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2度目の映画「轟音」

 同じ映画を劇場で2回観るってなかなかなくて。観たいと思うことはあるんですが、そうこうしているうちに上映期間が終了してしまったり。そんななか、最終上映日、どうしてももう一度鑑賞したくて、お邪魔してきました。

 前回同様、以下、映画のネタバレを含みます。お嫌な方は引き返して頂けましたら幸いです。読後クレームは無しでお願い致します。



 最初に言うのもあれなのですが、今回、誠と浮浪者の彼の最後のシーンで涙が零れてしまいまして。1度目のとき、グッとせり上がっていたものが、今回は溢れてきてしまったような。そんな感覚がありました。ここからのシーンが観たくて行ったのが大半だったんです、実は。そのくらい、私にとってはお気に入りというか、希望が体現されていると思った場面なのです。私の欲しい、欲しかった希望。最後が夜明け時なのも好き。

 前回鑑賞させて頂いた際、別に考察や分析を目的として観ていたのではなく、本当にただ感想を綴らせて頂いていたんですが。今回は、あえて少しだけ受け取りたいという意識を持って観てみました。そうしたら不思議と違う部分に目がいったりもして。

 みんな、自分が救われるための術を「誰か」に、または、そもそも自分を救ってくれる「誰か」を無意識のうちに求めていて。

 誰かの影を重ねながら生きていて。

 人の営みは常に表裏一体で。

 誠のことを『「誰か誰か」と言っていた子供が』と表現させて頂いていたんですが、あれは彼がフォーカスされているために分かりやすかっただけで、本当はみんな変わらないんだって思いました。

 一緒に東尋坊タワーに行きたい、とひろみさんに言っていたまゆこさん。彼女は、ひろみさんに母の影を重ねていたのだろうなとは、前回も思っていたのですが。彼女、ひろみさんの不倫に実は気づいていたんじゃないかなって、ご飯のシーンでなんとなく思いました。あくまで推測ですけれど。

 母を重ねて見ている彼女(ひろみ)だからこそ、余計に幸せになって欲しい。人柄が好きとかだけではなく、上乗せされる気持ちって分かるなって。そして、電話のシーンでは、隠したいけど本当は気づいて欲しい、なんて気持ちがあったんじゃないかなって。お母さんに対する娘ってそういうの、ありませんか? 私はありました。

 あと、今回とっても印象に残ったのは、カップ麺を食べようとして湧かしているやかんの音。あれ、「轟音」的表現というか、彼女の心の内の音なのではって思いました。

 それから、この電話のシーン、人の営みの表裏一体の一端を感じた部分でもあります。誰かが幸せを感じているとき、どこかで誰かは苦しんでいる。それは、浮浪者の彼を縁(よすが)にしていた誠と、彼の母だったり。ひろみさんが健太郎と居るときの、野村さんだったり。逆のときの、ひろみさんだったり。

 これ、本当に当たり前にあることだ、って。普段気が付かないだけで。

 それから、今回、木村さんが凄く気になって。前回、木村さんは浮浪者の彼を繋ぎ止めているんじゃないかって思ってて、やっぱり今回もそう思ったんですが。

 毎回、依頼者は必ず立ち会ってるんですよね。喧嘩というか殴りのときに。あれって、依頼者視点だと見届けと腹いせなのかなと思っていて。ただ、木村さん視点だとストッパーなんですよね。依頼者って。

 浮浪者の彼って恐らく歯止めが利かない。止めないと止まらないんだと思うんです。殴ってる間、思考は働いていない。で、依頼者の人達って相手を殺すつもりはないんですよね。そこも人の思考の表裏一体の部分でちょっと怖いよなって思ったんですけれど。なので、浮浪者の彼がやり過ぎようものなら、必ず止めるんです。だから、木村さんは最後まで見ていなくても平気。ここです。

 やっぱり、木村さんは彼に一線を越えさせる気はなかったんだ、と。というより、越えさせたくない、かな。

 ある種、彼が捕まれば芋蔓式にバレる可能性があるっていう保身にも取れるんですけれど、だったらわざわざ喧嘩の最中に現場付近に居なくてもいいと思うんです。見張ってたんじゃないかなって。ある意味、見守っていた、とも。

 想像でしかないのですが、最後にやってきた警官を呼んだのは彼じゃないかって思ってます。立会人の依頼者(野村さん)が居なくて、正直、焦ったりもしたのかなあって。で、実はヤクザさんの方にも掛けたんじゃないかって考えたりもして。依頼に来ていたような覚えが(多分)。どちらにしてもひとつで。

 彼には、浮浪者の彼が、一人で生きていけるようには見えなかったんだと思うんです。だから、放り出さなかった。結論はそこかなって。情、ですかね。

 これは、誠と浮浪者の彼の関係もある意味、一緒かなって。

 あと、今日、散髪のシーンを見ていて思ったんです。あ、今、重ねてるのかなって。段々と心を揺らしていく様を見ていくのは、人に戻っていくようで。巣立ちしていく誠と同じように、進んでいくものを感じました。

 同時に、黒と白のTシャツも、センターラインを割らずに歩く二人の背中も、色んなところでずっと、同じようには、同じところでは、生きられないことを示唆されているようで。一線を感じて。だから、余計に一瞬だけ噛み合うラストシーンがグッと来てしまいました。

 ひまわりは正面を向けたかったというより、同じ方向を向かせたかったのかな。

 そうそう。健太郎とひろみさんの二人は、タイミングもあったのかなって。どちらも自分を救ってくれる「誰か」にお互いを定めたんじゃないかなって。それが恋なのか愛なのか、と言われたら、そういうものだってあるんじゃないか、という大枠な捉え方になるんですが。

 きっと東京に残してきたものだってあって、だけど戻ってきた自分を認めて欲しかったであろう健太郎と、「今」から脱却したくて、この人ならと考えたひろみさん。そのお互いのタイミングが合ったんじゃないかなって。

 海のシーン前の「海が好き」はアドリブだったって仰ってて驚いたんですけど、あの家族で仲良く海、っていうのは、ひろみさんの憧れでもあったのかなって。それは、健太郎となら叶えられる(子供云々は別として)とも思ったのかな。

 あ、そうそう。まゆこさんのシーンですが。彼女も間違いなく、巣立ちだったなって。「東京、行こか」。この中に詰まってるものって凄く大きいなって。今の仕事を続けるために。父を連れて。母とよく来た東尋坊タワーのある地元を離れて。父は、家族、だから。「面倒看たってくれ」ってよく使われるけど、私も、実は、言葉的にあんまり好きじゃないです。

 羅列なのは、お許しください。やっぱり思うまま綴ってしまうみたいです。だいぶ想像も入ってしまってなんだか……でも、うん。

 もう一度観たら、また違うことがきっと見えるんだろうな。

 これから地方での上映が始まるそうです。ぜひ観た方には感想を聞いてみたいです。あ、今度は夏に、主演の安楽さんが監督されて、片山さんが脚本された映画を観に行くつもりです。

 一期一会。素敵な出会いでした。ゆっくりお話聞いてみたい。

 最後までお読みくださって、ありがとうございました。

2020.2.29

#映画 #感想 #轟音

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