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新生活を迎えるたびに侵食する、地に足をつけた先のヒリヒリ

「学生の頃は春から始まる新学期がくれば、いつも新しい自分に生まれ変われると思っていた。」

友人の言葉である。
学生までは、年次が変わるたびにすべてがリセットされ、新学期がくる4月になればまたイチからやり直せるという感覚だったらしい。

しかし、その先に続く言葉はこうだ。

「でも今は3月31日と4月1日は繋がっているということに気がついてしまった。」

4月で年度が変わっても、それ以前の自分と4月以降の自分に変わりはなかったらしい。

3月までにやり残したことが、4月からは無くなってるわけでもなく、もう一度最初から挑戦し直せるということもない。やり残したら、やったところまでの自分がいるだけだ。

友人の言葉を聞いて、頷いてしまった。

たしかに、昔ほど新生活にルンルンすることがなくなった。ルンルンというよりヒリヒリすることが増えた。

学生時代のルンルンは、言葉では言い表しにくい。根拠のない自信と未来への展望からくる明るい足取りだった。

それに対して、今のヒリヒリは根拠に基づいている。
だって、やり残したことの続きをしないといけない。続きができるのはわたしだけだ。

その続きをどの程度やるのかもはっきり見えている。仕事ならこの時間内にここまでの結果を出さなければ、評価はされない。給料も上がらない。場合によっちゃ下がる可能性もある。

そんな風に、学生時代には気がついていなかった、多くの選択肢と予想されうる結果を考えることができるようになったからだ。

ヒリヒリは地に足がついたからこそ感じる、新しい感情なのだろう。

しかしこのヒリヒリ、扱いが結構難しい。

どの程度やれば、どのくらいのリターンが戻ってくるのか、計算することができるからだ。

計算し始めると、割に合うことを優先してしまう頻度が増えた。時間と手間がかかることは後回し。すぐに結果がでて分かりやすいものをついつい選んでしまうのだ。

昔は時間を気にすることもなかったし、その先に待っているものを想像することもなかった。

ただやりたいからやった。
そのさきの結果は苦いときも、笑えることもあった。ときには涙するときも。
そこには善と悪はなかった。ただ結果があるだけだった。

でもヒリヒリしはじめた今はそうもいかない。結果には点数をつけ、比較し、判断がくだされる。その判断は自分自身でも行っている。

仕事ならある程度は仕方がない。基準は必要だ。しかし、趣味でも同じ感覚になってしまうのはいかがなものだろう。

趣味こそ結果を気にせず楽しめるものなのに、そこで良い悪いの判断を下してしまっては、本末転倒なのだ。

ヒリヒリはこうやって、大人の生活に侵食していく。
逃れることはできるのか?それはわからない。わからないが、わたしは逃れたい。

逃れて、ヒリヒリの先の感情を見てみたい。

それとも逃れずにその先へ行けるだろうか。

ルンルンからヒリヒリへ変化したように、ヒリヒリの先もきっとあるはずだ。

それがわかるまでは、とりあえずヒリヒリしていこうか。

編集:円(えん)

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