見出し画像

「23」

 高校卒業後に静岡・下田から上京し、東京の小劇団で女優をしていた母は、私を身ごもって舞台から降りた。23歳だった。時は過ぎ、美大卒業後の進路について「映画の裏方をやりたい」と打ち明けた私に、母は「映画はね、裏じゃなくて、表よ」と、女優の道を勧めた。知人のツテで事務所に所属し、東京アクターズスクールという半年限定の講座にも通ったが、演じるということが自分に向いているとは到底思えなかった。
 そんなときだ。大学時代から唯一読んでいる雑誌『SWITCH』がアルバイトを募集していることを知った。バックナンバー紹介ページの下段に「WANTED」と面接担当の名が記されただけのごくごく小さな告知だったが、私には見開き大の広告くらいに大きく見えた。履歴書の自己PR欄いっぱいに「雑用大好き!!!!!!!!!!」と書いて送ると、ほどなく採用が決まった。私は「芝居はやめる」と母に告げ、家を出た。23歳だった。
 4月にアルバイト入社、9月に正社員となり、2年が過ぎたころ、ドリームズ・カム・トゥルーの所属事務所から新人がインディーズデビューするという話があった。前年、『SWITCH』はドリカムの巻頭特集号を制作。編集長の新井敏記さんによる3時間に及ぶインタビューで、後半の2時間、中村正人さんが長椅子から身を乗り出すようにして質問に答えていたことをよく覚えている。「取材相手にサインを求めるな。一緒に写真を撮るな。好きだと言うな」は新井さんから最初に教わった“取材三原則”だったが、私は中村さんの前のめりな姿を目にしてやっと気づいた。「デビューのころからずっとファンでした」なんて切り出さずとも、取材前の徹底的な下準備をもとに真摯に話を聞けば、強烈な「あなたを知りたい」が相手に伝わっていくのだということを。
 件の新人アーティストのプロモーション用ビデオクリップは、編集部の小さなブラウン管テレビで見た。白い壁の前で髪を振り乱して「首。」という曲を一心不乱に歌う彼女に、一瞬で見惚れた。聞けばまだ19歳。白カセをひととおり聴いた私は新井さんに「このコ、絶対やらないとダメです!」と珍しく進言する。それがCoccoだった。
 白カセには「首。」「カウントダウン」「遺書。」「眠れる森の王子様〜春・夏・秋・冬〜」の4曲が入っていた。通勤途中、仕事の合間と、暇さえあれば聴いた。作詞はすべて本人で、「カウントダウン」に至っては作曲も手がけており、10代の女性しか持ち得ない繊細で鮮烈な感性を、まるで怒りや悲しみが発火点でもあるかのように爆発させていた。"才能"とひと言でいうのは憚られるような、骨身をみしみしと鳴らす強烈な歌だった。
 初めて本人に会ったのは神宮外苑前のセランというカフェだ。定刻より少し遅れて到着した彼女は「こっこです。こんにちは」と長く白い右手をすっと差し出した。そして最初の取材場所をどこにするか検討しているスタッフをよそに、鼻歌交じりで紙ナプキンに悪戯書きを始めた。ニューヨークがいいか、それともロンドンか。インディーズデビューでそんな取材ができる幸福な時代だった。彼女は、授業中にメモ書きが回ってくるかのようなこっそりとした仕草で、私の手元に何かを置いた。紙ナプキンの切れ端に「お耳がとってもきれいね」と書かれていた。
 初の取材・撮影はロンドンで敢行。「事実関係を確認してほしい」とマネージャーに原稿をFAXしたところ、Cocco本人から手書きの返信が送られてきた。「ほーりーへ。」で始まるFAXはなんと11枚。原稿に対する感謝と、そのうえで「“思う”を“想う”に変えてほしい」「母の生まれた島の名前は明かさないでほしい」など3つの要望が丁寧に綴られていた。
 その後、ヨセミテ、沖縄で取材をし、セカンドアルバム『クムイウタ』のリリースに合わせてアイルランド、サードアルバム『ラプンツェル』でスイスと、Coccoは『SWITCH』の表紙を2回飾った。ひとりのアーティストと数年に一度、各地を旅しながら長い話を聞くことは、至福の時間だった。取材相手と関係を築くということ。彼らの成長に寄り添う、もしくは無我夢中で追いかけるということ。それは、1985年に新井さんが始めた『SWITCH』という雑誌の原点である。
 新井さんは大学院を卒業後、雑誌『ポパイ』でインタビュー原稿を書いていた。そんなある日、親しくなった片岡義男さんからアメリカのカルチャー誌『ローリングストーン』を段ボール2箱分譲り受ける。創刊号は32ページのタブロイド判で、表紙から最後のページまでジョン・レノンの写真と「ビートルズをなぜ解散するのか」についてのインタビュー記事が掲載されていた。それから約10年後にジョンが凶弾に倒れるまで、『ローリングストーン』誌はひとりの人間を追い続けた。衝撃を受けた新井さんは「好きな人に会いに行き、話を聞き、書く」という超絶にストレートな編集方針で『SWITCH』を立ち上げる。このSWITCHイズムこそ、さまざまなカルチャー誌やファッション誌が生まれては消えていくなかで、30年という長い年月を経ても確固たる存在を示し続ける理由にほかならない、と私は思う。
 Coccoに話を戻そう。2001年、彼女の活動休止を知らされた。新井さんが最後の取材を依頼すると、Coccoは「インタビュアーがほーりーなら」と言ってくれたという。フリーランスライターとなっていた私は、新しいアルバム『サングローズ』を聴き、取材場所の沖縄に飛んだ。そして、他の雑誌には一切活動休止の理由を語らないという“唯一の指名”のプレッシャーを抱えながら、原稿を書きはじめた。暗礁に乗ること2回。途中経過の原稿を読んだ彼女が、長い手紙を届けに自宅まで来たこともある。それは言わば、デビューからいくつかの節目に立ち会ってきたライターに対して彼女が挑んだ、最後の戦いだ。後にも先にも、あんなに苦しく、あんなに試されたことはなかった。それでも、明けない夜はない。なんとか書き上げた日の夕方、「ほーりー。寿司行こう。」とだけ書かれたFAXが自宅に届いた。
 それから実に16年。『SWITCH』はCoccoの巻頭特集号をつくる。雑誌は創刊当時の編集方針を貫き続け、アーティストはメジャーデビュー20周年を迎えた。「続けることは、それだけでアイデンティティだ」と言ったのは山田詠美だったか。私も今年で“ライター23歳”になる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?