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子育てにおける「愛情」と「育児」は、似て非なるもの

「子育て」には、神話のような話が説かれているように思います。

出産したときの感動、子どもが初めて歩いたときの喜び、入園・入学、発表会で堂々とした姿を見せてくれたあの瞬間、卒園・卒業、今まで当然に知っていた人間の通る過程を「親」という立場で目の当たりにしたときに、自分の知らなかった種の愛情を知ることとなる。

これが、子育てにおける愛情であり、人間がもつ生物学上の親子の愛情です。

一方で、この愛情を守り暮していくためには「育児」が必要となります。子育てにおける、愛情と育児は似て非なるもの。

「育児」とは、夜中に起こされるツラさ、自分が体調を崩しても食事を提供し続けなければならない苦しさ、自由時間を持てたとしても限りなく細切れで合間を縫って珈琲を飲む程度。作っても作っても残される料理や、片付けてもすぐ散らかる部屋、良かれと思ってしたことで号泣されて先へ進むことができなくなることの連続で、自分の知らなかった子育ての大変さを思い知ることになる。これが、育児です。

子育てにおける「愛情」と「育児」を、セットとして考えられることも多いけれど、親だけで(とくに母親だけで)抱えるにはあまりにも多すぎる超過労働。

我が子のために、歯を食いしばって頑張り続ける話は美しいけれど、ひとりで抱えるには異常なほどの大変さです。

日本には「良薬は口に苦し」という言葉があります。大変なことは、きっと自分にとって良いものだという「ツラさも耐えよう」と自らを奮い立たせることわざです。

でも「良薬もまた美味し」の方が、幸せな人が増えて良いのではないだろうか。

子どもを持っただけで、愛情と育児は混同して捉えられることが多く「子どものためなら、どこまでも頑張れる」と思う人も多いもの。

違いますよ。
母親も人間であり、人権があり、限界がある。

特に、ひとり親・障害児育児・不登校育児・育児と介護の両立など特殊な育児をしているひとにとって、過剰で連続的な育児を頑張り続けているのではないでしょうか。

広まって欲しいな、現代の育児の大変さ。

いただいたサポートは、我が家の自閉症児2人のおやつか私の一息の休憩代に使わせてください。私もいつか、ひとり親や障害児育児にサポートできる側に回りたいです。