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文化の違いを理解せよ

読んだ。

Togetterやブコメを見ると、やたら敵対的なコメントが多い。まるで自分に対して「タトゥーを入れろ」と指図されたかのような感じだ。勝手に被害者意識を持ち、拒否反応を示している。元ツイートの人は言われた側なのに。

こういう反応を見ると「これだから蛮族は」と言いたくなる。自分の慣習こそが絶対的に正しいと思い、そこから外れた人を非難する。そういう人たちこそが「いい歳こいてタトゥー入れたいモチーフのひとつも持てなかった寂しい人生を送ってらっしゃるんだな」なんて言い出すのだ。いくらネットが使えても、視野が恐ろしく狭い。

ではあのツイートにはどう反応するのが正しいのか。当然これ一択だ。

実際、古代ギリシア人たちはタトゥーに対して正反対の文化が存在することを知っていた。紀元前5世紀から前4世紀にかけての古典期ギリシアに書かれた文章『ディッソイ・ロゴイ』(Dissoi Logoi) には、こんな話が載っている。

トラキア人にとって、若い娘が入墨をするのは装飾であるが、それ以外の人々にとっては、入墨は犯罪者に対する罰である。また、スキタイ人は、男を殺した者がその頭の皮を剥ぎ、髪の毛は馬の前に付けて飾り、頭蓋骨は金や銀で鍍金をして、それを使って酒を飲み、神々に献酒することを美しいと見なしている。だが、ギリシア人の中に、そのようなことをする者と一緒に同じ家に入って行こうとする者はいない。
マッサゲタイ人は、自分の親を切り刻んで食べる。そして、子どもたちの中に葬られることが、最も美しい葬儀だと思われている。だが、もしギリシアでだれかがそんなことをすれば、彼はギリシアから追放され、醜く恐ろしいことをした者として、悲惨な死を迎えることになるだろう。

古代ギリシアにおける異文化理解の諸相(1) -ノモスとピュシス-

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