北村薫さんの人気シリーズ小説をさらに楽しむ! 菊池寛の名作短編「石本検校」を全文掲載
1月22日発売の「オール讀物」2月号は、将棋特集!
北村薫さんの人気シリーズ「中野のお父さんは謎を解くか」のテーマも将棋。掲載の「菊池寛の将棋小説」は、短編小説「石本検校」にまつわる“謎”が、様々な文献を通じて明かされる力作です。
そこで北村薫さんの小説をさらに楽しんでいただけるよう、大正12年に菊池寛が発表した「石本検校」を全文公開いたします!
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「石本検校」 菊池 寛
将棋指しの天野富次郎と石本検校(いしもとけんぎょう)とが、一緒に深川の松井町の茶屋金万(きんまん)を出たのは、子(ね)の刻(こく)を廻つてからだつた。
二人の手合(てあわせ)を、初めから見てゐた旗本の市川備中守は迎ひの駕籠で、先へ帰つた。同席してゐた木場(きば)の相模屋の隠居は、金万を出ると直ぐ、右と左に別れた。
同じ、芝に住んでゐた天野と検校とは、嫌でも一緒に帰らねばならなかつた。一緒に帰ることは、勝つた宗歩にはさう不快ではなかつた。が、四番指して、一度しか勝てなかつた検校には宗歩と一緒に帰ることは、負け腹のどうにも収まらない気持を、家まで背負つて行くことだつた。
天野は、その前年の春からずつと諸国を遊歴し、この夏江戸に帰つたばかりだつた。
備中で香川栄松を破り、大阪で深野宇兵衛に勝ち、四国では、無段名人と呼ばれてゐた天下無敵の四宮金吾に香(きょう)を引いて、その鳥指しを、一蹴し去つた彼の強さは、彼が帰らぬ先から、江戸中の評判だつた。
天性剛愎で、負け嫌ひの石本検校はこの若い天才の隆々たる声名を欣ばなかつた。
「中国や四国の、片田舎の云はば鳥なき里の蝙蝠(こうもり)見たいな将棋指しに勝つたからとて、それほどの評判には当らぬ。」
彼は、腹の中でさう信じ口に出しても屢々広言した。彼は、天野が遊歴に出るまへに、後手番(ごてばん)で天野を破つてゐた。その記憶と自信とが天野の声名に容易に頭を下げさせなかつた。
「なら、一番指して見るのが、いゝではないか。お膝下の将棋指しの腕を見せればいゝではないか。」
実力五段を有して、玄人(くろうと)にも畏敬されてゐた市川備中守が検校に勧めた。
「結構でございます。」
検校は勢ひさう答へずには居られなかつた。
そして、彼は今日朝の八つから、四番指して二番負け越してしまつたのだ。
大事の手合(てあわせ)に於ける惨敗が検校の心持をむざんなものにしてしまつた。
永代橋にかゝるまで、二人は黙つて歩いた。検校は、天野が一言位は、何とかこちらの気持を、いたはるやうな言葉を出してくれるのを待つてゐた。が勝負にかけては、検校同様に一徹な天野が、そんなお世辞らしい言葉を云ふ筈はなかつた。
検校は、ムシヤクシヤした心持を、押へ切れなくなつてゐた。
「富次郎殿。」
彼は、見えない眼で、一歩先に進んでゐる天野の方を見た。
「何ぢや。」天野は一寸足を止めて振返つた。
「さて/\、貴殿の上達は素晴らしいものぢや。この向きでは、やがて宗英(そうえい)先生にも劣らぬ大名人になるであらう。だが、この検校とても、腕ではそなたにも、ひけは取らぬつもりぢや。だが、何分天性の盲目ではな。見える眼で盤面を睨んでゐるのと心眼に浮べて居るのとでは、はゝゝゝ何(ど)うしても敵はぬのぢや。先年大橋柳雪殿に敗れたときも、さう思つた。同じ不具でも、柳雪どのは、聾ぢや。俺(わし)もな、せめて片眼でも開いてゐたならばなあ。はゝゝゝゝ。」
盲人の上ずつた笑ひ声が深夜の人気のない橋上に、気味悪くひゞいた。
それを聞くと、天野はムツとした。それだ。検校は、二言目には、盲目を持ち出す。勝つたときには盲目を持ち出して、自分の勝利に花をかざる。負けたときには、盲目を持ち出して、此方(こちら)の勝利に傷をつける。ずるい、卑怯だ。
「左様かな。」
さう答へた天野が、検校とは位置を換へたやうに、ムカ/\して来た。あんなに勝つても、負けたとは云はないで盲目の故(せい)にするのか。天野は相手の片意地が憎らしくなつた。
永代を渡り切つた頃から、雨がポツリ/\と落ちて来た。金万を出るとき、勧められた傘を断つたのを、二人とも心の中で、後悔した。が、それどころではなかつた。
「検校どの、今、盤面を生きた眼で見てゐるのと、心眼に浮べてゐるのとでは、違ふと云はれましたな。」
「いかにも。」
検校の声は険しかつた。
「私はさうは思ひませぬがな。初段、二段の者ならばともかく、高段の位に居るものには眼の前に在る将棋盤は形ばかりぢや。貴殿が、心眼でさすやうに、私なども……」
「いや違ふ。」検校は殺気立つてゐた。
「それはお手前が、心眼でさしたことがないから、さう云ふのぢや。詰将棋を腹中で考へてゐるなどとは違うて、敵を迎へて心眼で指すことは盲目の身でないと分らぬ。」
「いや分らぬことはありませぬ。ならば御一緒に歩いてゐるこそ幸ひ、盤面なしで心眼で、お相手いたしませうか。」
天野は色をなしてゐた。
「よろしい、お相手しよう。」
真剣の立合ひをでも始めるやうに、二人とも殺気を含んでゐた。
相手が心眼で指すなら、此方も心眼で指してやると云ふのだつた。が、さうは云ひ切つたものゝ天野にもそれは一つの冒険だつた。彼も盤面なしで指したことは幾度もあつたが、然しみな下手に向つての慰み半分のものだつた。が、かゝる大敵を相手にしては……。彼は、夜の冷たい空気の中で、頭を二三度振つて、憤怒の念を去つて、心気を澄さうとした。
「其許(そこもと)が、先手番ぢや。お始めなされい。」
天野は検校を促した。
「いや違ふ。先刻(さっき)の続きではない。盲目将棋となれば、別ぢや。其許から、お始めなされい。」
そんな枝葉な問題はどちらでもいゝ。さう思つて、天野は高らかに云つた。
「七六歩。」
「三四歩。」
検校は、勇気凛然として答へた。
「二六歩。」
「四四歩。」
「しめた。角道を止めた。」
天野は、心の中で欣んだ。彼は、敵が角道を止めてくれると、いつも指し易い気がした。
「二五歩。」
「三三角。」
「四八銀。」
「三二銀。」
「五六歩。」
「五四歩。」
「うむ。四間飛車だな。」天野は、心の中で更に安堵した。彼は、遊歴中、四間飛車に対するあらゆる場合を、研究してゐる。先刻も、四間飛車を一度破つたのに。
「五八金。」と上つた。
「四三銀。」
「おや。四間ぢやない。四間ぢやないとすると……」
彼は少し不安になつた。兎も角もと思つて、王を操つた。
「六八王。」
「六二銀。」
それは、向ひ飛車か、袖飛車かである。どちらでも来い、さう心を落ち着けて、更に王を操つた。
「七八王。」
「五三銀。」
「六八銀。」
「七四歩。」
「袖飛車かな。」さう思つて、
「六六歩。」
「六四歩。」
検校は、一町ばかり歩いてから叫んだ。敵はまぎれもなく向ひ飛車だ。
「三六歩。」
桂(けい)を捌かねば向ひ飛車は破れない。
「二二飛。」敵は、いよ/\飛車を振つた。
「四六歩。」
「六二王。」
「三七桂。」
向ひ飛車に対しても、彼は確乎たる成案を持つてゐた。
「七二王。」
「四五歩。」
「五二金左。」
「四七銀。」
「六三金。」
「四六銀。」
雨はだんだん烈しくなつてゐた。天野が持つてゐた提灯の灯は、いつの間にか消えて了つてゐた。二人は、半身濡れ鼠になつてゐることも、提灯の灯が消えてゐることも気がつかなかつた。
「九四歩。」
検校は、やつとぬれてゐるのに気がついたと見え、杖で探つて、町家の軒先を求めて立ち止つた。
「九六歩。」
天野も、端の歩を受けながら、検校に寄り添つて立つた。
「八二王。」「六七銀。」「七二金。」「二九飛。」「七三桂。」「六八金スグ。」「一四歩。」「一六歩。」「五一角。」二人は、軒先に半刻ばかり立つてゐた。検校は立ちつかれてしやがんでしまつた。
「四四歩。」
天野は、接戦の火蓋を切つた。
「同銀右。」
検校の思案は長かつた。
「四九飛。」
と指して天野は、会心の微笑が、おのづから頬に浮んだ。
検校の思案は、更に長かつた。
「六二角。」
「六五歩。」
天野は、英気颯爽として叫んだ。
「同歩。」と取る外はなかつた。
「四五銀。」
「五五歩。」と凌いだ。
「九七角。」
天野は、一挙にして敵営を突いた。
「五三銀。」と引いた。
「四四歩。」「五二銀引く。」「三四銀。」「四二歩打。」「二四歩。」「同歩。」「二三歩。」「一二飛。」「二九飛。」検校の敗色は、漸く明らかだつた。が、彼も六段の高位に居て、剛愎を以て一世に鳴るものだつた。指し込まれながらも、
「一五歩。」と、仕掛けて来た。
「同歩。」
「一八歩。」
「同香。」
「一七歩。」
「同香。」と、上げておいてから、
「八五桂。」と、角を圧迫して来た。
「八八角。」
「六四銀。」と上つて、角道を利かせた。
「二四飛。」
「四四角。」と、凌いだ。
雨が、小止みになつたので、いつの間にか二人とも歩き出してゐた。天野の目には、東の空がほの/゛\と白んでゐるのが見えた。
「二二歩ナル。」
「同飛。」
「二三銀ナラズ。」
「同飛。」
「同飛ナル。」
天野は、敵の飛車を奪つた。
検校は、往来の真中にうづくまつたまゝ動かなかつた。魚河岸へ行くのだらう。若い衆が、二三人勢よく駆け通つた。
「三三桂。」「二一龍。」「一七角ナル。」「八一飛。」「七三王。」「九一飛ナル。」「三九馬。」「八六香。」「八四歩。」「六六歩。」「八二銀。」「五一龍左(ひだり)。」「五三銀上ル。」「八五香。」「六二銀。」
それは、天野に取つては、愉快なる追撃だつた。が、青白い検校の顔に、苦悶の色がアリ/\と浮ぶのを見ると、天野も面(おもて)を背けずには居られなかつた。魚の眼のやうに白い眼を、さし込まれるにつれて、くる/\動かした。
「八一龍。」「七一金。」「六五歩。」「同銀。」「五五角。」「六四歩打。」「七七桂上ル。」「五四銀。」「六五桂打。」「八三王。」「七一龍右(みぎ)。」「同銀。」
検校の苦悶は、大きかつた。彼は往来の上で、もがいた。
「六四角。」
「七三香。」
「同桂ナル。」
「同金。」
「九三金。」
「同王。」
「七三角ナル。」
検校は、うつむいたまゝ半刻ばかりも立ち上らなかつた。
夜が、ほのぼのと明け切つて、行手に橋が見えた。天野はそれが京橋であるのに気が付いた。
二人は、其処から黙々として、芝口まで歩いた。芝口で別れるとき、天野は挨拶した。
「左様なら。いづれ近日!」
検校は、それに答へなかつた。
虎の門の方へトボ/\帰つて行く、盲人の後姿を、天野は長い間、立つて見てゐた。
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