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100年前から「大人と老人」は邪魔者だったのだ──与謝野晶子『若き人人に』現代語訳+原文

はじめまして。東京のひとり出版社の「ホメル社」といいます。

今日は、いま読まれるべきだと思えた、一篇の散文を掲載します。著者は『みだれ髪』などで知られる歌人、与謝野晶子

題は『若き人人に』で、大正11年、1922年の発表と記録されています。

2020年7月5日、東京都知事選の熱狂を横目にデータ化を終えたとき、与謝野晶子の言葉を借りれば、熱き「青年」の胸に届けたい、と感じたのです。

「大人と老人」はずっと進歩を邪魔してきた

選挙結果には、さまざまな思いがあったでしょう。いま、僕らが生きる時代を儚んだり、諦めたりしそうになることだって、あるかもしれません。

けれど、青年の思いが、「大人と老人」とぶつかりあうのは、今に始まったことではないようです。与謝野晶子が『若き人人』に言葉を宛てた、およそ100年前の日本でも、おそらく世情は変わっていない。

僕はこの言葉を読んで、自分が「大人と老人」になってはいないのかを確認することもできるし、まだこの日本で成し遂げられていない大事業が残っているのだとも感じました。それらは、僕にとっては希望に映りました。

今回は、与謝野晶子の言葉の原文に併せて、拙筆で恐縮ながら、日本語訳を併記しました。文章は省略せず、一文ずつをわかりやすく伝わるように心がけ、改行を増やし、現代仮名遣いと「ですます調」に改めました。

なお、全文は無料でお読みいただけます。有料購読ライン以下には、原文と現代語訳を縦書きでPDFにまとめたデータを置いています。

いま、この時代を変えようとしている、この社会を変えようとしている、すべての「青年」たちの心に、与謝野晶子が託した「かがり火」を。

与謝野晶子『若き人人に』(原文)

 人生の進歩と云ふことは、同じ軌道を汽車が踏んで走るのとは違ふ。反對に在來の軌道を踏みはづすことで無ければならない。其處に新しい活動、新しいリヅム、新しい線が創造される。それが真實の「進歩」の名に値する。

 軌道を踏みはづすこと勿論冒險である。冒險は至極結構。冒險を敢てせねば逃步は無い。大人は冒險を怖れる。老人は一暦怖れる。彼等は「常軌を逸する」と云ふ言葉を堕落の意味にのみ惡解して、それを正當に且つ善意に解釋することを忘れる。その故は、彼等の生命が疲労し、倦怠して、冒險の勇氣と創造の能力とを失つてゐるからである。

 大人と老人との多數には進取が無くて保守ばかりがある。彼等は昔から何を發明したか。被等は人生の下り坂にある者である。彼等の筋肉は硬ばり、彼等の魂は臆病になつてゐる。

 大人と老人との多數は進歩を嫌ひ且つ拒む。少くとも彼等は進歩の邪魔物となる。彼等とても「進歩」を口にすると共に「進歩」の設計をもする。併し、彼等の言ふ所の、且つ爲す所の 「進歩」は「保守」の洗ひ張りか、さもなければ「保守」の上に加へる「進歩」の鍍金である。

 大人と老人とは安全を顧慮し過ぎる。大事を取り過ぎる。自分達のその臆病と、胃險性の麻痺と、創造能力の缺乏とを言葉巧みに掩ひ隠す技術だけが彼等に發達してゐる。彼等とても靑年と共に冒險を云爲しないでは無い。併しながら、衆目が見て明かに冒險を必要とする場合にでも、大人と老人とは利口に立廻り、決して靑年と共に冒險の第一線には進出しない。彼等は後方にゐて日和見をする。さうして、靑年の冒險が未だ成らざるに於ては百方ケチを附けて惡罵し、その既に成るに於ては、勞せずして愧づる所無く、靑年の冒險の収穫を自己の上に利用する。

 人間は、古い生活の樣式から全く脫しきれる者で無い。また決して脫しきる事を必要としない。古い樣式は人間の母胎である。人間は其處から生れて必要な限に於てその古い榛式を参酌する。併しその一本の軌道を襲踏して前行しようとは思はない。赤ん坊を見ると、彼は少しく古い樣式を探りながら最も多く彼自身の樣式――新しい持前の樣式に依つて生きようとしてゐる。古い樣式の生活者たる大人や老人から見れば、赤ん坊は初めから脫線して生れて來た新人である。「後生畏るべし」と云つた孔子の言葉は好い。赤ん坊はすべて改革者である。

 赤ン坊がその持前の新しい樣式の軌道に自由に就くことを拒んで、僭越にも、大人と老人とが彼等自身の生活樣式の軌道を踏まさうとするのが從來の教育である。個性の自己活動が早くも赤ン坊時代から妨げられる。けれども、魂も肉體もみづみづしい人間の内から押出す旺盛な力は强い。大人と老人が因習の軌道を强制しても、それに從ふやうに見えながら、その强制に抵抗して、內內で、意外に彼等の自己を主張する。彼等は自己の銳敏な感覚であらゆる新味を受容する。觸れるもの、聽くものから新しい世界を感得する。なんと云ふ尖つた直覺と、豊富な幻想と、芳烈な熱情と、雄健な創造力とを持つてゐるのであらう。かくして古來の地上に最も價値ある事業の大部分は、靑年の頭腦と、心臓と、筋骨とから作り上げられた。

 人は靑年期が改革的精神の頂上である。この花季を過ぎると、人は體的にも、心的にも發育が止まつて下り坂に入る。例外もあるが、大多數の人は、一旦靑年期に創造した新しい生活の深化と、仕上と、維持とに壯年期以後を送るのである。一言で云へば「守成」の人となるのである。

「守成」は決して最早新しい生活で無い。同じ軌道を走るものである。人間全體の生活が上滑りするのを防ぐ消極的配劑としては、或限度まで「守成」を基調とする人間が靑年と並んで共存することは望ましい。クラシツクの思想の好い點は其處にある。併し限度を越えて「守成」の人が社會に勢力を持ち過ぎると、人生の進歩は遅滞し、それが久しきに亘ると、社會は下落する。靑年の改革的精神が窒息させられるからである。「世の中が行語る」とは此狀態を云ふのである。

 我國に於る近年の「改造」の叫びは、決して靑年の叫びで無かつたと私は思ふ。「守成」の精神に「進歩」の鍍金を掛けた、下り坂の、創造能力の枯渇した、多數の大人と老人とが、鬼の念佛のやうに心にも無い「改造」の叫びを、後方の安全地帶から揚げたに過ぎない。依然として多數の靑年は彼等「守成」の人人の踏臺にされて、息苦しい日を送つてゐる。政界にも、財界にも、教育界にも、まだ老人、中老人の勢力が頑張ってゐる。まだ何處にも靑年の溌溂とした改革的精神の爆發が現はれない。かくして日本人の現狀は益益行詰る。私は行詰れ、行詰れと思ふ。其後に來る靑年の手に真實の「改造」の炬火が捧げられねばならない。

(一九二二・五・一九)

与謝野晶子『若き人々に』(現代語訳)

 人生の進歩とは、汽車が同じ軌道を走っていくのとはちがいます。そうではなく、すでにある軌道を踏みはずすようでなければなりません。そこに、新しい活動、新しいリズム、新しい軌跡が創造されるのです。それこそが「進歩」の名に値します。

 軌道を踏みはずすことは、もちろん「冒険」といえます。でも、冒険はとても良いことです。あえて冒険をしなければ進歩もありません。

 大人は冒険を怖れます。老人はより一層怖れます。大人や老人は「常軌を逸する」という言葉を、「堕落」の意味だけで悪く捉えていて、全うに善意をもって解釈することを忘れてしまっています。その理由は、彼らの生命は疲れ果て、人生にも飽き、冒険の勇気と創造の能力を失っているからです。

 大人と老人のほとんどは、進んで新しいことをしようとせず、みんな保守的です。昔をふりかえっても、彼らは何を発明したでしょうか。彼らは人生の下り坂にいる者たちなのです。その筋肉はこわばって、魂が臆病になってもいます。

 大人と老人のほとんどは「進歩」を嫌う上に、そういった変化をしたがりません。少なくとも、大人と老人は進歩の邪魔者です。

 とはいえ、彼らが「進歩」を口にすることはありますし、そのために計画を立てたりもします。しかし、彼らが言うところの「進歩」、成し遂げようとする「進歩」は、「保守」という着物を一度ほどいて洗い、反物に戻しただけのものです。さもなければ、「保守」の下地に「進歩」というメッキを施したものです。

 大人と老人は安全かどうかを心配しすぎです。大事を取りすぎです。自分たちの臆病と、冒険心の麻痺と、創造能力の欠乏を、言葉巧みに覆い隠す技だけが発達しています。

 もっとも彼らだって、青年と共に「冒険しよう」とは言うし、行動しないわけでもありません。しかしながら、みんなが見ても明らかに「冒険が必要だ」と思える場面でも、大人と老人は利口に立ち回り、決して青年と共に冒険の第一線には進んで出ていきません。彼らは青年の後ろでじっとして、日和見をするのです。

 しかも、青年の冒険がまだ実現していないときには、あらゆる手段でケチをつけて口汚くののしるのに、いざ成し遂げたときには、自分は苦労もしていないくせに恥ずかしげもなく、青年が冒険から得た収穫を自分のために利用します。

 人間は、古い生活の様式から、まったく脱しきれるものではありません。また、決して脱しきることを必要ともしていません。

 古い様式とは、人間にとっての母胎です。人間はそこから生まれて、必要なときがくれば、参考にして長所を取り入れもします。けれど、そのまっすぐに伸びる道を踏襲して、前進しようとは思わないのです。

 赤ん坊を見てみなさい。赤ん坊は古い様式をわずかに探りながらも、誰よりも自分自分に持ち前の様式──つまり、新しい様式を持って生きようとします。古い様式の生活者たる大人や老人から見れば、赤ん坊は初めから脱線して生まれてきた新人です。「後生畏るべし」という孔子の良い言葉がありますね。赤ん坊は、すべて改革者なのです。

 赤ん坊は、その持ち前の新しい様式で自由に進んでいこうとします。大人と老人は、その進みを邪魔して、僭越にも自分たちの古い生活の様式を踏襲させようとする。これが従来の教育です。個性ある自己活動が、早くも赤ん坊の頃から妨げられてしまう。

 けれども、青年たちのように、魂も肉体もみずみずしい人間の内側から押し出てくる旺盛な力は強いのです。大人と老人が古い生活の様式といった因習を強制してきても、それに従うように見せながら、心のうちでは意外にも自己を主張します。

 青年は自身の鋭敏な感覚で、あらゆる新味を受け入れます。触れるもの、聴くものから、新しい世界を感じ悟ります。なんという尖った直覚と、豊富な幻想と、芳烈な熱情と、雄健な創造力とを持っているのでしょう。このようにして、古来から地上にある最も価値ある事業の大部分は、青年の頭脳と、心臓と、筋骨とから作り上げられたのです。

 人は、青年期が改革的精神の頂上です。この満開の季節を過ぎると、人は体も心も発育が止まって下り坂に入ります。例外もあるけれど、大多数の人は、一旦は青年期に創造した新しい生活を深め、仕上げ、維持していくことに壮年期以降を費やします。一言で表すなら「守成」の人となるのです。

 形となった事業を受け継ぎ、それを守り続けていく──「守成」は決して、もはや新しい生活ではありません。同じ軌道を走っていくものです。

 消極的な取り合わせではありますが、人間全体の生活が上滑りするのを防ぐために、ある限度までは「守成」を基調とする人と、改革的精神を持つ青年が、並んで共存するのは望ましいといえます。クラシックの思想の良い点はそこにありますから。

 でも、限度を超えて「守成」の人が社会で勢力を持ちすぎると、人生の進歩は遅々として滞り、それが長きにわたると、社会は下落します。青年の改革的精神が窒息させられるからです。「世の中が行き詰まる」とは、この状態を指すのです。

 我が国における近年の「改造」の叫びは、決して青年の叫びではなかったと、私は思います。「守成」の精神に「進歩」のメッキを掛けた、下り坂の、創造能力の枯渇した、多数の大人と老人とが、鬼の念仏のように心にも無い「改造」の叫びを、後方の安全地帯からあげたに過ぎません。

 依然として、多数の青年は、大人と老人という「守成」の人々の踏み台にされて、息苦しい日々を送っています。政界も、財界も、教育界も、まだ老人や「中老人」の勢力が幅を利かせています。まだどこにも、青年のはつらつとした改革的精神の爆発が現れていません。

 こうして、日本人の現状は、ますます行き詰まるのです。私は「行き詰れ、行き詰れ」と思ってもいます。そのあとに来たる青年の手には、真実なる「改造」のかがり火が捧げられねばならないのです。

(1922年5月19日)

※底本には、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている、与謝野晶子『愛の創作』(アルス、大正12年刊)を使用しました。また、与謝野晶子の肖像写真は、国立国会図書館所蔵「近代日本人の肖像」にて公開されている写真を転載しています。

ホメル社について

本題は終わりましたから、読み飛ばして構いませんが、最後に「ホメル社」のことを少し書かせてください。

ホメル社は、編集者・ライターの長谷川賢人のプロジェクトとして、出版とデジタルパブリッシングを主軸とする活動をしています。完全新作の作品や、過去の名著をお届けしていければと思っています。

デジタルパブリッシングのいち活動としては、すでに著作権が消滅した作品から現代にも通ずる優れた文章を選び出し、底本からデジタルテキスト化します。検索と引用をしやすい形で残すことで、現代を生きる私たちが先達の言葉を引き継げればと考えています。

今回は与謝野晶子『愛の創作』からの一篇を無料公開としました。念のため、僕は特定の政治信条や支持政党がある立場から、これを公開したのではないことを断っておきます。今後、『愛の創作』の全文デジタルテキスト化の他、現在は徳田秋聲『小品文作法』についても作業を進めています。

それでは以下、今回の原文+現代語訳のPDFデータです。寡作ではありますが、ぜひ今後ともお付き合いをいただければ幸いです。

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