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Behind the Scenes of Honda F1 -ピット裏から見る景色- Vol.04

こんにちは。HondaのチーフエンジニアとしてRed Bull Racingと一緒に働いているデビッド・ジョージです。私はタナベサンの下でRed Bull Racing担当のテクニカルディレクターとして、チームとコミュニケーションを取ったり、Red Bullで働いているHondaのエンジニアのマネージメントを行っています。

先日のアゼルバイジャンのレースでは、HondaはアップデートされたPUを投入しました。今回は信頼性がメインの改良でしたが、大きな問題もなく、事前の想定どおりにPUが機能したことはよかったと感じています。ただ、レースの結果には当然満足していませんし、まだまだここからです!

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さて、ここからは2回に分けて、私がコラムを担当しますが、まず第1回は、私のエンジニアとしてキャリアについてお話しします。
そして2回目は、今回のHondaのF1プロジェクトのメンバーになって以降の話や、私が考えるF1エンジニアという職業、またHondaについて私が思うことについて語れればと思っています。

私は現在51歳で、米国のメリーランド州ボルティモア生まれ、カリフォルニアのサンディエゴとイギリスのドーチェスターで育ちました。小さい頃からいつも車には興味を持っていました。ただ、エンジニアになる一番のきっかけは大学の1年目で専攻していた政治学だったような気がします。その1年で、「俺がやりたいのはこんなことじゃないんだ!」と、はっきり自覚しました(笑)
そこからは航空工学を主専攻、副専攻で機械工学を学び、さらに興味をもった機械工学については修士号まで取得しました。その間もずっと車が好きで、特にドラッグレースにのめりこんでいました。「どれだけのパワーを出せるか」ということを突き詰める競技なので、エンジンに対する強い興味と愛情は恐らくその時期に始まりました。いつも「どうやったら速く走れるか」「なぜうまく行ったのか(行かなかったのか)」ということを考え続ける日々。ドラッグレースのすべてはエンジンであるといっても過言ではありませんし、自然とエンジンについて色々と独学で勉強して言うことになりました。ある日雑誌を読んでいて「カムシャフトの形状変更によるバルブ開閉タイミング調整」というとても基本的な知識に関する記事を見つけた時は、「ワォ、カムシャフトの形次第で開閉タイミングが変わるんだ!」と驚いたことを覚えています。
この頃は、自分が知らないことが世の中にたくさんあるという事実を思い知ると同時に、学ぶ楽しさを知った時期でもあります。

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私にとって初めてのモータースポーツの仕事は、ニッサンとのものでした。大学で可変インレットシステムに関する論文を書いたのですが、90年初頭はまだその分野に取り組んでいる人が少なかったんです。ニッサンはちょうどその時期にインディカープロジェクトを開始しようとしており、私の論文に目を留めて仕事のオファーをくれたんです。レースに関連する仕事に就きたいと真剣に考えていたので、大手自動車メーカーからもらっていたいくつかのオファーも断っていました。ですので、ニッサンからオファーをもらえた時は本当に嬉しく、幸運だと感じました。ニッサンで仕事を始めた私は、GTカーに関するプロジェクトとともにインディカー用のエンジン開発に携わることになったのですが、残念ながら途中でモータースポーツプロジェクト全体の中止が決定してしまい、その後はEd Pinkというドラッグレース界ではよく知られたマニュファクチュラーで少しの間働いていました。

当時は1993年で、ちょうどその頃にHondaがインディカーへの参戦を発表しました。その頃Hondaは大きな成功を収めた第二期のF1プロジェクトを終え、「次はアメリカで成功を収める」という意気込みの下での参戦でした。そのニュースを聞いた時は「おお、これこそ俺が本当にやりたい仕事じゃないか!」と感じました。すぐに応募したところ、幸運にもエンジニアとしてHondaに採用され、設立されたばかりのHonda Performance Development (HPD)で働くことになりました。ただ、当時のHPDには総務系の人たちしか在籍しておらず、彼らは私に何をさせれば良いのかわからないという状況でした。ですので、結局私はすぐに日本に飛ぶことになりました。そして日本で「これが君の同僚だ」と紹介された相手は全て日本人で、チームの中で西洋人は私だけという状況がその後長く続いたんです。

そこから、私はHondaの和光研究所で働くことになりました。そう、第二期のF1の開発拠点になっていた場所です。
そこで出会ったのが「タナベサン」。私に「Hondaでの仕事のやり方」を教えるのが彼の役割でした。それが1993年の出来事で、1994年にはアメリカを拠点にタナベサンとRahal teamでともにエンジンエンジニアとして一緒に仕事をすることになります。ただ、タナベサンは1994年のみで日本に帰国。私は1995年にTasman Motorsportでアンドレ・リベイロの担当となり、Hondaとしてのインディカーシリーズ初勝利を挙げます。当時のタナベサンの印象は、「全ての仕事にとても真剣に取り組むプロフェッショナル」と言うものですが、それは今も全く変わっていません。1996年にはジム・ホールレーシングの担当となり、新人ドライバーのジル・ド・フェランと仕事をすることになりました。現在はマクラーレンのスポーティング・ディレクターとなった彼は、私の数少ない親友と呼べるうちの一人です。

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Hondaと仕事をするまでは日本に行ったことはなかったのですが、全くの「別世界」という印象で、すべてのことが私の常識とは異なっていました。触ってもいないのに目の前のドアが開いたり、マクドナルドでは機械の下にお皿を置くと自動でケチャップが出てきたりと、驚きの連続でした(笑)。アメリカのレースへの行ったり来たりはありましたが、トータルでは3年半ほど日本で生活をしました。日本語については、他のエンジニアが技術に関して話すことはほとんど理解できましたし、多くの単語も覚えています。ただ。読み書きもできなかったのでその点は本当に苦労しました。でも、自分の人生の中でも本当に楽しく特別な時間だったと思います。
その後私はHondaを離れ、しばらく距離を置くことになります。

1997年にはイギリスに移り住み、当時F1チームにエンジンを供給していたコスワースで働くことになりますが、イギリスに住むということをあまり好きになれなかったこともあり、2年間の契約を終えて米国に帰ることに決めました。今思うと、イギリスも私のことを好きじゃなかったかもしれませんね(笑) 
そこからはNASCARの世界で10年あまり働いたのですが、これも本当に楽しい10年でした。年間40戦もレースがあって、ノンストップの世界なんです。フォードのテクニカルディレクターとして働き、でも最後にはクタクタで燃え尽きたと感じました。
その後は、ノースカロライナの大学で臨時講師として教鞭を取ることにしました。NASCARで仕事を始めた頃から私の研究を知る数人の教授たちから、フルタイムの教員としてのオファーも受けていたので、2010年にNASCARから手を引いた際にはそのオファーを受けることに決めました。ただ、大学からはその側らでモータースポーツのコンサルタントとして働く許可ももらっていました。大学にとっても研究に繋がったり宣伝効果があったりと、互いにメリットがある話だったんですよね。

最初はNASCARのチームのコンサルタントとなりタイトルを取ったりしましたが、2012年にHondaからインディカープログラムのコンサルタントとしてのオファーがあり、また一緒に仕事をすることになりました。その時に気付いたのは「燃え尽きたと思っていたのはNASCARの中だけで、自分のモータースポーツに対する情熱は変わっていない。やっぱり俺はこれがやりたいんだ」という想いでした。

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そこで、2013年いっぱいで大学を去り、もっと深くプロジェクトに関わって欲しいというHondaの要望に従って、フルタイムでインディカープロジェクトのメンバーとして仕事を始めました。2014-2015年のインディ500や、2016年のアンドレッティの担当を任されるなど大きな仕事をさせてもらいましたが、3年間でインディ500を2勝することができました。そしてその頃にはタナベサンはシニアマネージャーアドバイザーとしてHPDに戻ってきていました。また一緒に仕事ができて本当に嬉しかったですね。彼とは20年ぶりにとても緊密にタッグを組んで仕事を進める形になったので、昔のような関係性に戻るのに時間は全くかからなかったですね。

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2017年の終わりにタナベサンがHondaのインディカープロジェクトからF1のテクニカルディレクターに就任するとこに決まったとき、私に「Davidも一緒にやらないか?」と声をかけてくれたんです。「まだ何も決まったものはないのだけど、もしもHondaが2チームにPUを供給するようなことがあれば、その時はそこを引っ張ってくれる人が必要になるんだ」とも。私はもちろん「ぜひやらせて欲しい」と答えました。F1で成功できれば自分のキャリアの総仕上げふさわしいと感じましたし、それを大切な友人と一緒に成し遂げられたら、そんなに嬉しいことはないと言う思いもありました。

さて、ここまでが今回のお話。私のキャリアについてザッとお話させてもらいました。次回はいよいよ現在のHonda F1プロジェクトに携わるところから、話を始めたいと思います。

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