見出し画像

瞑想が人を幸福にする理由(わけ)を理論的に説明しようとしてみる

 怒られるのを覚悟で雑に言えば、瞑想で練習するのは、何も考えていない状態になって、それを持続することです。

 つまり、頭に浮かんでくる色々な妄想、晩御飯のメニューとか、同僚が仕事を頼んできた時の口調が気に入らなかったなぁとか、昨日の夜に隣の大学生がうるさかったから管理会社に電話してどうにか追い出してもらえないかとか、年金問題とか、親がボケたらどうしようとか、子供がグレたらどうしようとか、まぁいろいろです。

 まず、練習するのは「あ、自分、今、余計なことを考えているな」と気づくことです。

 次に、練習するのはその妄想をそっと脇へ追いやってまた、何も考えない状態に戻ることです。

 ぼくはその境地には達していないのですが、このまま瞑想を日課としていれば、余計な妄想自体が、湧いてこない状態までいけるのでしょうか。

 まぁ、それはともかく、瞑想で練習するのは

1、考えていする自分に気づく。
2、考えをそっと脇へ追いやる。

と、まぁ、この二つです。

と、これができるようになると今よりずっと幸福になれます。なぜでしょう。

 ちょっと考えてみましょう。

あなたは注射が大嫌いだとします。しかし、一週間後に予防接種を受けることになりました。

 するとどうでしょう。この一週間にあなたは予防接種のことを何度も思い出すでしょう。そして、あのチクっとした痛みを想像して、苦痛を感じるのです。

 何度も、何度も、どうにか回避できないかと考えたり、当日、熱が出て摂取できなかったらいいのにと考えたりします。

 そして、当日が近づくにつれて、注射される妄想はリアリティが増して、思い出す頻度も高くなります。

 と、ここで、注射を打たれる実際の苦痛を100とします。

 そしてあなたが注射のことを思い出して、感じる苦痛を10とします。実際に注射されるのに比べれは注射される妄想の苦痛はこんなものだと思います。

 そしてあなたは注射当日までの一週間、一日3回、注射されることを想像して苦痛を感じます。

 注射される妄想で感じる恐怖や苦痛は、実際に注射される瞬間が近づくにつれて、大きくなると思いますが、今回は計算が難しくなるので、簡略化して毎回、妄想による苦痛は10だとします。

 と、どうでしょうか。

 前日までの6日間であなたは注射される妄想を3回×6日で18回感じることになります。

 一回の苦痛は10ですから、合計の苦痛は180です。

 これは予防接種当日の妄想は含まれていません。当日はもっとリアルに恐怖を感じて、一回の妄想で30の苦痛を感じているかも知れません。

 つまり、苦痛の総量は180でもずいぶん少なく見積もっていると言えます。

 さて、ふりかえってみて、実際に注射される苦痛は100と設定しました。

 つまり、実際に注射されることよりも、注射を恐れ、想像することの方が、多くの苦痛をあなたに与えている訳です。

 と、ここで、瞑想では「考えていることに気づき、考えをそっと脇へ追いやる」練習をするということを思い出して下さい。

「思考に気づき、止める」ことができれば、予防接種そのモノは避けられないにしても、事前に妄想して苦しむことは避けることができるわけです。

 もちろん、苦痛の妄想を完全に避けられる人など、そうはいないでしょう。もしかしたら、それを悟りというのかも知れません。

 人生における多くの苦痛は、予防接種的なものです。一時のもの、しかし、その苦痛に対する想像がぼくたちを苦しめる。

 その頂点にいるモノが「死」かも知れません。死そのものの瞬間は、まさにひとときのものですし、実際に苦痛を伴うのかどうかすらわかりません。

 しかし、その「恐怖」は人が生まれ、ものごころがついて、自分がいずれ死ぬと知った瞬間から、生涯にわたって、ぼくたちを苛み続けます。

 その「死」の「恐怖」と折り合いがつけられたら、そのぶん、人生はもっと幸せなものになるのではないでしょうか。

 そう考えると、毎日、毎日、飽きもせず、座禅を組み、瞑想をしている、禅僧。彼らを見る目が変わってきます。

 今までは、俗世の幸福から離れて、修行を続けるストイックな人々だと思っていましたが、あんなに毎日、毎日、座禅を組み、瞑想をし、妄想の苦痛を遠ざけようとしているわけで、禅僧=「実は幸福になりたいと頑張る集団」に見えるようになるわけです。

 どうでしょう。瞑想、日課にしてみませんか?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?