性への「キモい」は許容されることもあります。
それは身体的又は社会的非対称性を考慮してのことなのでしょう。

また、「キモい」と感じるのは当然だし、実際「キモい」のだから言って何が悪いのか。未成年の女性をいきなり家に連れ込もうとして断られたら逆上し暴行を加える輩には言って当然だし、被害者の落ち度を探すのではなく、加害者を厳しく批判すべきであるとの意見もまた支持されています。
危険人物にはいくら丁寧に応じても、不条理な反応をされ何をしても危害を加えられる事もありますし、異常な出来事に即座に完璧な対応は出来ません。それが未成年の女子高生ならなおのことでしょう。
被害者の落ち度を探す事で事件によって動揺する心を鎮めようとしていないでしょうか。また、被害を受けた女子高生やその家族や知人や似た経験を持つ人々を不要に傷つけ苦しめないでしょうか?
2次加害になってしまわないように気をつけねばなりません。

双方の意見はどちらも理もありながらもすれ違い、戸惑う人もいるようです。

実は私もそのうちの1人です。

なんだか事件そのものではなく、事件が含んでいた問題がツイッターユーザーの問題意識を刺激したみたいですね。

性の非対称性は存在して、草食男子が増えたと言われる世の中であっても、基本的には男性から女性へ恋愛的アプローチをしなくてはなりませんし、その際どうしてもすれ違いが起きて、男性側は恥をかくし、女性側は恐怖や不快感を覚えたりもします。

アダルトビデオ監督の二村ヒトシ氏の記事で非常に今回の件に適してるものがありました。

女は男を「キモい」かどうかで判断している~モテない理由は明快。気持ち悪いから、なんです
二村ヒトシ×川崎貴子@恵比寿【第3回】https://gendai.ismedia.jp/articles/-/47065?_gl=1*p00zcf*_ga*ZzhVeXVxeVdSMnU0OTkzZS1pcW8xYWxRNXN5V3gyNzhoNE15ZmUxY01QMms0R2VDWnE4VjBOemsxdkt6TG9mQg..

以下引用

二村 なぜ男性が女性から見て気持ちわるく見えるのかというと、いろいろ勘違いをして、インチキな自己肯定をしているから。それを男性社会のお約束として、世の中から許されちゃってるからなんです。
まあ、簡単に言うと「空気が読めない」みたいなことなんだけれど。40歳が20歳前後の子にアプローチするのも、その思いが一方的なものだったら、女性にとってはキモいんです。
川崎 その事実自体が気持ちわるい、と思われてしまう。女性は産める子どもの数がすごく限られていて、その養育に対しても多大な時間と労力を費やすわけです。だから、ものすごく相手を選ぶんですよね。意識レベルでは、子どもに対してお金を払うかとか、子育てを手伝うかとかそういうところも見てるんですけど、もっと根底の部分で「キモいか、キモくないか」で分けている。
二村 自分にとってセックスの対象として「アリかナシか」で男を大別してるんだよね。
川崎 男の人も、「ヤレるかヤレないか」という視点では見ていますよね。
広告A そうですね。
川崎 でも、女性はそんなものじゃないんです。気持ちわるいの方に入ってしまうと、近寄られるのも苦痛になる。
広告A ええー! まじですか。僕もそう思われていたのかな……。
川崎 気持ちわるいと思われるのって、すごくもったいないんです。逆に「気持ちわるい」の壁をクリアすれば、かなり仲良くなれる確率は上がります。

以上引用終了

今回の事件は女子高生とひと回り以上年上の男性の関係の問題でもありましたね。少なくとも、加害男性にとっては...

男性が女性を「アイツならヤリたい!」「我慢すればヤレる!」「死んでもヤリたくない!」などと評価するのと、女性が「コイツはキモい!近づかれるのも無理!」「キモいけど我慢は出来るし悪い人じゃないかも?」「キモくない!かっこいい!」と評価するのも相手を喜ばせも傷つけ悲しませ怒らせもするでしょうね(LGBTQの場合はより複雑になります。今回は便宜上男女で分類しましたが、実際はここまで単純ではありませんし、同一人物が同じ対象に「ヤリたい!」と「キモい」の2つの感覚を覚える時もあるでしょう。恋愛感情や性欲が薄いまたは皆無な人もいます)

自ら恋愛対象へアプローチしなくてはならない側は必然的に「ヤレるか、ヤレないか(成功の可能性と性欲の対象として見れるかの2つの意味で)」で考える様になるはずです。

恋愛対象とされる側なら、受動的であるので、「キモい、キモくない(関係を結ぶ許可と要求に応じるかの判断)」で考えるのかもしれません。

私はどちらかと言えば、身体的性差よりも立場の違いをより重視し捉える事が多く、もし男性が受動的で女性側が積極的にならざるを得ない状況が有れば、「ヤレる、ヤレない」と「キモい、キモくない」の基準で動く側が反対に入れ替わる事も十分あり得ると思っています。

「ヤレる、ヤレない」も「キモい、キモくない」も曖昧で個人的な感覚や判断ではありますが、欲や感情だけでなく、利害の計算なども含んだ複雑さがあり、全てが非理性的だとか非合理だとかまでは言えないです(それと内容の質は別ですが

これは「お気持ち」は揶揄され、「論理」は尊ばれる風潮にも繋がります。

「お気持ち&感情」は劣った未熟で幼稚なものとされ、「論理&理性」が成熟しており上位のものであるとの考えはSNSでは根強いですね。

ハフポストに匿名ブロガーのRootport氏が

THE BLOG
自分を論理的だと思っている人へ/論理的思考は魔法の杖ではないって話https://www.huffingtonpost.jp/rootport/logical-thinking_b_5776270.html

との記事を寄稿しており、主に論理の欠点について指摘なさっています。

以下引用抜粋

1.「論理的である」とは「遠慮がない」という意味ではない。(中略)言うまでもなく、論理的であることと、他人の感情に配慮することは、対立概念ではない。論理的に事実の分析を積み重ねながら、同時に他人の感情に配慮することも可能だ。論理的思考と感情的配慮は両立できる。(以下略)
2.論理的思考力は、物事を単純化して考える力ではない。(中略)自分は論理的だと思っている人は、まず「ただ現実を単純化しすぎているだけ」ではないか自省してみるといいだろう。
3.論理的思考力とコミュニケーション能力は違う。(中略) 「Rootportは人間である」という命題は正しい。しかし「人間はRootportである」という命題は正しくない。同様に、「プレゼンが上手い人は論理的思考ができる」という命題はおそらく正しいが、しかし「論理的思考のできる人はプレゼンが上手い」とは限らない。ロジカルでもプレゼンが下手な人は存在しうるし、プレゼンが下手だからといって非論理的な人だとも限らない。(以下略)
4.論理的思考を身につけても、仕事が早くなるとは限らない。「ロジカルな人間を集めれば仕事がスピーディーに進む」というのは誤解だ。論理性を重視する人間を集めたら、話はなかなか前に進まず、仕事はむしろ遅くなる。仕事をすばやく進められるのは、同僚がロジカルなのではなく、ただ、あなたと気が合うだけだ。(中略) 論理的な厳密さを求めれば、会議は遅々として進まなくなる。作業は正確になるかもしれないが、どこまでも遅くなる。そして時間という最も重要なリソースを失ってしまう。論理的な人間を集めれば仕事が早く終わるというのは幻想だ。論理性は、意思決定の「正確さ」「緻密さ」を左右するものであって、「速さ」にはあまり効果がない。正確で緻密な判断は欠かせないが、そのためにいつまでも時間を費やしていいわけではない。(以下略)

以上引用終了

数年前の記事ですが、今でも通用するどころか、まさにピッタリな内容ですね。論理的であるのと、論理しかないのは似て非なるものです。論理は重要であっても万能ではないし、狭く限られた情報で都合の良いだけの考えを生むだけになる危険もあります。論理性を強調する為に、感情や共感を軽視や蔑視したりする態度を見せる人もいますが、実際は論理と感情を両立可能な場合も多いです。遅くて正確でコストのかかる判断の枠組みも重要ですが、雑だけれど、素早くそれなりの手頃なコストで発揮できるヒューリスティクスも身につけねばなりません。

野矢茂樹氏の入門!論理学 (中公新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4121018621/ref=cm_sw_r_cp_api_i_yr.7Eb0WCG4YB

では(以下引用

論理的可能性というのはバカバカしいぐらい非常識な可能性も、矛盾していないかぎり許容するものなのです。それは、「論理の自由さ」とも言えるでしょう。論理的に考えていくことによって、常識にとらわれない可能性が見えてくることもあるわけです。
「論理的」であることは、ですから、「常識的」であることとは違います。

以上引用終了

と述べられています。

論理は常識を裏付け説得力を持たせ、仕組みを説明することもありますが、非現実的な可能性をも示す性質も持ち合わせており、その場合に固執した場合は非合理になりかねません。

そもそも人の感情は激しく理解しやすいド派手な喜怒哀楽だけではありません。嫉妬や冷笑や侮蔑や無関心を装おうとする心理までも感情でお気持ちなのです。
他者の主張を「お気持ち」と揶揄蔑視嘲笑冷笑しているうちに、自らの感情を自覚できなくなった人がいます。非常に残念で悲しい事です。

人類も地球も太陽もいずれ滅びます。「だから今滅ぼししても同じだしいいではないか」と悪魔や大魔王に言われた時になんと反論すれば良いのでしょう?

表現の自由や楽しく豊かに過ごす権利を求めて、規制や差別と戦うのは、論理的根拠もあるかもしれませんが、更にその根本にはお気持ちがあるのではないでしょうか?お気持ちは劣った未熟なものだとする限り、この事実を認められぬのではないでしょうか?

取り敢えず、事件のことはわからないものは分からないと曖昧で不安定な状態に耐える賢明さと勇敢さが必要です。

以下投げ銭ゾーン

ここから先は

15字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?