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投資の引き際について語るか

何か株価が暴落しているらしい。

それに伴ってこんなツイートを見た。

そこで俺の名前が上がるのかよ。確かに俺は投資を勧める記事を書いているけれど、この文脈で真っ先に名前が上がるの?

さらに連続でこのようにツイートは続く。

「ネットの投資を進めるアルファブロガー達は絶対に暴落のことは言わない」か。俺はどうだったかと投資記事を見返してみた。俺が最初に書いた投資を勧める記事はこれである。

めっちゃ暴落のことを書いている。タイトルで書き、概要で書き、本文1行目でも書いている。ここまで暴落のことを書いている投資奨励記事も珍しい。

では他の記事ではどうだろうか。めっちゃブクマがついたこの記事はどうだろう。

この記事は俺の投資遍歴を語った記事であるので、暴落の危険性を強調したりはしていない。それでもこれくらいは触れている。

コロナで一時期暴落したが、積立を継続したのに加え、ちょっとだけ買い増しを行った。

まだ所有している投資信託が30%を超える下落を経験したことはないが、持ち続けられる自信はある。現時点ではそうとしか言えない。

体験した暴落だけでなく、将来の暴落についても正直に書いている。

これに続けて書いた記事はどうか。

一方で市場は時に荒れ狂い、人々に災厄をもたらすこともある。ならば市場こそが我らが主であり、投資とは市場への捧げものであると言えないだろうか。

ではどれくらい市場にはどれくらい捧げるべきなのか。いくら市場を信じているからといって、不確実性のあるものに全てを捧げるのはやめた方がいい。

通常、投資は余剰資金を使い、あなたのリスク許容度に合わせて行えと教えられる。

投資には信仰が重要だという記事でありながら、全てを捧げるのはやめろと言っている。また、この後に投資の基準として、収入の「10分の1」を捧げることを提案した。10分の1ならば、たとえ半分に暴落したとしても、失う金額はたかがしれている。

さらにこの記事は極めつけに、こんな話を載せている。

1:1 1928年のニューヨークに、パトリックの子ジョセフという者がいた。

1:2 ジョセフはある日、パットという少年に靴磨きを依頼した。

1:3 パットが新聞を読んでいたので、ジョセフはパットに尋ねた。「少年よ、株は儲かるのか」

1:4 パットは言った。「あなたのしもべが答えます。市場は生きておられます。私は声を聞きました。石油や鉄道を買いなさい」

1:5 ジョセフは考えた。「誰の子とも分からない者が株の予想をしている。これは破滅のしるしだ」

1:6 そこでジョセフは持ち株をすべて売り払い、さらに空売りも仕掛けた。

1:7 翌年の10の月。ニューヨークに大いなる叫びがあった。暴落のない株がなかったからである。

みんな大好き「靴磨きの少年」の逸話である。これでも暴落について語らないと言えるのか?

後は寄稿した記事についても触れておくか。

この記事は投資に関して具体的に何をするべきかを語っている。なので資産の増減については基本的に語らない。むしろ勝手に貼られた超絶的に楽観的なシミュレーションをわざわざ削除してもらったくらいだ。

それでも暴落については軽く触れてはあった。

そして、暴落が来たときにパニックにならず投資を続けるためにも、この種のインデックス投資の本を一冊持っておくといい。

以上のように、俺は毎回のように株価暴落について触れている。「絶対に触れない」とは何なのか。他の人と間違えているのでは? あるいは俺以外に骨しゃぶりというブロガーがいるか。

一方で、ツイートのこの主張はどうだろう。

彼らは引き際については隠して語らない

https://x.com/kemohure/status/1819308836760834116

確かに俺は引き際については語っていない。だからここで語るとしよう。

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