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7月5日(日) - Kazuki

ひさしぶりに声あげるくらいの大泣きして、自分は無音のしとしとみたいなのではないこんな子どもみたいに泣くし、そしたら頭が破裂しそうにどんどん痛くなって目がビー玉のように腫れ上がり声帯も枯れて声も出なくなり、ただ自分にかかりつづける重力とじぶんは大きな女なんだなという事を思った。
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あんしんして忘れるための装置というあゆちゃんの言葉に感銘を受けた(というか、前回のあゆちゃんの日記、すべてがよくってなみだだった。読んでないみなさまぜひ読んで、ちなみにあゆちゃんが好きと言ってる曲、ぜんぶじんくんとかぶってて思わずじんくんに報告した)。
でも、いまから書くことは絶対忘れたくない。

つい先日配信ライブがあって、配信ライブって初めてだしかなり緊張するんじゃないかと思ってたんだけどやっぱり本番前までは緊張した、でも楽しさが勝った。いつもステージに出たらなんとなく緊張が止む、やまない時はちょっとやばいわけなんだけどその日は大丈夫だった。lightersとメンバーと隣のバーでパブリックビューイングみたあとも残ってくれてたみんな、で反省会みたいに椅子並べて、まじめに見返したりじぶんたちの演奏でおどったりした、そのあともずっとたのしかった。かけがえがなくて帰るのが惜しまれた。

映像は、カメラワークとか、音の良さとか、そのままDVDになるのではないかと思うくらいすごくよかった(ちょうど今夜まで無料で観ることができるやつだった)、ライブを観つづけてるひとたちならではの愛のこもった映像、そこにたどり着くまでの過程とかいろんなことがよぎっては1つ1つに感動した。

いい音楽をつくりつづけること、ライブハウスを正しいかたちで世の中に認識してもらうこと、うたをうたいつづけること、第二波が来そうになっていて、社会について考えるべきことはありすぎて、目の前の問題も死ぬほどあって、個人的な問題もめまぐるしく渦巻いて、そうやって尽きない悩みに気づけばわたしは体調まで左右されていて、なんてよわいんだろう。。心身つよくありたい、健康が大切。でもなにかしたい、なにができるかっておもうことや言動はぜんぶあゆちゃんがいうように「微力だけど無力じゃない」ことだからこそやっとの思いでやれるし、「わたしはちっぽけだが、それでもたいせつ」だから、むげにしたり無視したりなんてできないよね。

梅雨ね、雨は好きだけどじっさいは落ち込むのでいや。梅雨生まれだからこそ誕生日付近の低気圧にうらみがましい気持ちが募る。どうして気圧に左右されない人と左右されるひとがいるんだろう?誕生日と言えばひさしぶりに服を買ったらあまりにうれしくてそればっかり着てしまうけど、古くなっていく服たちがひしめいてるクローゼットの中を見放すこともできないままにいる。捨てられることない服が自由にしているこの部屋はいつになったら片付くのだろう、わたしはいつになったらものを捨てられるようになるんだろう(小さいころから収集癖が治らない)。古い服とあたらしい服をうまく組み合わせたときの高揚感に勝るものはそうそうないのでそれのためだけに残しているのかもしれない。クローゼットと言えば、ナルニア国物語とか、そういう長編のおはなし、ハリーポッターでもいいんだけど、そういうの1からみたいってずっと考えてる。1週間くらいそのためにひまを作って、大画面でみたいなあ。

東京の街にも太陽と雨が降った
流れるメロディが僕を旅へと誘う
運命なんて人生なんて、とサニーデイサービスが歌っている。こんな雨と風の夜は本当にそんな気持ちになる。
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駅のトイレでみたわたしの周りにあったすべて、壁、すこし汚れた床、便座、蛍光灯の灯り、なにもかもが死にたくなるくらいなんの意味もない。わたしからかなしみとかつらさとかそういうのがだらだら流れる横で、受け止めるでもなくただそこにあるでもなく意味を消し去った鏡に見つめられて動けないような気がして、でも動ける。涙を拭く、マスクの上半分が濡れているのが写り逆さにしてつける。そして終電に乗って帰った。

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