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Behind the Scenes of Honda F1 -ピット裏から見る景色- Vol.19

皆さま、こんにちは。前回に引き続き、今回もチーフメカニックの吉野が担当します。

先日のブラジルGPの決勝。本当にすごかったですね!劇的なレース展開でしたが、今までの勝利と違いマックス(・フェルスタッペン)が純粋にライバルに対して強さ、速さで上回った、完璧な勝利だったのではないでしょうか。予選、レースともに常にパフォーマンスで上回っていましたし、来年につながる結果になりました。

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そしてピエール(・ガスリー)の2位。特に今年の前半、Red Bullにいた際は、私は彼の苦悩や苦労を間近で目にしてきました。それだけに、彼の表彰台の雄たけびや、喜びを爆発させる姿には胸に詰まるものがありました。ラッキーの2位ではないですし、最後の最後でハミルトンから守った走りは彼の強い執念を感じました。表彰台目前だったアレックス(・アルボン)のクラッシュはRed Bull担当としては残念でしたが、Toro Rossoとの1-2フィニッシュは、Hondaとしてこれ以上ない結果だとも感じています。本当に、ピエールにはおめでとうと伝えたいです。

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レースの最終盤、Hondaのマシンが1-2-3体制を築いたときがあったのですが、そのときには、「Hondaもここまで来たのか」という思いとともに、実は画面を見ながら涙をこらえていました。ピエールがゴールの際にメルセデスのマシンを振り切った瞬間は「これまでのプロジェクト開始以降の膨大な苦労や努力、情熱が、ようやく形になったんだ」と、そう感じていました。
私たちのパワーユニットは、ある日突然速くなったのではありません。その前には、数々の地道な積み重ねや失敗があり、今回の結果はその上にあるものです。苦しい時代も含めて、プロジェクトに関わったメンバーみんなに感謝の思いを伝えたいです。

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実は、先日日本で本田宗一郎さんのお墓参りをしてきました。そして、レース前にはサンパウロにあるアイルトン・セナの墓前で手を合わせてきたのですが、今回の結果は二人にパワーをもらったんだと思っています。
私たちがこうやっていまレースができるのは、言うまでもなく宗一郎さんのおかげです。そして、私にはあの「幻の1-2-3」が、宗一郎さんからのメッセージだったように感じています。「お前ら、絶対に戦いをやめるんじゃないぞ」と。そんな声が聞こえた気がします。

ー憧れだったF1の世界へ

さて、前段が長くなりました。前回はメカニックの仕事について書きましたが、今回は私のキャリアについて触れようと思います。

もともと、F1は小さいころからTVを通してよく見ていました。いわゆる第二期F1という時代で、セナを応援していましたね。1988年のモナコGPでセナがリタイアして、自分の家に帰ってしまったのをよく覚えています。あとは、鈴鹿にもF1を見に行きました。第二期の最後の2年なので、1991年と1992年のことですね。そんな自分でしたので、いつかHondaのF1で働きたいという夢を当たり前のように持っていましたが、まさか本当に自分がTVの向こう側に見ていた世界で仕事をすることになるとは、思ってもみませんでした。

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希望通り、Hondaへの入社を果たした後は、四輪サービス関連の部署に配属されました。しかし、その後1998年にHondaがコンストラクターとしてF1復帰を目指すことが発表され、社内でも「RA099」というマシンの開発プロジェクトメンバーの公募が行われました。当然私はすぐに手を挙げ、幸運にも選ばれることができました。

ーフェルスタッペン親子とのエピソード

RA099のプロジェクト開始後はスペインのサーキットでテストを重ねることになり、私もメンバーのひとりとして懸命に開発に携わっていました。ただ、その後残念ながらプロジェクトは中止となってしまい、Hondaはコンストラクターではなく、エンジンマニュファクチュラーとして2000年にF1へ復帰することになります。

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残念な形にはなってしまいましたが、実はその際、RA099のテスト走行を担当していたのが、現在のRed Bullのドライバーであるマックス・フェルスタッペン選手のお父さん、ヨス・フェルスタッペンだったんです。ヨスは現在もよくマックスのレースを見に訪れるので、時々私と当時の昔話をすることもあるんですよ。また、マックスも当時のことを鮮明に覚えているようで、彼がRA099に座っている写真をスマートフォンで見せてくれて、彼と一緒にそのころの話をしたこともあります。F1マシンに座ったということで、彼の中でもとても印象に残っていたようですね。

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マックスが2014年に鈴鹿のFP1でToro Rossoのマシンをドライブし、F1デビューを飾った際には、私は一ファンとしてその姿をTVで見ていました。ほかの好きなF1ドライバーを見るときとは全く異なる気持ちで、「ああ、あの子がF1に・・・」という特別な感慨とともに、彼を応援していましたね。おこがましいかもしれませんが、どこか自分の息子を見るような気持ちで見ていた部分もあったのかもしれません。ですから、今年彼と一緒に仕事ができると知ったときには本当にうれしかったんです。お父さんと仕事をしていたのに今度はその息子さんと仕事をすることになるということに、不思議な縁も感じましたね。自分も歳をとったんだなという思いもありました。今回の勝利にも、本当にしびれました。「素晴らしい」の一言ですし、チャンピオンのハミルトン選手を何度も追い抜く姿に心から感動しました。すごい男に育ったものです。

ー新パートナーシップとともにF1へ復帰

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さて、私のキャリアについて話を戻しましょう。RA099のプロジェクトは中止になりましたが、その後のHonda F1第三期と呼ばれる2000年からのプロジェクトにも参加できることとなり、その後撤退する2008年まで、メンバーの一員として仕事をしました。その際のメンバーには、今も一緒に仕事をしている田辺豊治 Honda F1テクニカルディレクターや本橋正充 Honda F1副テクニカルディレクターもいたんですよ。いまや「Honda F1の番頭」さながらの本橋さんは、当時から田辺さんの右腕でしたね。

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2008年の撤退後は、FCV(燃料電池車)の開発プロジェクトに約10年携わり、昨年9月にF1プロジェクトに約10年ぶりに復帰、英国に駐在することになりました。今年からのRed Bull Racingとのパートナーシップが決定していたので、その立ち上げを行うことがまず第一の仕事となりました。FCVのプロジェクトも自分なりに強い想いを持って取り組んでいたので、F1プロジェクトに戻ってくるときは寂しさもありました。一方でRed Bullというビッグチームとタッグを組むことに対して、楽しみな気持ちと大きなプレッシャーも同時に感じていました。でも、楽しみの方が大きかったかもしれませんね。

ーRed Bullとのプロジェクト立ち上げ

プロジェクト立ち上げについては、HondaとRed Bullの仕事の分担、各メンバーの役割設定、サーキット内外での仕事の進め方といった部分を、ゼロからディスカッションして進めていきました。Red Bullのメンバーは経験豊富ですのでこちらが学ぶ部分も多かったですし、一人ひとりの専門性やスキルが非常に高い集団だなという印象でした。彼らの仕事のやり方として、各メンバーの裁量が大きいのが特徴ですが、それもあのように優れたメンバーを集めたプロ集団だからこそできることだと思っています。

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今シーズンについては、開幕戦でマックスが表彰台を獲得し、オーストリアやドイツ、ブラジルで勝利を挙げたりと、比較的順調なものに見えているかもしれません。私自身も、信頼性の観点では確実に進化できている手ごたえがあります。ただ、私の仕事の領域ではサーキット現場、HRD-Sakura双方でまだまだ改善できる余地があると考えていますので、さらに前進を続けていかなくてはなりません。

マネジメントという立場でここにいる私としては、自分たちの仕事を社内外の誰もが憧れるようなものにできたらと思っています。志の高い人が集まり、一緒に高い目標に向かって挑戦していくような、一体感のあるチームを作り上げたいですね。それはつまり、一体感があり、永続的に勝ち続けることができるチームだと思っています。そのチームとともに、お客様、従業員の皆さんと喜びを分かち合いたい。そして、いつかマックスと一緒にチャンピオンを獲れたら、こんなにうれしいことはありません。

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