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STARDUST

1

 新横浜から在来線を乗り継いで石川町駅へ降り立つ。一週間ほど遠出していたが荷物はボストンバッグだけ。湯川充史(あつし)は、それを左肩にかついで元町商店街を重い足取りで進む。8月も終りに近づくと、乾いた風が身体を通り抜ける。もう、暑さにやられなくて済むな、と湯川はホッとした。

 自分のアトリエ以外での絵画修復は骨が折れた。だが、知人の修復士に頼まれたら断れず、一週間前に西の方に赴いた。修復するのは絵画にとどまらず写真や手紙も含まれる。期せずして水と泥にまみれた絵画や記念品。経年ではなく、一瞬で。無残に雨や泥に飲み込まれ、戻らないものも少なくないが、残ったものもある。それを以前の状態に近いものにすれば、持ち主の心のいくらかは救われる。今回初めての土地で、そのようなものの修復に取り組み、湯川は自分がドラマの片隅にいるような錯覚に何度も陥った。

 自分の部屋に着くと、バッグを開け洗濯するものを洗濯機へ投げ込む。洗濯機が回っている間に自分はシャワーを浴びる。シャワーから出て体を拭き終わったくらいに洗濯が終わり、ボクサーパンツ姿で洗濯物を干す。

 ベランダから部屋に入ると、裸のままベッドへ自分の体を投げ込む。ノリの利いていない、くたびれたシーツや自分の匂いが残る枕カバーにすっかり緊張感がほぐれた。湯川はそのままベッドに埋もれた。

 数時間後、窓から差し込んでくる西日の明るさと熱に眠りを遮られた。うつぶせに寝ていた湯川は重たそうに寝返りを打って、目をあけた。すると真上から自分を見つめる男と目が合った。
「うわ!」
 湯川はそう声を上げて起き上がらざるを得なかった。
「驚きすぎだろ」男は平然とそう言った。
 湯川は男に背を向けてベッドの縁に座った。顔と首筋に滴る汗をシーツで拭きながら、頭の中を整理した。
「洗濯物、中に入れといたぞ」
 男はそう言った。
「あぁ、サンキュ……準備するから、ちょっと待ってて……曽我部」
 湯川はそう言ってバスルームに入った。

 曽我部は高校からの付き合いだ。同じクラスになった時から一緒に帰ったり、共働きだった湯川の家に入り浸ったり。その頃から曽我部は湯川の自室に勝手に入ってくる。着替えている時でも、寝ている時でも。一度、湯川が≪一人でとりこんでいる≫時にも勝手にドアを開けられたことがあった。だからだろうか、湯川は付き合っている女の子を家に連れてくることはしなかった。
 そして卒業式の日に帰り道で彼から好きだと告白された。湯川はその告白を受けなったが、曽我部を拒絶することもなかった。それゆえに友情は続き、勝手に部屋に入る曽我部を許容しつづけている。曽我部は気に入った男ができるたび、湯川に話をしている。

 曽我部に案内される形で2人はジャズバーに向かう。湯川は途中にある馴染みの中古レコード屋を外からのぞいた。そこではたまに遭遇する青年がいる。背丈は湯川より少し低く、少し長めの髪は栗色で、日に当たるとかなり明るい髪になる。若そうな見た目をしているが、様々なジャンルの棚を熱心に見たり、馴染みの店員と話していたり。華奢に見え、奇麗な顔をしているので女性かと思っていたが、昨夏に見かけたTシャツ姿は男の身体だった。彼に遭遇するたびに目で追ってしまう。一通り店内を見回したが、今日はその青年はいなかった。

 2人はジャズバー≪CURE-キュアー≫の中に入ると中央の席についた。
「おつかれ」 曽我部はそう言って湯川の分のビールを注文する。
「酒飲んでジャズなんか眠くなっちゃいそう」
「そうしたら俺が叩き起こしてやるわ」
 湯川は曽我部の上気した顔をまじまじと見つめる。
「いまのお気に入りがでるの?」
「そう!」
「また若い子?」
「若いと言っても23だけど」
 2人は運ばれてきたグラスをカチンと鳴らした。
「一応は成人しているワケね。付き合ってるの?」
「まぁ……≪深い関係≫ではある。」
 湯川は呆れながらビールに口をつけた。その瞬間、周囲から拍手が聞こえた。前を見ると4人のが青年が出てきて楽器を取り、一人はピアノの前に座った。
「あのピアノの子」曽我部が湯川に耳打ちする。
 紺色のオープンカラーシャツにライトグレーのパンツ。背は低くないが、華奢だから23歳といえども幼く見える。栗色の髪がライトを反射して、より明るい色になる。彼の顔がしっかり見えると、湯川の心臓が大きく揺れた。

 目の前にいる青年は、中古レコード屋で見かけるあの青年だった。

 青年はグランドピアノの前に座り、一息ついて指を鍵盤に置く。彼が弾き始めたのは、どこかで聞いたイントロダクション。湯川は目を閉じて遠い記憶をたどる。そして曲名を思い出すのと、主旋律の始まりが同時だった。Life on Mars?
 アドリブの時は本当に楽しそうに鍵盤を叩く。彼は顔に無駄な肉がついておらず、二重まぶたや鼻、唇の美しさが際立っている。そんな彼が≪Life on Mars?≫を弾くのはなんでだろう?湯川は、まとまらない考えをビールで流し込んだ。

 青年たちは3曲つづけて演奏し、深々と礼をしてステージを後にした。しばらく2人でビールを飲んでいると、曽我部の隣に先ほどのピアニストが座った。
「湯川、紹介するよ。榊くんだ」
「榊登偉(とうい)です」
 登偉は湯川に右手を差し出した。
「湯川です」
 湯川も右手を出し登偉の手を握った。
 実は曽我部とは高校の同級生で」
 湯川がそう話すと、登偉は「え!」と目を丸くし曽我部に視線をうつした。
「年をとるとね、色々と個人差が出てくるモンなのよ」
 曽我部は弁解しながら登偉にメニューを差し出す。

 湯川たちはジャズバーの前で別れた。湯川は山下公園方面に歩いていく曽我部と登偉をしばらく眺めていた。彼らと30分くらい談笑して感じたのは2人の温度差だ。曽我部が登偉に入れ込んでいるのが見て取れるのに対し、登偉は心ここにあらず、という印象を湯川に与えた。
「深い関係って……」
 湯川は歩いていく2人をみてそう呟いた。そして、2人とは逆方向の元町方面へ歩き始めた。

 ホテルのロビーラウンジの中にあるトイレの個室で、曽我部は蓋をしたままの便器に座り、立ったままの登偉を前にした。登偉が自分でベルトを外すと、曽我部は自分の手を添え、彼のズボンと下着を下ろした。若い性器を口に含む。登偉のため息が漏れた。登偉の性器を味わうように唇で弄ると登偉は身体を震わせる。曽我部はそんな彼を可愛く感じ、登偉の尻や肛門を愛撫した。曽我部がしゃぶったまま前後運動を繰り返すと、登偉は彼の口のなかで精液を放出して果てた。
 登偉は便器をまたぐようにして体勢を変え、曽我部に尻を突き出した。 曽我部は避妊具をつけると、すかさず登偉のなかに入っていった。自分の身体に登偉の身体に密着させて下半身を動かす。登偉の性器に触れると、ふたたび固くなっているのがわかった。「若いね」登偉の耳元で曽我部はささやいた。登偉を抱え込んだまま、曽我部はしばらく腰を振っていたが、自分を抱え込む曽我部の手に自分の手を添えて握りしめると、曽我部は糸が切れたように果てた。


2

 横浜港と山下公園を望むバー≪LOADING―ローディング≫。湯川がそこに入っていくと、待ち合わせ相手の有賀淳子はすでに席についていた。

「やっぱり早いな」
 有賀は湯川との待ち合わせの時には100%先に着いている。
「まぁ、商談だからねぇ」
 有賀は表情を変えずに答えた。
 湯川が席に着くと、すぐにウェイターがおしぼりを持ってくる。中腰になったウェイターの方を見ると、10日前に会ったピアニストの青年だった。
「おお!ここで働いてんの!?」
 嬉しそうに湯川は驚いた。
「はい、先日はありがとうございました」
 湯川は登偉の手からミントの香りのするおしぼりを受け取った。登偉は二人から注文を受けた。
「どうぞごゆっくり」

 有賀淳子は、湯川と曽我部の高校の同級生で、元町や桜木町に画廊を構えている。湯川は何年かに一度、有賀のギャラリーで個展を開いている。
「いまの彼と会ったことあるの?」有賀は登偉について湯川に尋ねた。
「おとといくらいかな?曽我部に紹介されて。あの子、ジャズのバンドやってるんだよね」
 そう答えると、有賀は遠くを見た。
「彼と曽我部、ここで会ったのよ」
 有賀は登偉と曽我部の関係については既にお見知りおきのようだった。
「私がトイレに行って、戻ってきたらもう知り合いになってた」
「へぇ…確かにあの年の差は…」
 湯川はそう言いかけて、登偉を目で追った。無駄な肉のない頬、鼻から唇のラインは美しい磁器のようで思わず触れたくなる。見惚れるくらいの美しさなのに、彼自身は良く気が回り、常連客につかまっては気さくに笑う。外国人旅行者と英語でやりとりしてるのにも見入ってしまう。

「それで―」有賀がそう切り出すと湯川は我に返った。
「うん」生返事をしながら湯川は姿勢を正す。
「12月はいつでも入れられるよ、個展」手帳に目を注いだまま有賀は言う。少し間をおいて、
「12月の中旬にしようかな。クリスマス前で、人出も増えるだろうから」
「わかった」有賀は手帳に書き込んだ。
 すると有賀の携帯電話が鳴った。彼女は誰からの着信か確認すると、「ごめん」と一言だけこぼし、電話に出ながら店を出ていった。

 湯川は一人になるとすぐに視線だけで登偉を探す。登偉と目が合うと湯川は右手を挙げた。登偉はかるく頷き、足早に湯川に近づいた。彼が腰を曲げ、顔を近づけてくれたことに湯川はひそかに喜んだ。
「今日、仕事何時まで?」湯川は声を低めにして目立たないようにした。
「0時までですね」
「仕事終わったら呑みにいかない?」
「湯川さん、デート中じゃないんですか?」
 湯川は首を横に振った。
「彼女とは仕事だけよ」
 そう言うと登偉は微笑んだ。
「いいですよ」
「よし決まり!0時すぎに桜木町駅で待ってるよ。これ俺の番号。なにかあったら連絡ちょうだい」
 湯川は、名刺を人差し指と中指で挟んで登偉に渡した。

 0時を過ぎると駅周辺でも灯りが消えていく。自分のいる場所を闇が覆い尽くそうという中でも、こちらに向かってくる登偉のことはすぐに見つけることができた。
「すみません、お待たせして」
「全然いいよ、おつかれ!」湯川は登偉の背中に触れて出迎えた。
「曽我部には内緒な」
「そうですね」小声の湯川に登偉はいたずらっぽい笑顔で返した。

「腹減ってるだろ?この辺は朝までやってる呑み屋たくさんあるけど、眠くなったらウチに来ても良いし」
「湯川さん家、どの辺なんですか?」
「元町よ。歩いても行けるし、タクシーならすぐ。登偉くんは?」
「僕、新杉田です」
「じゃあ、ここから一本なんだ」
 2人はそう話しながら、野毛の小さなバーに入った。

「元町のはずれの中古レコード屋にいるでしょう、たまに」
ミックスピザを頬張る登偉に、湯川は目を細めながら尋ねた。少し驚いた様子の登偉だったが、すぐに嬉しそうに笑った。
「水くさいなぁ。声かけてくださいよぉ」
「まだ知り合う前だから、ただのナンパだろ?」
 湯川がそう言うと、登偉はシャンディ・ガフを噴き出しそうになった。
「そうですね。別にいいですよ、ナンパでも」
 登偉はいたずらっぽい笑顔を湯川に向けた。彼は若い男性らしくよく食べ、注文した料理を次々と平らげた。湯川は、そんな彼を満足げに眺めながらゆっくりと酒を呑んだ。

「今のバイトは、もう長いの?」
「はい。高校出てからすぐに働いているので、もうベテランだと思われてますね」
「若いのに!」
「そうなんですよ。年上の学生なんかに仕事を教えたりしてたこともあって。出勤すると賄いが出るので、一人暮らしの身としては助かってます」
「料理美味いね、あの店。呑むだけじゃもったいないと思った」
「ありがとうございます。ぜひ、また来てください」
「そういえば、さっき外国人と英語で話してたね」
「すこしですけどね、話せるのは。以前に行ってたジャズ・ピアノの先生がアメリカ人で、日本語が上手な人なんですが、せっかくだから英語で教えてもらって……。ていうか、湯川さん、よく見てますね」
 ニンマリと笑みを浮かべて登偉は言った。
「そうかな……」
 湯川は思いもよらない指摘に、急に恥ずかしくなった。

「湯川さんは、なんで絵画修復士になったんですか?」
 食事も終わり、落ち着いて酒を呑みながら登偉は尋ねた。湯川は水割りをのどに流し込んで話を始めた。
「絵は中学から描いてたんだけどね、美術部で。高校生の時に実家が豪雨で浸水して、俺の絵描き部屋も一階だったからたくさんの絵が水没してしまったんだ。すごい気に入っている絵が一枚あって、その絵も……。そのことを予備校の先生に話したら、絵画修復のことを教えてくれてね。それで、その気に入っている一枚だけ修復してもらった。水没する前より全く同じではないけど、絵は蘇った。そこでなぜか、自分も生まれ変わった気持ちになった。自分が描いて、一番気に入った絵がダメになるって、ものすごい挫折感だからね。同じ絵なんて二枚と描けない。絵に対する情熱を失ってしまうのかなぁと思っていたんだけど、絵が修復されたことによって、描きつづけようと思ったんだ。
 自分が描いていないものにしろ、今までの日常にあったものだから、絵や写真は。それが水や泥で汚れ、非日常に引き出されてしまう。だけど修復することによって、途切れた日常を取り戻すことへの一端になる。絵を描くことも続けやすいし、修復士になろうかなぁ、と思ったんだよね」
 湯川が話しおわり登偉の方を見ると、登偉は目を潤ませていた。
「なんで!?」
「いや…いろんなこと考えているなぁって。自分が高校の時、そんなこと考えていなかった…。自分の生活がイヤで、音楽に逃げてばかりだった…」
「学生のころは現実逃避も普通だろ?でも珍しいよな、若いのにジャズを演るなんて」
「父親と父方の祖母がジャズ好きで。ピアノ弾きながら歌うと祖母や祖母の友達が喜んでくれたんですよ。ジャズのレコードやCDならいくらでもあったから、たくさん聴けましたね。お年玉とバイト代はスタジオ代や楽譜に使って」

「プロのピアニストになろうと思ったことはないの?」
「いままで音楽をつづける事に必死だったというか……考えたこともなかったです。もっと上手くなりたいと思ってたからレッスンにも行ってたんですけど」
 登偉はそう言ってグラスの白ワインを飲み干した。

 街は空気の温度を下げ、静かに朝を待っている。その空気は、バーを出た2人の酔いを少しだけ冷ました。湯川は自動販売機でミネラルウォーターを2本買い、1本を登偉に差し出した。
「ありがとうございます」登偉はペットボトルで首筋を冷やしてから、キャップを開けて一口飲んだ。
「なんか、大人との会話ってやつを久々に思い出しました……曽我部さんとはこんな話しないんで」
「曽我部とはどのくらい付き合ってるの?」
「付き合ってる、っていうか、どちらかというとセフレって感じですね。会ったら、やることだけやって…連絡をもらうときもやりたい時だけって感じだし。……よくよく考えたらオレから会いたいって言うことはなくて。会いたいって思うこともないし。なんか、少しいびつな関係だなって思ってます、最近は」
「正直だな。オレ、曽我部とは友人なんだけど」
「すみません……」
「まぁ、腐れ縁みたいなものだけどね……40年近く一緒にいると。部屋にも勝手に入ってくる。学生時代からな。……さ!ウチに行こう」
「はい!」
 2人は元町方面へ歩き出した。

3

 自分の身体の上に重しが乗っている。いや、これは単なる重しではない。体温がある。下半身に明らかな違和感。今までに経験がない感触と快感。自身になにが起きているのか、知らなければならない。
 暗闇のなかで、登偉はぼんやりとした意思で明らかな嫌悪感と戦おうとしている。

 湯川は朝食の支度を終え、登偉を起こそうと寝室に入った。登偉は大量の汗をかき、悪夢にうなされているようだった。湯川は登偉の腕に手を添え、彼を起こした。登偉は目を覚ますと湯川から逃げるように身をよじらせた。
「大丈夫か」
 登偉は声がする方向を見た。目の前にいるのが湯川だと、ゆっくりと認識した。
「うなされてたぞ」
 乱れた息を鎮めるのに精一杯だった。
「飯できてるぞ。それよりも先にシャワーだな」湯川は登偉の肩を叩いた。

 湯川が部屋から出ていくと、登偉は自分に着衣の乱れがないか確かめた。リビングの先のキッチンには朝食の準備がしてある。「シャワーはあっちな」

 バスルームに入ると、登偉は改めて自分の身体を確かめたが、違和感はなかった。壁の向こうから料理の音が漏れてくる。そして自分は今、出会って間もない男の部屋にいる。シャワーも浴びず、このまま逃げ帰ることもできる。だが、彼は躊躇なくバスタブに入り、蛇口をひねった。

 バスタブを出ると、洗面台の足元に新しいTシャツや短パンが畳んであるのが見えた。広げるとかなり大きい。登偉は、それが湯川のものだとわかった。「着替え、お借りします」バスルームのドアを少し開け、濡れ髪のまま湯川に言った。
「おー」湯川は目玉焼きを返しながら返事をした。

 登偉の身体は元々華奢な方だが、体格のいい湯川サイズの服のせいでよけいに華奢に見えた。それがまた可愛くて、湯川は目を細めてしまった。

「卵とか乗っけちゃったけど、食べられるか?」
 食卓に並んだのは、レタスやトマトが彩りよく盛られたサラダや、目玉焼きにベーコン。別の皿にはスライスされたカンパーニュ。
登偉が席に着くと、紅茶を淹れたマグカップが湯川の手から置かれた。自分でも気づかぬうちに登偉の目は輝いていた。「いただきます」両手を合わせて言った。
「いつもこんな豪華な朝ごはんを……」
「日に寄るよ。忙しかったり、疲れてたりすれば簡単に済ませちまう」
 紅茶を一口飲んで、カンパーニュを両手で持ってかじる。そんな登偉を見て、湯川は再び目を細めた。
「パンがめちゃくちゃ美味しいです」
「これ、下の商店街のパン屋のやつ。バターとかつけなくても美味いから気に入ってる」
 登偉がふとリビングに目をやると、ソファに乱雑に置かれたタオルケットと、枕サイズにたたまれたバスタオルが目に入った。
「湯川さん、ソファで寝たんですね…」
「ん?…あぁ。狭いベッドだろ?野郎2人で寝るのもどうかと思ってさ」
「オレ、起きた時…大きい声出しちゃって…すみません」
「うん。びっくりしたけど、気にしてないよ」
「たまに見るんです…悪夢っていうか…」
 湯川は彼を受け入れるようにうなづいた。
 
 作りすぎかと思う量だったが、2人とも見事にたいらげた。登偉はお礼に食後の片付けをした。その間に湯川はアトリエに行く準備をした。
「今度はレコードを聴きにおいで。デヴィッド・ボウイも色々持ってるから」湯川はマンションの玄関で登偉にそう言った。
「はい。またお邪魔させていただきます」

  2人は逆方向に分かれて歩いて行った。しばらくして、登偉は振り返って離れていく湯川の大きい背中を見つめた。また会えるんだ、と思うと登偉の心は静かに踊った。そして駅の方向に向き直して広い歩幅で歩き始めた。

 途中でパン屋をみつけた。ウィンドウを覗くと、さっき2人で食べたカンパーニュを見つけた。登偉はすかさず店内に入り、カンパーニュを買った。
 登偉は実感していた。さっきまでの、あれは2人の時間だったと。今まで多くの男性の相手をしてきたけれど、そこに<自分はいなかった>。なにが行われていたか、考えたくも思い出したくもない。だが、湯川は自分を安全な場所で休ませてくれ、朝食を共にしてくれる。2人で共有する時間。登偉は商店街を歩きながら、顔や腕に、強く吹く風の動きや温度を感じていた。

 湯川はアトリエで作業をしながら、頻繁に登偉のことを思い出していた。心に重く残っているのは登偉がうなされ、目覚めた途端に危険を察知したような反応をしたことだった。ただ悪夢にうなされていたのなら、あんなことになるだろうか。彼の人生になにか問題が?ふと頭をよぎったのは曽我部のことだった。

4

 10月に入っても屋外の音楽イベントというのは結構あって、登偉のバンドはローカルなものに出演していた。湯川は曽我部に誘われるたびに断ることなく、ついていった。登偉と直接連絡をとることもできたが、連絡をとっていることを曽我部には内緒にしておきたかった。
 登偉は、湯川の部屋に来る事が増えた。三人で飲んでいる時は、曽我部が席を外した際にそっと会う約束をした。登偉と曽我部が会っている間に湯川は酒やつまみ、聴くレコードを準備した。ただ単にテレビを見ながら酒を呑んで話すだけの時もあった。電車がなくなる時間だから、登偉が湯川の部屋に泊まるのは必然だった。

「俺、明日からベトナムに行くのよ」
 CUREで登偉のバンドの演奏が始まる前、曽我部はビールを飲みながら湯川に言った。
「え?仕事で?」
「当たり前だろ!だから……しばらく登偉とも会えないなー……」
「どのくらい行くの?」
「年内いっぱい」
「結構あるな。登偉くんには言ったのか?」
「まだ。その出張も行くはずの奴が行けなくなって突然決まったからなぁ……」
話の途中で登偉のバンドの演奏が始まった。2人は話すのを止めた。
 ≪We’re in love≫から始まって、オリジナル曲もはさみ、最後に選んだ曲は≪Stardust≫。傷心の曲で、歌の主人公は悲しい恍惚の中にいる。湯川は主人公に自分を重ね合わせた。違いは、登偉と湯川は過去にも現在にも恋愛関係ではないというところだろう。登偉に見入ってしまう理由が恋愛感情かどうか判断つきかねる。だが湯川は楽しそうに鍵盤を叩く登偉に見惚れざるを得なかった。

「お久しぶりです」
 ≪CURE≫の入口で合流すると、登偉は自分から湯川にあいさつした。
「久しぶり。今日も素晴らしかったよ」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、俺ら行くから」
 曽我部はそう言って、湯川と別れた。登偉は曽我部の隣をしばらく歩くと、後ろを振り返った。湯川がこちらを見ていた。

「今日、実はホテルとってるんだ」
 歩きながら曽我部は言った。
「しばらく会えないから」
 そう言われると登偉は曽我部を見た。
「明日から海外出張なんだ。年内いっぱい」
 登偉は表情を変えずに言う。
「ホテルの……ロビーのトイレまでなら行きますよ」
「俺と泊まるのがイヤ?」
 曽我部が困った表情で言うと、登偉は微笑んで言った。
「僕は誰とも泊まりません」

 曽我部はいつも通り、登偉の下半身をあらわにすると、いつもよりも大事そうに登偉の性器を口に含んだ。登偉に快感を与えるというより自分が彼の性器を味わうことに重点を置いた。登偉は曽我部の愛撫がいつもと違うことに違和感を抱いたが、いまは快楽に身を委ねることにした。出来るだけ早く終わりたい。いつからか、それだけを考えて曽我部との行為に臨んでいた。快楽が強くなり、頂点に達しようという時、登偉の頭には湯川の姿が浮かんだ。
「あぁっ……!」次の瞬間、登偉は声を漏らして果てた。
 精液を出し切ると、登偉は曽我部の肩を押さえ、性器を口から抜いた。性器を拭くのももどかしく、急いでボクサーとズボンを上げた。
「登偉」曽我部は彼の異変に気付いた。
「……帰ります」ズボンのベルトを締めると、棚に置いた自分のバッグを奪うように取って、個室を出た。ホテルのロビーラウンジのトイレだった。  

 登偉と出会ったのは彼のバイト先のバーであるが、その後に曽我部の≪行きつけ≫のバーで偶然再会して非常に驚いた。登偉と出会って間もない頃、バーの常連たちに登偉の評判を聞いてみた。行きずりの関係が多いのでは、と常連たちは口を揃えたが、よくよく彼を知る者はいなかった。登偉の若さや美しさも相まって曽我部はしばらく雑談以上の話をするのを躊躇していた。だが、そこから二人が関係を持つのに時間はかからなかった。

 去年のとある日の夕暮れ。すでに一杯やっていた曽我部は、行きつけのバーを出て、酔いを覚ましがてら桜木町から山下公園方面へ歩いていた。前から歩いてくる青年がぼんやりと見えると、曽我部には、その青年が登偉だと確信できた。かなり遠い距離であっても。
「登偉くん」
 距離が数メートルくらい縮んだところで声をかけた。登偉はすぐに気づいてくれた。
「こんばんは!」
「買い物?」
「はい、ライブの時に着る服を」
「もう帰る?良かったら呑みにいかない?」
 曽我部はなけなしの度胸を見せた。
「いいですよ。でも曽我部さん、もう飲んでますね」
 登偉はそう言って笑った。

 一軒目を出たところで路地裏でキスをした。
「抱きたい」
 唇を離すと、曽我部はそうつぶやいた。
「でも……ごはん食べちゃいました」
 自分を見上げる登偉の顔が子供のようで、心をかき乱された。 曽我部はなにも答えずに、もう一度登偉の唇をふさいだ。その夜を境に曽我部は登偉の身体に溺れていった。

 2人がホテルの部屋でなくトイレで性行為に及ぶのは、2人が関係を始めた頃からの登偉の意向だった。ベッドの方が登偉の身体を堪能できるが、登偉は密室で2人きりになるのを拒否した。曽我部が登偉を誘うのは性行為のためであり、自分が登偉に触れたい時にだけ彼を誘う。会えばすぐに行為に及び、性行為の後に食事に行くこともない。それは曽我部の体力が問題だった。
 曽我部は一度登偉に現金を渡そうとしたことがあった。登偉はかたくなに拒否した。
「ここで金を受け取ったら、すべての要求を受けないといけなくなります」
 そう言ったときの登偉の表情は忘れることができない。



5

 登偉はホテルを出ると、電車に乗ろうとして、ひたすら元町方面へ歩いていた。行為の最中に湯川の顔を思い出したことが恥ずかしく、なんだか悔しくなって涙が出てきた。登偉は着ていたTシャツで顔をぬぐった。その時、
「登偉」
 遠くからそう呼ばれた気がして、立ち止まってあたりを見回したが誰もいない。登偉は混乱しながらも再度歩き出した。
「登偉」
 もう一度遠くから呼ばれた。目を凝らすと、2メートル先に湯川がいた。
「大丈夫か?どうしたよ。もう電車ないぞ……」
 こちらに近づきながら湯川は言った。
 登偉は心音が大きくなるのが自分でもわかった。
「いえ…」そう答えるのがやっとだった。
「もうウチ泊まんな」
 湯川は帰れない登偉を救済するつもりで言った。湯川にそう言われると、登偉の心はかき乱され、返事に窮した。
「連れてくぞ!」
 湯川は登偉の手をとり、湯川の自宅の方向に引っ張っていく。登偉は心と頭が疲れてしまって抵抗する術がなかった。
 湯川の手は登偉の手を覆い尽くすほどに大きく、肉付きが良かった。
「湯川さん、帰らなかったんですか?」
 登偉がそう聞くと、湯川は振り返り、視線を登偉に向けた。
「2人でどこかに行くのを見たら帰れなかったよ」
 湯川の言葉を聞くと、登偉は胸がしめつけられた。
「……今までヤケ酒よ。堪忍して帰ろうとしたら、お前がいるんだもん」
 湯川は登偉の手を握る力を強めた。
「連れて帰るほかないだろう」

 湯川の自宅に入ると、靴を脱ぐのも惜しく2人はキスをした。登偉は湯川のシャツのボタンをはずし、顎から首へ、首から胸へ唇で愛撫していく。湯川が喘ぎ声を殺しているのに気付くと、登偉は興奮した。キスを腹に移しながら、すぐ下のジーンズのボタンとベルトに手をかける。
「あ、待って…」
 湯川の声に登偉は動きを止め、彼を見上げた。
「風呂入ってないし…」
 登偉は構わずにジーンズとボクサーを下ろす。熱を帯び始めた湯川の性器を少し見つめてから口に含んだ。性器に舌を這わせると湯川はたまらず声をあげた。それを聞くと登偉はさらに口や舌での愛撫をつづける。
「あぁ……上手いな…」湯川はこらえきれずつぶやいた。
 登偉は固くなった湯川の性器から口を離し、手を添えてキスをした。そしてまたくわえて前後運動を始める。湯川は登偉の唇や舌の感触に集中し、その手は登偉の柔らかい髪を撫でた。登偉が湯川の臀部を抱え込むようにすると、湯川はたちまち登偉の口の中で果てた。

 2人は別々にシャワーを浴びた後、テレビの深夜番組を見ながら、ビールで乾杯した。一本目を空けたところで、湯川は鉛筆とスケッチ帳を取り出し、まどろむ登偉を素描した。湯川の行動に気付くと、登偉は両手で自分の顔を隠した。
「今はダメですよー!お酒呑んでるから顔むくんでるじゃないですかー」
「そんなに変わらないよ」
 湯川は構わず鉛筆を動かす。
「……どうしたんですか?いきなり。」
 登偉は湯川に顔を向け、首をかしげて尋ねた。酔っている登偉の表情に、湯川は色っぽさを感じ、鉛筆を落としかけた。
「いや、今度個展をやるので……」
「オレの絵を描くの?」登偉は流し目で湯川を見て尋ねた。
「だ、だめでしょうか……」
「せっかくならピアノを弾いてるやつがいい!」
登偉は自分のバッグからスマートフォンを取り出し、湯川に数枚の画像をLINEで送った。画像は、登偉がジャズバーで演奏しているものだった。
「ライブのチラシ用に撮ってもらったやつですがぁ」
「あ、ありがとうございます」
 登偉は湯川を見て、満足そうに微笑んだ。

 テレビ番組も少なくなってきた頃、登偉はさすがに船をこぎはじめた。
「寝るならベッドに行こう」
 湯川がそう言うと登偉はトロンとした目のままうなづいた。

 暗いままの寝室で登偉をベッドに寝かせると、湯川は寝室を離れようとした。以前、登偉が悪夢を見ていたのを覚えていたからだ。
「一緒に寝てくれないんですか?」
 登偉の声に湯川は踵を返して、ベッドに座った。
「一人で寝た方が安心できるんじゃないか?」
「大丈夫です…たぶん…。湯川さんなら」
「そうかな?」
 湯川が尋ねると登偉は頷いた。湯川は微笑んで登偉の隣に潜り込んで横になった。2人は手が触れられる距離で向かい合わせになった。
「…湯川さん」
「ん?」
「さっきオレにされたの、イヤじゃなかったですか?」
「いまさらそれきく?」湯川はニヤリとした。
「いや…なんとなく」
「確かに、女の子にもあまりされたことはないけどね。でも、イヤだとは思わなかった」
 それを聞くと登偉は安心した表情をした。
「それに上手だったしね」湯川はイタズラっぽく眉毛をあげた。
「恥ずかしい…」登偉は毛布に潜り込んだ。


 昇ろうとする太陽が空気の熱を一気に奪う頃、登偉は眠りの中で、身体に身動きができないくらいの重さを感じた。息が苦しくなり、身体の上の毛布をはがすと肌の温度が下がり、登偉は目を覚ました。夜明け前の色が乏しい景色。耳を澄ますと遠くで鳥の鳴き声がする。自分の身体の上にはなにもなかった。隣から寝息が聞こえる。ベッドに埋まるように熟睡する湯川を見ると、登偉の胸から重いものが取り払われた。寝息に合わせて上下する湯川の胸を見つめる。一生、この人の隣で眠りたい。登偉の心にそんな思いが浮かんだ。そして再び眠りについた。

「あぁ、よかった。もう結構咲いてる」
 湯川は咲き誇るバラの花を眺めてそうつぶやいた。
 遅い朝食の後、2人は港の見える丘公園に散歩に出かけた。迷路のようなバラ園では四季咲きのバラが満開になっていた。
「横浜に住んでるけど、ここに来たの初めてだなぁ」
「実家はどのへんなの?」湯川は登偉に尋ねた。
「大森です。オレが小学校6年の時に両親が離婚して……父親の実家がある大森に引っ越してきたんです。それで父親とおばあちゃんと暮らしてました。」
 登偉がそこまで話すと、湯川も話し始めた。
「実は俺の両親も離婚してる。オレが高校2年のときだったかな。親父が他の女に入れあげて……その女がちょっと困った人でさ、家の中の雰囲気が一気に悪くなったから、母親はオレの受験に差し支えないように早々に離婚を決めた。母親はフルタイムで働いてたから、そういう時の決断に迷いはなかったね。母子家庭になっても、オレが絵を描くことにも反対せず、むしろ応援してくれてる。いまもね。」
「オレの母親は……いつの間にか連れてきた恋人に夢中でしたね……。たまに会ってたんですけど、その恋人がひどいやつで、おばあちゃんが俺をあの2人から引き離してくれました。」

 湯川と登偉はバラで囲われたベンチに腰をかけた。登偉の感情が噴き出しそうになっているのを察すると、湯川は彼の背中をなでた。
「ごめんな、思い出させちゃって。」
 湯川が謝ると登偉は首を横にふった。
「いえ、むしろ、聞いてくれてうれしいです。」

 丘の上の冷たい風がバラの香りをさらう。登偉は風を頬で受けて気持ちを落ち着かせた。
「もう、これから寒くなっていくんですね……。」
「早いな……ゴールデンウイークがこないだだったのに…!」
「え!?さすがにそれはないですよ!半年近く経ってるのに。」
「年とってると時間の感覚がホントに速くなんの!」
 登偉は目を見開いて湯川を見た。湯川は自信たっぷりに微笑んだ。
 
「毎年バンドメンバーと泊まりで海に行くんですけど、今年はみんな忙しくて行けなかったなぁ…」
 登偉がそう言うと、湯川が急に立ち上がった。
「よし、行くか!海!」
「え、この時期にですか?」
「人気がない海も良いもんだよ。それに、泳いで焼くだけが海じゃない」

2人は公園を出て坂を下り、湯川の自宅に戻って軽く 着替えた。自宅を出てアーケードを抜け、京浜東北線に乗り込んだ。
「大船からモノレールに乗るか……。」
スマートフォンで乗り換え案内を見ながら湯川が呟いた。
「江ノ島ひさしぶりだなぁ。バンドメンバーとは城ヶ崎まで行ってたんですよ」
「シブいね、また」
「メンバーの実家が伊東にあって。実家に泊まらせてもらいながら海に行ったり、夜は飲み屋でライブしたりしてました。今年はそれができなくて……メンバーの仕事とか学校が忙しくなってきたから……そうなると、このバンドもこの先長くはないかなと思い始めています。だから、オレもそろそろ就職を考えないとって」
「またプロのピアニストを目指さないの?」
「小さい頃からずっとピアノを弾いてたから、このまま就職というのも勿体ないなとは思います」
「一番迷う年齢かも知れないね。三十代が見えてきたら諦めもつくけど。オレも最初は就職してたからな。二十六歳の時にやっぱり絵だ!と思ってパッと会社を辞めた。親が元気だったってのもあるけどね。母親も、若いんだから、やりたいことを目指してみればって言ってくれて」

 秋の江ノ島の海は、深い青色と刻まれた雲を映し、夏の騒乱の面影すらなかった。
「潮風が気持ちいい!」
 登偉は顔を上げ潮風にさらす。何にも遮られない陽の光が彼を抱く。波を追ったり、貝殻を拾う登偉を、湯川は少し離れた場所から眺める。全身が視界に入るように。湯川は見惚れる事しかできなかった。
「寒いから、さすがに誰もいないですね!」
 風の音に負けないように、登偉は声を張る。
  湯川は砂浜を踏みしめながら登偉に近づいて言った。
「いま……明らかに恋愛してるんだけど、あんまり実感がない」
 登偉は湯川の顔を見上げた。
「……オレが男だからですか?」
 そう言う登偉の唇は肌寒さから赤みを帯びていた。顔の白さが唇の赤をさらに引き立たせる。その唇が湯川の心をゆさぶる。湯川は我に返って答える。
「それもあるけど……親子ほど歳が離れてるし……俺の今までと全てが違う」
 登偉は湯川に顔を近づけ、まっすぐ見つめて言った。
「誰を好きになるかなんて、自分で決められたことないでしょ」
 湯川は何も言うことができなかった。2人の間には海風が吹いていたが、しばらくすると風が通るほどの隙間もなくなった。

 2人は湯川の部屋に帰宅すると、シャワーを浴びることもなく、お互いに服を脱がしあって抱き合った。ベッドに倒れこむと、湯川は登偉に覆いかぶさり、唇をふさぎながら彼の身体を愛撫し、性器を手で包み込んだ。
「湯川さん、手、大きい……」
 湯川は何も答えず、登偉の首を吸い、手は性器を刺激した。身体が温まってくると、2人は全身を密着させ、お互いの性器をこすり合わせた。登偉は湯川の身体の重みを感じながら、彼の耳元や襟足に鼻をうずめる。湯川の匂いを感じると、登偉は静かに興奮し、湯川にしがみつく腕の力を強めた。

 2人は果てても身体を密着させることをやめず、横になると湯川が後ろから登偉を抱え込んだ。汗ばんだ湯川の胸が登偉の背中にはりつき、呼吸のたびに上下するのが感じられた。うなじには湯川の乱れた吐息がかかる。登偉は自分の胸を抱える湯川の腕に手を添えた。
「……好きだ」
 湯川が登偉の耳元でささやく。それを聞いて登偉は自分を抱える湯川の手をきつく握った。湯川からそう切り出されたのが嬉しかった。登偉は寝返りを打って湯川と向かい合う。
「……オレもです」
 登偉はそう言って唇を近づける。湯川は腑に落ちない表情でキスを受け止め、唇を離すとこう返した。
「<オレもです>はズルいぞ」
 登偉はニンマリと「ズルくないですよ!」と言って身をよじらせた。うつぶせになった登偉の背中に、湯川は覆いかぶさる。
「……『ゴースト』方式だな。」と湯川は背中越しに言った。
「なんですか?それ」登偉は真顔で問う。湯川は面食らった。
「……なんでもない。」
湯川は毛布を自分の頭まですっぽりかぶせた。2人はそのまま朝まで眠った。

「オレ、ピアノのレッスン再開しようと思います」
 朝食を食べながら登偉は湯川にそう話した。
「いいね。すごくいいと思う。」
 湯川はそう言って、登偉のカップに紅茶を注ぎたした。
「さらに忙しくなっちゃうんで、会えなくなりますけど……」
 そういう登偉に湯川は首を横に振って答える。
「言っちゃナンだけど、無理できる内にやった方がいい。三十代になったら気持ちも体力も追いつかなくなる。……オレも仕事と個展の準備がんばるから。キツくなったらウチに泊まりにくればいい。」
「ありがとうございます、湯川さん」

 登偉を送り出したあと、湯川は食器を洗った。昔、なんとなく色違いで買った、バーガンディとネイビーの大ぶりのマグカップ。バーガンディの方は湯川が使い、ネイビーの方は登偉の専用になっている。水切りカゴに二つ並べると、湯川は満足した。


6


 夏休みの再来か、というくらいのハロウィンの喧騒。それも束の間、いよいよ街にはクリスマスカラーがお目見えしてくる。湯川は絵画修復と個展の準備、登偉はバーでのバイトとピアノのレッスンに専念した。2人はなんとかスケジュールをやりくりし、登偉のバイトの休みの前日に湯川の部屋に泊まって一緒に時間を過ごした。
「あー、店が忙しくなります……。」
 登偉は湯川に腕枕をされながらつぶやいた。2人は抱き合ったあと、裸のままでベッドに潜っていた。
「そういう時期だよな。イルミネーションも始まったし、ここからバレンタインまでは忙しそう」
「年末年始が休みだから、まだ救われますけど……」
 登偉は湯川の脇の下に顔をうずめる。
「曽我部が一時帰国するらしいから、しばらくウチに来ない方がいいぞ」
「オレにもメール来ました。忙しいから会えないって返しましたけど」
 登偉がそう言うと、湯川は両腕を登偉にまわして、髪にキスをした。
「だってホントのことだし」
「まぁな」
 登偉も両腕を湯川の背中に回した。
「次に会う時は、オレの個展の時だな。案内が出来たら送るよ」
 登偉は返事をするかわりに湯川の胸に顔をうずめた。


7

 湯川はアトリエの帰りに有賀のギャラリーに立ち寄り、個展の案内ハガキの束を受け取った。その足で簡単に夕食を済ませ、帰宅した。すぐに暖房を入れるほどの寒さではないが、最近は帰るとすぐに熱い紅茶を入れるのがルーティンになっている。湯川はハガキの入った紙袋をテーブルに置くと、やかんに水を入れ、火にかけた。その間に、上着を脱ぎ、バスルームで手を洗ってうがいをする。タオルで口元をふいて、バスルームからキッチンに出る。湯が沸いて、やかんが鳴き声を上げるのと、玄関に曽我部が立っていることに気づくのが同時だった。湯川はいつも以上に動揺した。
「ひさしぶり」曽我部は微笑んで言った。
「勝手に入ってくるなよ……」
 湯川は暗い目をしてそう言った。曽我部はそんな湯川に少しだけ違和感を感じた。
「帰ってきたのか」
「3日間だけね」
 曽我部は靴を脱いであがった。
「今お茶入れるから、手洗って、うがいしな。風邪予防」
「へいへい」曽我部はバスルームに向かった。
 湯川はティーポットに熱湯を入れた。そうしているとソファの上にあるクロッキー帳が目に入った。急いでやかんを置き、クロッキー帳を取り上げて寝室のベッドの下に隠した。曽我部はバスルームを出るとダイニングに座った。湯川はバーガンディのマグカップを水切りカゴから出し、2つ目のマグカップを出すために食器棚の戸を開けた。いつもの癖でネイビーのマグカップに手を付けたが、すぐにハッと気が付き、まったく別のマグカップを食器棚から取り出した。

「……登偉が、会ってくれなくて」
 曽我部は茶を一口すすって、そう切り出した。湯川は下手な言葉を出さないように気を付けた。気がつけばラジオも音楽もかかっていない。静寂が湯川の緊張感を強めた。
「……忙しいんじゃないの」
「そうだといいんだけど」
 そう言って曽我部は湯川の方を見た。湯川は曽我部と目を合わせるのに苦心した。
「また個展やるんだ」曽我部は、湯川に渡された1枚の案内ハガキを眺めながらそう言った。
「よく続いてるよね。普通のサラリーマン生活にズブズブはまるかと思ってたけど、会社を辞めたと聞いた時は正直ビックリしたよ」
「おかげで今も独身だよ」
 湯川は自嘲するように言った。曽我部は、それについては何も答えなかった。2人は数分間無言だった。

「湯川、女できた?」
 しばらくの沈黙のあと、曽我部はそう切り出した。
「え?なんで?」
 湯川は心拍が早まるのを感じた。
「バスルームに歯ブラシが2本あったからさ。あと……マグカップも、さっき取ったやつペアっぽいよね」
 湯川は≪適切な≫返事に窮して、しばらく無言だった。
「ずっと独りさ」こう答えるのがやっとだった。

 曽我部は30分くらい滞在して、家に帰ると言い出した。
「次は年明けに来るよ」靴をはきながら曽我部は言った。
「次はいつ来るか知らせてくれよ。酒とつまみを用意しておかないと」
 湯川は予防線を張った。
「わかった」曽我部はそう言って微笑んだ。ドアスコープから曽我部が遠ざかるのを確認すると、湯川は静かにドアのカギをかけた。

 曽我部を送り出してからしばらく経っても、湯川の動悸は止まらなかった。いつか曽我部にバレるだろうと覚悟はしても、どう弁解するかは全く発想できなかった。曽我部と登偉の間に肉体関係はあるが、湯川と登偉との関係はそれよりも深いものだと自負している。バレた時について、考えを巡らせていると心がどこかへ行ってしまっていた。……とりあえず曽我部はまたベトナムへ往き、年内は戻ってこない。湯川は思い悩むのをやめ、ロックグラスにウィスキーを注いで呑んだ。


8

 個展開催までちょうど一ヶ月となった。湯川は知人や母親に案内ハガキを書き送った。登偉にはハガキを出すと同時にLINEでも連絡をとった。登偉は毎日郵便受けをのぞき、ハガキが届くと湯川に連絡し、しばらく湯川の字を眺めていた。ハガキはキーボードの上に飾った。登偉はシフト表とにらめっこし、ギャラリーに訪れる日を決めて湯川に連絡した。それまではバイトとレッスンをがんばろう。登偉はキーボードに向かった。

「トーイ、仕事ラクになったの?」
 ピアノのレッスンが終わり、教師のモーリスは登偉にコーヒーを淹れながら尋ねた。
「いいや、忙しいよ。相変わらず」
「でも、またレッスンやる気になったんだ」
 モーリスは嬉しそうに言った。登偉はコーヒーをすすって答える。
「なれるかどうかわからないけど、プロを目指そうかなって」
「ボクはてっきり、前からプロを目指しているものだと思ってた」
「今までは……単にピアノ弾いて、バンドでセッションしたかっただけって感じかな」
「プロを目指すなら視野を広げた方がいい。技術的なことはもちろんだけど。アメリカの音楽学校に行くことは考えてる?」
「ネットで調べたことはあるけど……」
「絶対行った方がいい。……もちろん、金はかかるけど!」
 モーリスはそう言いながら爆笑した。
「わかってるよー」
 登偉は困惑しながら笑った。
「最初は短期留学を勧めるよ。長くても一ヶ月くらいで帰って来られる。下見にもいいだろ?」
 モーリスはニッと笑った。

 レッスンの帰りの電車の中で、登偉は留学について考えていた。留学するなら時間をおかず、すぐに行った方がいいだろう。当然ながら湯川とは会えなくなる。でも湯川はプロになることを勧めてくれている。前に進むことを彼は理解し、応援してくれるだろうと確信した。

9

 街中にはクリスマス装飾がどんどん増殖し、12月中旬にもなれど年末ムードはまったくない。クリスマスが終わるまでは浮かれてんだろうな、と登偉は思いながら街を歩いた。
 <20時にギャラリーが閉まるから、その少し前においで。はねたら一緒にメシを食おう>昼間、湯川からそのようなLINEがきた。湯川と会うのは一ヶ月以上ぶりであり、留学を決めてからは初めて会う。資料請求から学校決め、申し込みまでのスピードにモーリスが驚いていた。まずは短期留学だけど、久しぶりに会うということもあり、切り出すのは緊張するな~。登偉は店のウィンドウに映る自分の顔をなんども確認した。上気する頬を冬の風にさらす。
 ギャラリーは元町ショッピングストリートの入り口近くにあった。ガラスのドアをのぞくと、話をしている湯川の姿が見えた。その横で相槌を打っている黒ずくめの老齢の女性の姿がある。LOADINGで見た女性とは違う人だ。登偉はギャラリーのドアを開けた。
「おっ、来たな」
 ドアが開くと、すぐに湯川が気づいた。
「おひさしぶりです~」
 登偉は、か細い声で挨拶した。
「なんだよ、白々しいな」
 湯川は照れ笑いした。ギャラリーには、湯川と登偉、老齢の女性の3人だけだった。
「母親」
 湯川は、女性に手を指し向けて登偉に紹介した。
「なによ、そっけない」
「初めまして!榊と申します」
 登偉は自己紹介して会釈した。
「後期高齢者です」
 湯川の母は笑いながら言った。
「こういう母親です」
 湯川は申し訳なさそうにフォローした。
「実物の方がイケメンよ、やっぱり!」
 湯川の母は登偉の背中に手を添えて言った。登偉は、彼女が別の手で指し示す方向を見た。ギャラリーの目立つ位置に、ピアノを弾く登偉の絵が飾ってある。しかもかなりの大きなサイズだ。登偉が送った写真そのままではなく、ポップな色彩で描かれている。また別の壁面にも自分と思われる絵が飾られていた。こちらはハガキ2枚分の大きさで、白地にエメラルドグリーンの色調で描かれている。一見眠っているようにも見えるが、恍惚の表情をしていると登偉には感じられ、すこし恥ずかしくなった。
「今度、息子とジャズ聴きに行かせていただきます」
 湯川の母は登偉に丁寧に挨拶し、一足先にギャラリーを後にした。二人きりになっても、登偉には緊張感が消えなかった。
「絵を見せた瞬間、恋人だってすぐにバレた」
「そうなんですか!洞察力ハンパないですね……」
「やっぱりコワい、あの人は……。今でこそ悠々自適に暮らしてるけど、昔はバリバリ働いてオレともあんまり顔を合せなかったんだけど、オレの色んな変化は見逃さなかったね。ズバッと聞いてくるからオレも自白せざるを得なくて……」
 湯川は困ったように手で顔を覆った。湯川の困惑している顔はめったに見られないから、登偉はなんだかうれしくなった。

 久しぶりの夕食は、中華街で。丸いテーブルに90度の位置に2人は座った。
「そういや、2人で中華街行ったことなかったなぁって思って」
「そうですね。CUREも中華街のはずれだし、バイトの帰りだと野毛とかだし」
「年内いっぱいは忙しいから栄養つけないとな。野菜とか自分じゃ食べないだろ?」
 湯川はそう言って、首尾よく注文した。

「オレ、春から留学することにしたんです」
 食事をおおかた終え、温かいプーアル茶で体内の油を流している時に、登偉はいよいよ切り出した。湯川は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに笑顔に変わった。
「そうか!とうとう……!」
「まずは一ヶ月の短期留学ですけど……下見も兼ねて」
「なるほど。その方が、オレもダメージが少なくていいよ」
 眉毛を下げて笑う、その顔が登偉には愛おしくてたまらなかった。
「しかし決断が早いね、ウチの母親みたい」
「今のうちがいいって言ったのは湯川さんですよ」
「そうだけどね……」
「いきなり何年間の留学だったらオレも考えますけど……レッスンの先生から短期留学もあると聞いて、すぐに資料を取り寄せたんです。申し込むまでも早かったから、先生も驚いてました」
「会わない間にこんなことになってたんだな……」
 湯川はプーアル茶を飲み干した。

 2人は湯川の部屋に向かいながら、夜の街を歩いた。個人の店が多い街は、さすがにこの時間では明かりが少ない。並んで歩く登偉の吐く息が白く舞う。
「登偉」湯川は立ち止まって登偉を呼んだ。
「はい」登偉も立ち止まった。
「ポケットから手を出す!」湯川は手を出すジェスチャーをしながら言った。
「え!?」
「転ぶと危ないから!」
 そう言うと、登偉は「寒いのに〜」と頬を膨らませながら、ジャケットのポケットから両手を出した。
「じゃ、行くぞ」
 湯川は登偉の右手指に自分の指を絡ませ、そのまま手を握りしめた。そして再び歩き始めた。登偉の鼓動が早まった。手をつなぐのは<あの時>以来だった。
「あの時は、まだ遠慮して手をつないでましたよね」
「あの時?」
「オレを連れてくぞ!って部屋に連れ込んだ時」
「そりゃあな……でも、あれから早かったな…関係性が変わるのが」
 湯川がそう言うと登偉は立ち止まって湯川の方を見た。
「オレは人生が変わりつつあります。……ていうか……もう変わってる」
 白い吐息で覆われていたが、登偉はすこし涙ぐんでるように、湯川には見えた。湯川は手を放し、登偉の肩を抱き寄せた。そのまま歩き出そうとすると、登偉が「待ってください」と湯川を止めた。
「オレ、手をつないでもらった方がいいです」涙目を細めて言った。
「……そう?」湯川が言うと、登偉は頷いた。湯川は左手を登偉の肩からはずし、再びお互いの指を絡ませて、一緒に歩き始めた。

「店はいつから正月休みなの?」
「30日からですね。その日に店のみんなと忘年会をやりますけど。仕事始めは4日からです」
「そしたら、その帰りから何日かウチに泊まりに来なよ。おせち料理はないけど、何かごちそう出すよ」
「やったぁ~」登偉は両手を挙げた。
「ちっちゃいキーボード、持ってってもいいですか?」
「あぁ、いいよ。実はおもちゃのグランドピアノもある」
「え!気がつかなかった!」
登偉は湯川の部屋を事細かに思い出しても分からず、悔しそうな顔をした。


10

 翌日から、登偉は店がさらに忙しくなり、湯川も年内の受注を終わらせるために自分を追い込んだ。2人は別々の生活で見つけたもの――街のイルミネーションやクリスマスの飾り、スクーターのシートで丸くなるネコ――をカメラで撮ってLINEで送りあった。また、クリスマスに登偉は『White Christmas』のピアノバージョンを≪動画で録音≫し、湯川に送った。動画は登偉の手元と鍵盤しか映ってなかったが、登偉が元気そうなのが不思議と伝わってきた。これが2人の初めて迎えたクリスマスだった。

世間が仕事納め迎え、忘年会も終え静かになった夜、登偉は数日分の着替えとミニキーボードを持って湯川の部屋にやってきた。
「あと、これ……」
登偉は焦茶色をした縦長の紙袋を湯川に差し出した。
「え!?マジかよ」
湯川は中身を覗き込んだ。深い赤紫色の瓶が見えた。
「安いやつですけど……」
「いやいや……実はいまローストビーフを仕込んでるんだよ。年明けたら食べようと思って」
「じゃあ、ちょうどよかった〜」
「ホントに……!」

  大掃除も終わり、大晦日は湯川の部屋でのんびりと過ごした。湯川はリビングの隅っこにあるターンテーブルやコンポの棚の下からおもちゃのグランドピアノを出して登偉に見せた。
「え!なんかオシャレ!」ピアノを見たとたん登偉は感嘆した。
 ピアノはソファの前のテーブルの上に置かれた。外側は黒く塗装されておらず、ナチュラルな木の色のまま。登偉はソファを下りてラグに直接座り、ピアノに近づいた。屋根を開け、いくつか鍵盤を鳴らす。
「すごいカワイイ音……」
スウェットの袖をまくり、両手を鍵盤の上に乗せてメロディーを奏でた。湯川はソファに寝そべり、ピアノの音色に聴き入ろうと目を閉じた。……が数小節分聴いたところで「え!?」と声を上げた。
「なんでいまそれ!?」
「え……いや、この音に合ってるかなぁと思って」
「あ、そうか!なるほどね!」
肩をゆすって笑いながら湯川は登偉の肩をポンと叩いた。登偉は《となりのトトロ》をしばらく弾き続けた。曲間をおかず、演奏の流れで曲が変わった。《L-O-V-E》。
「こんな小さいピアノでも立派に弾けるからスゴイよなぁ」
湯川は音に聞き入りつつ、楽しそうに鍵盤をたたく登偉を眺める。軽やかに動く指は細い。鼻筋から唇までなめらかな凹凸の横顔。栗色の柔らかい髪と白い肌は冬の日差しに輝いている。思えば出会う前から≪出会っていた≫存在。だが、半年も経つと抱きしめられる位置にいる。湯川は圧倒されるしかなかった。運命というものに。
 登偉が次々と曲を変えて弾いていると、湯川は寝息を立てていた。登偉は手を止め、ソファの背もたれに置いてあるブランケットを湯川の身体にかけた。そしてピアノの屋根を閉め、棚にそっと戻した。部屋は湯川の寝息だけが聞こえている。登偉は別のブランケットを自分の肩にかけてソファの足元に座った。膝を抱え、ブランケットにくるまって湯川の寝顔を見つめていたら、自分もいつの間にか眠ってしまった。

 2人は同じタイミングで目覚め、常備菜やチーズをつまみながら白ワインを呑んだ。昼寝をしたので日付が変わるまで起きていたが、午前中に初詣に行く計画だったので深夜1時までには一緒にベッドにもぐりこんだ。

「明日の午前中だけど――」
 元日の朝、横浜駅で電車を待ちながら湯川は話し出した。
「母親に会ってくる。一緒に行く?」
「え、さすがにお正月は遠慮しますよ。親子水入らずで過ごしてください」
「そお?」湯川は心底残念そうだった。
「そのかわり、と言っちゃナンですけど、今月と…来月もライブあるんで、ぜひとお伝えください」
「ん。かならず連れていくよ」
「ラストライブですね」
「やっぱり解散するんだ」
「オレの留学がいい潮時になったみたいです。学生のメンバーがいるんですけど、彼も就職活動が始まるので。だから、円満に」
 登偉は湯川に笑顔を見せた。

 2人は川崎大師駅に着くと、まずは参拝に向かった。駅を下りると真っ先に感じる甘酒の香り、飴を切る心地よいリズム、看板の≪くずもち≫の文字の誘惑をくぐり抜けながら……。大本堂に並ぶ行列をさばく警備員の注意喚起のコトバが面白くて、並んでいる時間はあっという間だった。2人は参拝の後、境内をぐるりと見て回ると、仲見世をのぞいた。湯川は自分たちの分と母親へのお土産の分のくず餅を買った。

 石川町駅から湯川の自宅に戻る道すがら、湯川は不動産屋の店先の壁に近づいた。
「どうかしたんですか?」
 登偉はそう聞きながらついていく。
「いや、もう少し広い部屋に引っ越そうかな、と思って」
 物件情報を見回しながら湯川は答えた。
「今の部屋も良いと思いますよ、オレ」
「違うよ、登偉がいつ帰ってきてもいいように」
 湯川の言葉に、登偉は何も言わなかったが、すこし赤面しているのが湯川にはわかった。
「だってさ、短期留学の時はいいけど、そのあとは何年か行くんだろう?今の部屋の家賃を払い続けるのか?」
「たしかに懸念事項ではありましたけどね……」
 登偉の言葉を聞くと、湯川は満足げな表情になった。
「オレも今の家を気に入っているけど、もっと広い方がいいだろ?」
 湯川はそう言って、いくつかの物件情報をスマートフォンで撮った。

 帰宅して夕方になると、仕込んでいたローストビーフを切り分け、登偉のお土産の赤ワインの栓を開けた。ソファの前のテーブルにはほかに玉ねぎたっぷりのタルト・フランベ、ブロッコリーなどの温野菜が並んだ。テレビでバラエティ番組を見つつ、のんびりと新年の夕食を楽しんだ。

「湯川さん」
 大方の皿が空になると、登偉はソファに横向きに座り膝を抱えた。
「ん?」
 湯川は登偉の方を見た。登偉はまだそこまで酔っていないようだった。
「なんでオレにここまでしてくれるんですか」
 登偉の問いかけに、落ち着いた声で湯川は答える。
「してあげてるっていう感覚はオレにはないよ」
 湯川は少し斜めに座り直し、まっすぐに登偉を見つめて言葉をつづける。
「登偉と一緒にいるのが心地よくて、できるだけ一緒にいたいっていうのが大きいかもね。それで、一緒に時間を過ごすなら思いっきり楽しいほうがいいじゃん?まぁ……もうオレなんか初老だから遊びまわるとかムリなんだけど」
「オレ……湯川さんといるの、めっちゃ楽しいです」
 登偉の目はすこし赤くなっていた。
「なんかもう、オレの生きている世界に自然とお前がいるの。でも、アレだな、これが当たり前だってならないようにしないと……」
 湯川は登偉の目元を指先でなでた。登偉はそれで言葉を詰まらせたかと思うと、グラスを置いて湯川の首元に飛び込んだ。
「あーもう、泣くなよぉ」
 湯川は登偉を両手で抱え込み、子供をあやすようにポンポンと肩をたたいた。

 食器は水切りカゴに整然とならべられ、シンク内は乾いてなにも残っていない。静かなキッチンに衣擦れとキスの音が漏れてくる。ベッドに仰向けになっている登偉の両手に自分の手を重ね、湯川は登偉の胸と腹を唇で愛撫した。登偉のやわらかく、無毛の肌を撫でる無精ひげの感触。登偉は目を閉じて身体全体で湯川のすべてを感じようとした。湯川はボクサーの上から登偉の性器にキスをし、反応を見る間もなく彼のボクサーを脱がせてキスをつづけた。

11

「母親と昼メシ食って……2時か3時には家に帰るよ。昼は冷蔵庫にあるもので悪いけど……」
 翌朝、湯川は着替えながら、そう登偉に伝えた。
「はーい。オレはピアノの練習しないと……」
 登偉はキッチンで紅茶をすすって、そう答えた。着替える湯川の一挙手一投足を逃さず見つめながら。
「じゃな」
 湯川はローストビーフとくず餅が入った紙袋を持つと、登偉に声をかけた。
「はい、気をつけて~」
 登偉は湯川を送り出すとミニキーボードをソファの前のテーブルに乗せた。それにヘッドフォンをセットし、楽譜をバッグから取り出した。たまにスマートフォンで原曲の演奏を確認しながら、自分のパートの練習した。ライブの曲順決めがまだだったので、音源を確認しながらセットリスト案をバンドのグループLINEに送ったり。頭を使っているからか、正午ごろにはたちまち空腹になった。
 登偉はヘッドフォンを頭からはずし、立ち上がると両手を挙げ、グーッと身体を伸ばす。ゆっくり息を吐くと、キッチンへ移動。シンクで手を洗い、冷蔵庫を開けた。
 ≪冷蔵庫にあるもので悪いけど……≫と湯川が言っていたが、それを否定したいくらい、庫内にはホーローの保存容器がたくさん並んでいた。ローストビーフとちぎったリーフレタス、ポテトサラダを冷蔵庫から出した。スライスされたパンにレタスとローストビーフを乗せ、ソースをかけてパンを重ねて軽く押さえる。ポテトサラダはブラックオリーブと玉ねぎを具としたシンプルなものだった。
 食事の時くらいは気分転換に、と登偉はテレビをつけた。
 幸せすぎてコワい……。正月の平和なテレビを見ながら、登偉はふと感じた。このような感覚は、今までの自分には考えられなかったものだ。言葉にすればいたって月並みだが……。両親が離婚して、母親と暮らしていた時のこと――ときどき自分と2人きりになる<母の恋人>とのこと――を思い出すことはあっても、それから受ける衝撃は以前より弱くなっている気がする。なにかしら居心地の悪さを抱えながら暮らしていた日々、からの現在。≪Life on Mars?≫に気づいてくれた湯川が、今や傍にいる運命。
 登偉は食べ終わっても、しばらくテレビを眺めていた。差し紙されるように自分のやるべきことを思い出すと、スクっと立ち上がって食器を洗い、練習を再開した。午前中のように聴く、弾くを繰り返す。グループLINEに返信が来ていたので、読んで考えて、また返信する。楽譜の空いたページに付箋を貼り、そこにライブの曲順を書いていく。曲順がおおかた決まり、演奏の流れを掴むと、登偉は頭を音楽から解放させた。ヘッドホンを外してソファに横になり、固まりかけた腰と背中をソファに沈みこませた。どこからか子供たちの笑い声がする。そうか、冬休みだよな……登偉は心地よくなって目を閉じた。

 登偉の眠りが浅くなるころに、鋼のドアが開閉している音が聞こえた。そういえば湯川が帰ってくる時間かな、夢うつつの頭でそう思った。登偉は外の西日を感じながら身体を起こした。
「登偉?」
 立ち上がったところで名前を呼ばれ、声の方向を向いた。
「なんでここにいる?」
 玄関に立っていたのは曽我部だった。

 曽我部は部屋に上がり込み、登偉の前に立った。
「知り合いだったのか?湯川と」
 曽我部はテーブルの上を見回した。キーボードやヘッドフォン、楽譜。それに紅茶の入ったネイビーのマグカップ。以前、湯川が棚から取り出そうとしてやめたものだ。
「知り合い以上かもしれないな」
 登偉は答えなかった。曽我部を無視し、テーブルの上のマグカップを取ろうとすると、すかさず曽我部がマグカップを壁に投げつけた。重たく大きい音に登偉の呼吸は荒くなった。
「いつからこんな関係になってた?」
 登偉は息をするだけで精一杯だった。こちらが黙っていると、曽我部も黙っていた。登偉は曽我部の足元を見ているしかなかった。
「訊いてんだろ!!」
 怒鳴られたかと思うと、左頬に熱と衝撃を感じ、身体のバランスを崩すとキーボードの上に倒れこんだ。手をついて立とうとすると曽我部が登偉の頭を押さえつけた。
「オレのなにが不満だ?」
 曽我部はテーブルから登偉の身体を引き離すと、ソファに叩きつけた。

 湯川は母親に持たされた土産を手にさげ、マンションのエレベーターを下りて自室への廊下を進んだ。出かける時に鍵をかけてなかったが、登偉がいるから大丈夫だろう。湯川はなにも考えずにドアを開けた。自分と登偉の物ではない靴が目に入り、違和感が一気に湯川の表情を奪った。
「おかえり」
 そう言ったのはソファの前にいる曽我部だった。湯川はなにも言わず荷物を置いてソファの前に回り込んだ。ソファには登偉がうずくまっていた。
「登偉」
 登偉の身体を起こしながら湯川は名前を呼んだ。登偉は湯川に気づくと、ただ彼にしがみついた。
「もう大丈夫だ」湯川は登偉を支えながらソファに座り、立っている曽我部を見上げて言った。
「帰ってくれ」
「登偉がここにいる理由を教えてほしい」
 湯川はしばらく答えなかったが、埒が明かないと思い口を開いた。
「付き合ってる……」
「いつからだよ」
「10月くらいかな……」
「オレがこないだ来たときにはもう付き合ってたのか。あの歯ブラシも……マグカップも登偉のだったってことか」
 湯川は黙っていた。答える気配もなく、こちらを見もしない湯川。曽我部は両手を振り上げ、次の瞬間テーブルの上のものを両手で払った。大きな音をたて、キーボードやヘッドフォンは床にたたきつけられた。その方向に原型をとどめていないネイビーのマグカップが湯川の視界に入った。湯川は登偉を背もたれに寄りかからせると立ち上がった。
「気が済んだか?」
 湯川は曽我部をまっすぐ見て言った。湯川の声は落ち着いていたが、曽我部は彼の目の奥から感情が見て取れた。
「登偉を傷つけるのなら今すぐ出ていけ」
 曽我部はため息をついた。そして登偉にも聞こえるようにこう言い放った。
「せいぜい、こいつのカラダを楽しめばいいよ。オレが散々抱いた……」
 湯川は曽我部の喉をつかんだ。
「登偉を辱めるのは俺が許さない」
 静かな言い方だったが、震えのない声には決意と威厳が滲んでいた。曽我部を突き放すようにして喉から手を離した。
「もうお前は友人じゃない」
 曽我部は後ずさりしてソファから離れると、逃げるように玄関で靴を履き、部屋を出ていった。湯川は鍵とドアチェーンをかけ、首をもたげると目を閉じて呼吸を整えた。

 湯川はビニール袋に氷のかけらをいくつか入れ、口をしばってタオルで包んだ。ソファには登偉が背もたれに脇をもたれて座り込んでいた。
「横にならなくて大丈夫か?」
 湯川はソファに座り、登偉の頬にそれを当てた。
「はい……なんとか……」
 登偉はそう答えながら頬に当てられた氷を自分の手で押さえた。湯川はつづけて、登偉に口を開けさせ、切り傷がないか確認した。登偉の口の中に少しの出血を確認すると、ティッシュペーパーを何枚か取って血の混じった唾液を吐き出させた。
「自分でまいた種です」
 登偉は諦めたような表情で言った。
 湯川は優しい表情で登偉の髪をなでた。そしてこうつづけた。
「でももう、これで全部刈り取ったんだ」

12

 近所の庭や公園で梅の花が咲いて春を呼ぶ。湯川は――今年も春が来るんだな――とホッとしながら梅の花を見て歩いた。曽我部には年始以来会っていない。登偉のライブに行った時も曽我部の姿は見当たらなかった。
 自宅の最寄り駅から3駅目で電車を降りる。天井から屋根にかけて真っ白なチューブのようになっているホームを歩く。春休み前の平日の昼間だから人は少なく――この真っ白い景色と閑散が相まって不思議な気分になる。改札を出て、地上に上がって、商業施設を見ながら登偉からの連絡を待つ。登偉は留学と引っ越しの準備が忙しくてしばらく会えていない。これからも会うことは少なくなるだろう。とあるインテリアショップを熱心に見ていると、手の中のスマートフォンが震えた。
「もしもし……登偉?」
「はい、遅くなってすみません。いまやっと着いて……ランドマークタワーの中にいます」
「あ、じゃあ、オレもそっちに行くよ。1階に降りてずーっと歩いていくとハードロック・カフェがあるから、そこで落ち合おう」
「わかりました!」
 湯川は全速力で走って行きたかったが、なにぶん体力の問題があるので、衝動を抑えて早歩きで向かった。クイーンズタワーに入ると通路の真ん中でこちらを見ている登偉が見えた。湯川は思わず手を振って合図した。
「……お久しぶりです」
 距離が近づいたときに登偉が言った。声がこもっていたが、登偉が照れているからなのが表情でわかった。
「……会いたかった……ずっと……」
 湯川は感情を吐露せずにはいられなかった。
「…オレもです……」
 登偉は湯川の笑顔から、目尻のしわや白いものが混じった無精ひげを見て取った。すぐにでも撫でたかったが、我慢した。
「腹減ってるだろ?」
 湯川は登偉の背中に手を添えると店の中に入っていった。

 食事を済ませると腹ごなしにクイーンズイーストの中を見て回った。
「登偉が来る前に家具の店をいろいろ見ててさ……今よりも広い部屋に引っ越すということもあるけど、なんか久々に……年甲斐もなくウキウキしてる」
 照れて目尻が下がった湯川を見ると、登偉はニンマリと笑った。
「せっかくだからベッドも買い換えようかなと……クイーンサイズに」
 湯川がニヤリと笑って言うと、登偉は頭をコン!と湯川の肩にぶつけてきた。

 グランモール公園、美術の広場。ここに来たいと望んだのは登偉の方だった。
「モノクロ写真に映えそうな雰囲気が好きで――日本を発つ前にもう一度来たかったんです。以前、ここでポプラの実をいくつか拾ったんですけど、ここに植えてあるのはケヤキなんですって」
「へぇ……じゃあ別の場所から飛んできてるのかな」
「そうだと思います」
 湯川は隣を歩きながら、登偉の顔をまじまじと見た。
「……かわいいな、お前」
 嬉しそうに湯川が言う。
「え、そうですか……」
 登偉は照れて、両手で頬を覆った。上気する頬を手のひらで落ち着かせている。湯川はそんな登偉を見ると、立ち止まって、彼の正面に回り込んだ。登偉が湯川を見上げる。未だ残る寒さで透き通るような顔に、バラのような色の唇が映える。思えば名前も知らないころから、登偉に見惚れていたんだ。高鳴る鼓動に声が上ずりそうになる。「オレは……」と言いかけて、なんとか心を落ち着かせた。そして、ゆっくりと言葉をつづける。
「一生、登偉の隣で眠りたい」
 湯川の言葉を聞くと、登偉はすこしだけ目を見開いた。少しの沈黙の間に言葉の意味をくみ取ると、登偉が口を開いた。
「……オレ、キズモノですよ?」
 その表情は、年明けに見た諦めの表情と同じだった。湯川は優しい表情で答える。
「お前に傷があるなら、その傷をオレがぜんぶ覆うよ」
 湯川は、登偉の左右の頬を包み込むように両手で触れる。湯川の手の中から見える彼の瞳はあふれそうな虹をまとっている。
「……好きです……」
 登偉が涙声で言った。彼の潤んだ目につられて心が破けそうになったが、湯川は精一杯の笑顔を作った。
「……オレも」
 湯川はそう言って、満足げに口角を上げた。、登偉がなんで!?という表情で返したあとは2人で笑い合った。身体が揺れた拍子に2人の顔が近づくと、登偉は自然に目を閉じた。

「じゃあ、よろしくお願いします」
 湯川は引っ越し屋に挨拶をすると、部屋の鋼のドアを閉めた。あとはガス業者と不動産屋を待つだけ。湯川は腰の位置にある窓の桟に腰かけた。
 就職した時に、一目ぼれで決めて借りた部屋。それでもいつかは出ていくだろうと思って、暮らしている間は部屋づくりを楽しんだ。そうしていくと部屋の居心地が良くて、いつの間にか一生暮らすつもりになった。……だが、今ではすっかり空っぽになっている。この、自分の人生が自分の手の中に存在しない感じ……本当に不思議だな、と湯川は感じた。
  一足先に登偉の荷物が新居に届いている。荷ほどきする前に彼は日本を発ったが、「大したものはないんで、テキトーにさばいちゃってください」と成田で言っていた。確かに彼の荷物は若い割に少なかったのだ。だが、良い。これから2人でいろんなものを増やしていこう。残っていた手続きを済ませると、湯川はボストンバッグを担ぎ上げてドアを開けた。暖かくて優しい陽光が湯川を包み込んだ。

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