第29回 JTF翻訳祭2019【後編】~”翻訳の日”キャンペーンに思うこと/ 職業翻訳者としての誇り~

第29回 JTF翻訳祭2019、後編です。 ⇒【前編】はこちら


”翻訳の日”キャンペーンに思うこと

今回の翻訳祭に先立ち、JTF主催の”翻訳の日”をみんなで祝おうキャンペーンがありました。聖書をラテン語に翻訳したヒエロニムスの命日である9月30日は世界翻訳の日(International Translation Day)とされていますが、日本でも記念日として認定されたそうです。これを祝したのが本キャンペーンで、TwitterやFacebookに翻訳への思いを投稿すると、抽選で10名にインフルエンサーと事務局が選んだ「珠玉の品」がプレゼントされるとのこと。当選者の発表は翻訳祭の交流パーティーでされるとあって、翻訳祭もますます楽しみになってきます。インフルエンサーのひとり、あきーらさんの記事にもあるように、翻訳者や志望者の交流が広がる機会にもなる楽しいキャンペーンでした。

専用のハッシュタグを付けて翻訳への思いを綴ったツイートがタイムラインに飛び交う中、特に目立ったのは外国文学についての話題です。幼い頃大好きだった外国の童話や児童文学作品のこと。ある翻訳文学作品との出会いが人生を変えたこと---。みなさんそれぞれにとってのかけがえのない作品名を見ながら、深く共感しました。私もやはり子供の頃翻訳文学に出会ったことが翻訳者になる原点でした。当時読んだ絵本や小説は今も大切に取ってあります。

ただその一方で、すこし違和感を感じました。翻訳といえば文学作品という話題が多いことに対してです。翻訳は、文芸翻訳だけではありません。同業者なら当たり前に思われるでしょうが、一般の人にとっては文学以外の実務翻訳の世界があまりよく知られていない面もあります。また、当の実務翻訳者自身にも、自分の仕事の価値を宣伝しきれていない面があるのではないかと感じました。技術や特許などさまざまな分野の実務翻訳の意味や価値がもっと広く知られてほしいのに、と。よく実務翻訳者の間では、自分の分野は専門向けで一般の人に見てもらう機会がない、出版翻訳や映像翻訳と違って訳者名が出ない、取引先とのNDAがあるから私がこれを訳しましたと宣伝できない、といった話が出ます。私も同じです。でも、だからこそ、ではないでしょうか。

翻訳が日本の政治や社会を作ってきた歴史は古代にさかのぼります。飛鳥・奈良時代には中国から法律、政治、仏教、安土桃山時代にはポルトガルからキリスト教やヨーロッパの最新技術、江戸時代にはオランダから医学や地理などの技術や知識......外来文化が国や暮らしに及ぼした影響を挙げればきりがありません。その後、幕末から明治にかけて西洋の技術や概念が翻訳によって大量に流入し、近代日本の基礎を作ってきたことは言うまでもないでしょう。欧米から開国を迫られ不平等な外交条件を押しつけられる中、国が生き残っていくために必要な知識だったからです。

丸山真男・加藤周一『翻訳と日本の近代』(岩波新書)は幕末維新期の日本の翻訳事情について対談形式で解説された名著ですが、この本の「Ⅳ社会・文化に与えた影響p149-150」に、

明治初期の翻訳書をみると、まず軍事関係、兵法が非常に早い時期から目立ち、次に蒸気機関等の工業技術、化学等の自然科学。江戸時代から続く医学。次に法律制度、西洋事情全般を知るための地理や歴史。文学、芸術は最後に来る。

とあります。

また、山岡洋一氏は、当時の翻訳文献点数を自ら調査した所感をこう綴っています。

明治元年から15年までに翻訳出版された1500点近くのリストをみていくと、小説は意外なほど少なく、翻訳点数がとくに多いのは、医学、工業技術、農業技術、法律などの分野である。当時、必要に迫られていた分野で大量の翻訳が行われていたのだろう。
翻訳についての断章」(「翻訳通信」2004年3月号)15 年に数千点 - 明治初期の大翻訳時代

文学は人が心豊かに暮らしていくために欠かせない存在です。しかし、異文化どうしが出会ったとき、先にもたらされるのはさまざまな技術や実務知識です。その技術や実務知識を外から内へと広める役割を担うのが翻訳なのです。実務翻訳によって日本の国家や社会、文化が有形無形に形作られてきた長い歴史があるという事実がもっと広く知られてほしいし、できれば翻訳者にとっての常識となってほしい。実務翻訳が今の日本を作り、支えてきたことを踏まえれば、翻訳者は今以上に誇りをもって翻訳という仕事に取り組めるようになるのではないかと感じます。

職業翻訳者としての誇り

江戸や明治なんて昔のことだし、今の翻訳者の仕事には関係ない。歴史って苦手だし、そんなややこしい話は勘弁して。そう思われるでしょうか。いえ、たった150年前のことなんです。150年前といえば、外国文学でいうと『トム・ソーヤーの冒険』『若草物語』『不思議の国のアリス』あたりが刊行された時代です。どうでしょうか。時代は違っても人の心やユーモアなど本質的に変わらない名作ばかり。少なくとも、「昔の話だから読んでもぜんぜん理解できない」なんて人はいないでしょう。実務翻訳の世界にも同じことが言えるのではないでしょうか。

技術翻訳をしている人なら、辞書にまだ載っていない新しい用語を訳出する苦労を味わっている人も多いと思います。私たちが日々訳している最新の技術や概念は、明治期にはまだ存在しなかったものには違いありません。しかし、それらをどう訳していくかのプロセスや発想法については、当時と共通する部分もありますし、幕末維新期の翻訳に学ぶべき点も多いのです。辞書やネットもない時代に国家の運命を背負って翻訳事業にあたった偉大な先人達から今の私たちが学ぶものとは、先人達への敬意といった精神的な面よりも、むしろ翻訳技術そのものではないかと思います。昨年の読書会で柳父章氏の著作を読んだときにも、翻訳者どうしでそんなことを話し合いました。

翻訳文学によって異文化を知り、外国の友達を作る。それはもちろん大切なことです。ですが、翻訳を語るときに文学の話しか出ないという状況は、残念に感じられます。文学は私も大好きですしこれからも多く読み継がれていってほしい。そのうえで実務翻訳者としては、自らの仕事について誇りを持ってさまざまな言葉で語り継がれていけたらと願います。

冒頭に書いたJTFの「” 翻訳の日” をみんなで祝おうキャンペーン」、その趣旨は「翻訳に関わる人々の活動を広く日本社会に浸透させ、推進することを目的とし」たとあります。はたしてその趣旨は達成したのでしょうか。キャンペーンはプレゼントもあって楽しいものでした。しかし、そこでのツイートは文学や文化の話題が多く、実務翻訳者自身が自らの仕事内容について外に向けて発信するメッセージはあまり見られませんでした。翻訳祭のプログラムはというと機械翻訳中心で、文化や文学に触れるセッションは皆無でした。なぜこのようにかけ離れてしまっているのでしょうか。どちらも翻訳界の一側面には違いありませんが、ばらばらで一貫性がないようにも感じられてしまいます。私にはこういった面に、今の翻訳環境を取り巻く問題があるように思えてしかたありません。

翻訳祭の2日後に開催した『翻訳とは何か』読書会でも、翻訳祭に参加した人たちの中から、本年の翻訳祭のプログラム内容に文化や文芸などのセッションがなかったことを残念がる声があがり、業界の余裕のなさの表れではないかという意見もありました。

翻訳祭の1限目のセッション「質を守る翻訳者の工夫~原稿受領の時点から」は残念ながら聴講できませんでしたがありがたいことに当日の発表資料を公開してくださっています。
配布資料「質を守る翻訳者の工夫〜原稿受領の時点から〜」(高橋さきの/齊藤貴昭)

資料に出てきた「リスペクトされる仕事 プライドをもてる仕事」というフレーズが印象に残りました。

このセッションは満席で立ち見が出て、入場制限がかかるほど大盛況だったとのこと。このような翻訳の本質について考えるセッションや、言葉や文化についてのセッションが今年の翻訳祭でほとんど見られなかった点が気がかりです。機械翻訳の技術進化にはたしかに注目しています。しかし、不自然に一方向だけを推奨することなく、翻訳の本質を捉えたプログラムを期待したいと思います。

そしてなによりJTFには、実務翻訳の歴史や存在意義を踏まえ、職業翻訳者が誇りを持てるような力強いトップメッセージを発信していってほしいと願います。翻訳者が発する言葉にのみ委ねるのでなく、翻訳者が翻訳についてもっと語りたくなるような、翻訳者の内なる言葉を引き出すようなメッセージをぜひ業界団体の側からも発信していただきたいものです。いつも業界のため、私たち翻訳者のために力を尽くして下さっていることには日々感謝するばかり。その上で、個人会員としての期待と応援の気持ちを込めて要望を書かせて頂きました。

おわりに

今回の翻訳祭、2日前になり家庭で複数の問題が発生し、一時は参加をあきらめかけました。当日朝まで諸々調整した結果、かろうじて会場に足を運ぶことはできましたが、午前中の2セッションとランチョンセミナーのみの参加となりました。午後の2セッションを聴講できず、お会いできなかった同業者さんも多かった点は心残りでした。

人の命や健康にかかわる事態が起きると、つくづく思います。イベントやセミナーなどに参加できることがどれほど貴重で贅沢なことかと。「万障繰り合わせて」という言葉の重みをかみしめます。自分がこれまでに主催、運営にかかわった会に参加してくださった方々も、いろんな思いをしながら都合をつけて下さったのだろうと、ますますありがたく思えます。

そんな中でも、今回の翻訳祭、日頃お世話になっている翻訳会社の方々と久しぶりにお会いできたほか、オンラインで連絡を取り合っていた新規エージェントさんにご挨拶できたことは幸いでした。セッションの合間には、勉強会等でご一緒したことのある知人同業者さんたちと何人もお会いすることができました。当日を振り返ってみると、パシフィコ横浜の明るく開放的な雰囲気と、お会いした翻訳者さんたちの笑顔が思い浮かびます。今年の翻訳祭、おかげさまで楽しい思い出になりました。

実行委員をはじめ関係者のみなさま、ありがとうございました&お疲れさまでした。

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翻訳者や言葉関連の仕事をする人のための読書会を2018年1月より開催。オンラインでの情報交換のほか、不定期に読書会を実施。翻訳関連書をはじめジャンルを問わず面白い本を読んで感想を話し合ったり、おすすめ本を紹介し合ったり。本の話題を通じて、同業者の交流を深めていきたいです。