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33.「変人」呼ばれることを恐れない、自分らしく生きる為に


ずっと「普通」になりたかった

物心ついた頃から、周りから変わっていると言われて来ました

自分では、普通に振る舞っているつもりでも、感じ方や行動が何か人とは違ったらしいです

人によっては"変わっている"という言葉は、誉め言葉になるのかもしれませんが、
おかしい人と言われている様で、"変わっている"と言われる事がとても嫌でした

皆と同じ「普通」になりたくて、
変わっている“素の自分”を隠して、どうにか周りに合わせて来たのですが、
常に自分を隠し続け、周りに合わせる事にとても強いストレスを感じてなりませんでした

自己否定が止まらなかった

「普通」の自分になるには、素の"変わっている"自分を否定し続けなければなりませんでした
その結果、自分の中にたくさんの悲しかった気持ちが蓄積され、
これまで癒えずに心に残り続けて来ました

溜め続けた気持ちをこのNoteの記事で吐き出すまで、自分の中で癒えておらず、
人とあまり積極的に関われなくなり、人に自分の事を話さなくなりました

でも、日本を出たら、初めて変人扱いされる事がなくなりました

仮に相手の価値観と異なり、相手が理解できなかったとしても、
一方的に変な物扱いされるのではなく、理由や詳細を聞いてくれ、コミュニケーションを取れ、
自分の素直な気持ちを話せ、とてもストレスフリーになりました

そうして、しばらく日本人が全くいない環境でのびのびと生活をし、
少しずつ自分の中の溜め込んだ感情を吐き出してあげることができました

けれども、先日配偶者の会社のイベントで、家族も同行の数ヶ月ぶりに日本人だらけの環境へ行ったのですが、
久しぶりに再び自分を変なもの扱いされる相手の表情をキャッチしてしまい、
とても胸が苦しくなってしまいました

ここ2週間くらい、気分が優れませんでした

若い女性、新婚の嫁など、今の自分の属性情報を言える型にはめられて見られ、
その型から少しでも外れた言動をすると、また私は変なもの扱いされるんだと、とても嫌な気持ちになりました

日本は、ありもしない「普通」という虚像で、
自分も、周りの人も、型にはめ込んで個性を潰し、
そこから外れると変なもの扱いするという事を日本を出てから知りました

日本人となるべく関わらないのが1つの対策ではあるのですが、
自分の中で人と変わっていることをまだ完全には受け入れられていないということもあるのかなと思いました

「変人」を肯定し、変人扱いされても気にせず自己受容できる様に、ここで整理をしたいと思います

特に、変人と言われ、普通になろうともがいている方の助けになれば幸いです

変人扱いされる理由

変人扱いされる人というは、基本的に人と違っており、目立ってしまうが為に言われる事ではないかと思います

日本でよく言われる事として、
・イメージする日本人がやらない事をする(新しい事、奇を衒った事、独自性が高い事など)
・イメージする日本人が言わない事を言う(物事の本質、矛盾点、目上の人を否定する、ストレートな物言いなど)
・イメージする多くの日本の予想外の行動をする(女性らしくない興味や好みなど)
・イメージする日本人と少しずれている特徴(同性愛、女性らしい男性など)

自分の場合、
・非常に合理的な性格から、感情では無く、理屈で動く
 →人間らしい女性らしい、女の子らしい、若者らしい、子供らしい言動でなかった

・物事の本質を感覚的にすぐに察知する
 →自分では当たり前の感覚だった為、無意識に目上の人を忖度しなかった
 →人と興味のある事や、欲がある所が違った

・懐疑的
 →物事を断定するには、まだ他の可能性があると、自分の頭の中で思考が張り巡り、
  疑問点を質問しまくる
 →流行りに着いて行かず、人と行動が異なる

・口数が少なく自分の世界に入っている
 →自分の興味や目標へ向けて1人で何かをしている
  →口を動かさずに行動しており、やる気がない様に見える
  →他人が見てない間に1人黙々と課題を潰して、結果を出して来る
   →気味が悪い、嫉妬の対象、苦労を知らないと散々な事を言われる

こういった所が「変わっている」と言われる要因だったのではないかと推測します

書き出してみると大したことない

でも、改めて書き出してみると、
自分では、目的達成に為の最短ルートを選んでいるだけであるけれども、
体外的には怖く見えてしまうかもしれないと思いました

変と言われてきたことをずっと気にしてきたのですが、
その要因になっている、特徴は大した事ないことであるし、
対外的な印象は、操作出来ることだなと、書き出してみて気付きました

変人扱いする人と無理に関わらなくて良い

他人に対して「変わっている」という平気で言える人は、とても視野の狭く、愚かな人であると自分は思います

「普通の人」とは、そもそもどんな人なのでしょうか?

試しに「変わっている」と言って来た人に聞いてみて下さい

本当は、普通の人なんて1人もいないのではないでしょうか?
「普通」、「皆」というのは、あくまでその人の狭いコミュニティの中で、
決められている事、お決まりになっている事です

自分の個性は、日本で、女性だけという狭いコミュニティの中では“わがまま”と捉えられる事が多くありました

悪口や噂、最近見た恋愛ドラマの俳優の誰がかっこいいか等、
自分にとっては興味が無く、読書をしたり教養を身に着けた方がよっぽど有益と思えた為、女性同士の群れに参加せず、自由に過ごしていました

我慢してそういったコミュニティに参加している人からすると、
自分の勝手自由気ままな行動は腹立たしいのか、
"自己中"、"生意気"と言われたり、

共感では無く、具体的な課題点と解決策を理詰めで提示し、
他の女性の様なふわふわしたリアクションとは違うせいで、
"変わっている"と変な物扱いされることが多くありました

環境が変わると当たり前の基準が変わる

でも、日本で、男性が多い環境に代わると、
女性同士で群れない事で話しやすい、芯があると途端に評価が変わりました

日本人が全くいない今の語学学校の環境では、男女問わず色んな国籍の人がいますが、1度も変人扱いされた事はありません

これまで自分が”わがまま“と言われて来た自由気ままな行動は、
自分軸の行動で、日本を出れば当たり前になりました

やりたくない、好きではない、他人の“No”を踏み躙らずに、
自分の欲求を通す為に、お互いに心地良い環境を構築する大人の対応と感じます

日本では「普通」とされる“場の空気を読んで、相手の要求を確認する事なく行動する”という行動は、
今自分のいる環境では、寧ろ「おかしな人」に該当します

また、変に他人の事ばかり気にした行動をしていない為、
親切に対して見返りを求める様な偽善もありません

自分のコミュニティからあまり出たことが無く、
自分の常識は、誰かの非常識である可能性があると、まるでわかっておらず、

相手がなぜその様な行動をするのか理由も聞かず、
自分の希望を伝えるコミュニケーションも取れない人が、

他人の事を平気で「変わっている」と言える人であると自分は思います

変わっていると気軽に発言する残念な人

変わっていると感じる事は否定しませんし、そう感じる事自体は問題ないと思います

でも、それを相手に平気で言ってしまうことは、
相手への配慮に欠けた失礼な態度であるだけで無く、
自分の視野の狭さに全く気付けていない見当違いな行動だと思います

自分の経験上、こういった人へ上記の様な話をしても、なかなか伝わりません

下手に対等な目線で話をしてしまうと、
屁理屈、理屈っぽい、非常識と、より非難されたり、
論点がすり替えられ、傷付けられたと被害者の様に泣いて、加害者の扱いにされたり、
弱いもの同士で連んでは、いじめの対象にされたり、
社会的地位のある人であれば、常識や普通という言葉で言い包められたり、
無駄に恨みを買い、敵を増やす事に繋がります

関わる必要性が無いのであれば、
自分の精神衛生環境を良好に保ち、
自分の足を引っ張る人に遭遇する機会を減らす為にも、
さっさと付き合いを辞め、孤独でいた方がよっぽどましと考えます

関りを絶っても生きていける

実際に、今自分の状況として、
語学学校で、自分を変人扱いせず、個性と認めてくれる日本人以外のクラスメイトと、
図書館やスーパーなどの公的な場でや、近所の現地人と、
配偶者以外、ほとんど関わりを持っていません

“駐妻“と呼ばれる日本人駐在員のコミュニティには一切参加せず、
配偶者以外の日本人とは、関わりを避けています

何か困った事があっても、ネットや周囲に現地人に拙い英語で教えてもらい、
特に困る事もありません

最初は、1人でやっていけるだろうかと、不安になる事もありますが、
慣れてしまえば、これほど快適な事はありません

自分を不快にさせる存在と無理に関わる必要はありません

付き合う人は選んで良い

関わりたくないと思う人を避けられなかった頃、
付き合う人を選ぶなんて、人として嫌な奴で、やってはいけない事だと思っていました

誰とでも仲良くして、
友達をいっぱい作って、
いつも誰かとワイワイしている人が“良い人”なのだと思っていました

嫌だと感じても、
自分さえ我慢すれば良く、その相手を無下にする事はできませんでした

でも、どれだけ自分が相手の事を慮り、我慢しても、
相手は自分の事をこれっぽっちも考えていないという事を最近ようやく知りました

丁寧で、良い対応をするのは、
同じ様に、丁寧で、良い対応をする人だけで良かったのです

自分の命の一部とも言える貴重な時間も、労力も、
自分を大事にしてくれない人へ、わざわざ使う必要はありません

自分の事を大事にするというのは、自分の時間も、自分の嫌だなという気持ちも大事にする事だと思います

仮に1人になっても、今はネットでいろんな情報を得る事ができます
また、オープンチャット等で、親切に対応してくださる方も沢山います
外国語を上手く話せなくても、優しく接してくれる人は日本の外に沢山います

1人孤独になる恐怖と、誰かに尋ねるプライドなんてささっと捨て、
身知らぬ人に助けを認めてみると、意外と親切に教えてくれたりします

今ある人とのつながりに無理に固執しなくて良いんです
付き合う人は、選んで良いのです

むしろ、選んだ方が良いです

コミュニティに所属する大きなメリットは、情報が入ってくる事だと自分は思っていますが、
狭いコミュニティに中で生きている人の持っている情報は、たいてい誰かから聞いた2次、3次情報で、大した情報なんてもっていません

本当に質の良い情報をやり取りできる知人が数人いたり、
自分で1次情報を調べた方が、よっぽど質が高く、正確で、より多くの情報が手に入ります
わからない時は、聞ける場合は、1次情報の機関へ聞いた方がよっぽど正確で早いです

自分が心地良く、自分らしくいられるコミュニティが見つかったら、そのコミュニティに入れば良くて、
それまで1人でいても何も寂しい人ではないと自分は思います

自分と同じ様に感じない人は、自分が思っているよりも沢山います
自分が苦労したから、困っている人がいたら助けてあげなといけないなんて、
自分の事を無視してまで、人に親切にしすぎる必要なんてありません

自分の嫌いを無視ないで、付き合う人を選んで良いんです
自分らしくいられる所を選んで良いんです

もっと自分に優しくして良いんです

人と衝突する事を恐れなくて良い

自分軸で生きようとすると、ぶつかってしまうのが、
前述した孤独になる事、そして誰かと衝突してしまう事だと思います

そして、周りを気遣える良い人であるほど、
それに耐えられず、自分軸でいられなくなってしまいます

日本では、喧嘩したり、誰かと争ったり、衝突する事を避ける傾向にあると感じます
少しでも揉めそうになると、「まあまあ」と途中で途中で止めに入る人が出て来ます

人と争ったり、自己主張が強いと、
日本では、すぐにトラブルメーカーやクレーマーの様に言われてしまう事があります

そういったところが、日本人は議論が苦手と言われる理由の1つではないかと自分は思っています

でも、本当に衝突は悪い事なのでしょうか?

自分もかつては人と衝突を避ける平和主義でした
なるべく穏便に済ませようと、我慢を重ねて来ました

でも、自分にしては珍しく、泣いて痛い目に遭う程に大きな喧嘩をした人がこれまで2人だけいるのですが、
大きなぶつかり合いをしたその2人の方が実はお互いの事を認め合え、
それぞれされて嫌な事に干渉しないという心地良い関係性を不思議と築けています

寧ろ、穏便にして来た人の方が、付き合いが長く続かなかったり、
長い付き合いでも、嫌だなと感じる部分に平気で干渉して来たり、不快感を感じる事が多くあります

また、周りの知人を見てみても、喧嘩した方が寧ろ、お互いの嫌な所がわかり、
関係が強固なものになっていると感じます

相手の主張を聞いた上で、はっきりとこちらの主張も伝えることは、
お互いの妥協点を見つける為のとても大事な過程です

親子や兄弟でさえ分かり合えないない事があるのだから、
人種、性別、年齢、育って来た環境、経験が全く違う人と初めから分かり合えることの方が寧ろ奇跡に近いのでは無いでしょうか

そう一度原点に立ち返ると、相手を知るには、どうしても少し言い争いになったり、不快感を感じる事は当たり前ではないでしょうか

この前提条件を忘れていると、
いつまでも相手の事を理解できず、
自分の気持ちも理解されず、
相手のことを変な物扱いしたり、相手の人格を否定したり、
いつまでもネチネチと相手の事を嫌うことになるのだと思います

少し衝突してでも、話し合ってお互いを理解する事が、
結局は1番近道なのではないでしょうか?

それでもどうしても分かり合えないなら、関わらないというのも1つの選択肢であって良いと思います
必要のない事をいかに減らして、自分のやるべき事を進めるかが、何よりも大事ではないでしょうか?

衝突を生んでしまっても、それはただ必要な過程で、
自分を責めて自分の主張を撤回する様な中途半端は、
結局1番自分を最も苦しくさせます

自分の発言に責任を持つ必要がありますが、
仮に周りと不和を生んでも何も問題はないと思えば、
自己主張する事は何も怖くありません

相手と争わなくて良い様に、周りが不和になったら間を取り持つ様な「良い人」でいたいというのは、さっさと諦めてしまった方が、自分も、相手も、結果として良い関係を気付けるのではないでしょうか?

目立ちたくて頑張っている人からの嫉妬に気をつける

自分がこれまで変わっている事で目立つ事が嫌だった理由の1つが、変なもの扱い、腫物扱いされる事でした

そして、2つ目が目立ちたくて頑張っている人からの嫉妬です

普通に振る舞っているだけで変わっている人は、何も努力しなくてもきっと目立ってしまう人だと思います
そして、目立ってしまう煩わしさを知っている為、放っておいて欲しいとさえ思っているにではないかと思います
そして、それがまた人と違う態度で目立つ要因なのではないかと思います

努力しなくても目立つ人が、意外と見落としてしまいがちなのが、
この世には目立ちたくて必死に頑張っている人がいるという事です

どうにか人と違う事をして、目立ち、みんなに気にかけて貰いたい、
必死に、必死に頑張っている人が世の中に入るらしいです

そういった目立ちたくてしょうがない人からすると、
根っからの変人は、自分に焦点が当たる機会を奪う目の上のたんこぶの存在です

知らず知らずのうちに、嫉妬され、悪い噂を流され、嫌味を言われる事があります
そんなつもりがなくても、悪者にされてしまう事があります

足を引っ張られてしまいます
そして、目立つ事を狙った行動ではないというと、
目立つ努力をしていないのに目立っているという現実が、
目立ちたくて頑張っている人の嫉妬に対し、火に油を注いでしまう事もあります

言われもない事で嫌な思いをさせられた時に、
目立ちたい人からすると嫉妬の対象である事を理解し、スルーできるスキルを身に付けると共に、
なるべくそういった人との関わりを避ける工夫をする事をお勧めします

関わる人は選んだ方が良いと、自分は思います

変わっている事は強み

変わっている事を紐解いていくと、実はとても大きな強みなのではないかと思います

ビジネス用語で、競争が激しい既存市場という意味を指す“レッドオーシャン”という言葉があります
これは、似た既存の市場が他にも沢山ある為に、競争相手が多くなり、レッドオーシャンという厳しい状態に落ちうるのでは無いかと考えます

それを避ける為に、ブルーオーシャン戦略と呼ばれる
価格差たオリジナリティ等によって、競争相手のいない、あるいは少ない、未開拓の市場を作るという戦略を作るという事になるのではないかと理解しています

すなわち、既に素のままで変わっていると言われるという事は、
わざわざ狙わなくても独自性を持っているという事だと思います

日本にいると少し変わっているだけで、“変わっている”と腫れ物、変な物扱いをされてしまいますが、
それは人とは違うとても素晴らしい個性なのだと思います

希少だからこそ、自信を持ち、自分の強みとして生かすべきで、
隠したり、治そうとしなくて良い物だと自分は考えます

現に、変人と言われる人と話すと、
他の人にはない視点を持っていたり、とても面白い方が多いです
また、自分の興味のままに生きている為、誰かを傷つけたり、マウントを取ったり、愚痴ばかりこぼさ無い為、
話していて本当に楽しいです
変人、自分は大好きです

変わっていると言われたら、
たとえ相手が良い意味で言っていなかったとしても、
「独自性の塊で良い個性を持っていると言われているのだな」と脳内変化して、
“そういってもらえて嬉しいです、ありがとうございます”と言い返してやりましょう

最後まで、精読頂き、ありがとうございました

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