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森茉莉じゃなくても平気。(2018年8月9日記)

構成に携わっている対談集で、「自己肯定感」と「自己効力感」についての対話がある。前者はよく耳にするが、後者についてはよく知らなかったので調べると、

──能力や性格、容姿、財産などを根拠にせずとも、自分を肯定的に捉えられるのが自己肯定感。目標を達成する能力が自分にあると認知するのが自己効力感。──

ということらしい。(ちょー簡単に言えば。)

私は親しい友達何人かに「自己肯定感がものすごく強い」と言われたことがあり、自分でも確かにそうだと思うし、逆に魅力的な友人たちがなぜそうではないのか(←私ほど自己肯定感がないと本人たちが言うので)不思議でならない。

これで私が両親から「あなたは生まれてきただけで素晴らしい存在なのよ」と毎日言われて育ったとかいうならわかりやすい話なのだが、両親から愛されているというリアリティをもった初めての実感は、皮肉にも両親が離婚したときだった。(ふたりとも子どもを手放そうとしなかった、という点で。)

母は私が29歳のとき、こんなことを言った。

「森茉莉のエッセイを読んだら、父親(森鴎外)が自分を膝の上に乗せて、『茉莉は可愛いね。茉莉はいい子だね』と頭をなぜてくれた、とあった。私がもっと褒め上手な母親だったら、あんたたち3人はもっと違っていたかもしれないのに」。

私はそのとき思った。 森茉莉のような立派な作家でないことは申し訳ないが、私は自分の人生は悪くないなと思っているし、膝の上に乗せていい子いい子されながら褒められなくても、お母さんが死ぬほど大切に育ててくれたことを知っているよ、と。

言い換えれば、母の言う「違っていたかもしれない自分」には興味がなかった。私は私が好きだった(笑)。これは確かに強烈な自己肯定感だと思う。

だってそのときの私と言えば、会社を辞め、結婚しない彼氏と同棲しており、ロンドンに留学しようと赤坂アークヒルズのクラブでバイトしていて、天職だと思ったライター稼業は休業中。金もなく(貯めているお金は留学費用として泡と消える)、家庭もなく、わかりやすい幸せな未来はまったく見えなかった。まさに、何者でもなかった。それなのに、なぜか私は私をそのままよしとしていた。森茉莉じゃなくてもぜんぜん平気だった。

自己肯定感がこれほど強いのはなぜなんだろうか。もちろん親に愛されているという実感は大きい。素敵な友だちに恵まれているのも大きい。

あとは先天的な性格としてあまり僻まない・妬まない・羨ましがらないというのもある。

それは同時に、大きな成功には縁遠くなることでもある。コンプレックスや欲望が人を一回りも二回りも大きく育てることは大いにあるわけで、私はやはりちんまりした人間だなと自分でも思う。飛翔できるかもしれない翼を広げないまま、水辺で手近な餌ばかりつついている。

そういえば、私は中・高の教員免許をもっているのだが、大学4年生のときの教育実習が楽しくて、「美術教師もいいかも」と母に言ったら反対され、「教師なんて、未来ある若者が目の前から羽ばたいていくのを毎年同じ場所で見守るだけの寂しい職業よ」「誰かに何かを教えるなら大学以上で」と言われたことがある。

その数カ月後に「就職どうするの?」と訊かれ、武蔵野美術大学に在学し映画も好きだったから「映画の裏方がやりたい。大道具とか小道具とか」と言ったら、「あんたね、映画は”裏”じゃない。”表”よ」と、女優になることを勧められた。(そして実際卒業後の1年だけ、芝居を学んでいた。)

母は私に、もっとわかりやすくビッグな人になってほしかったのではないか。先生なら中・高の美術教師ではなく大学教授。舞台なら裏方ではなくて女優。物書きならフリーライターではなく名の通る作家。それこそ、森茉莉のような。

逆に私の自己肯定感がもう少し弱かったら、水辺でウロウロなんかせずに、飛ぶ練習を一生懸命したんじゃなかろうか。「私は母に(そして父にも)愛されている」という実感のおかげで自己肯定感が高くなったばかりに、母の望んだすごい人間にはなる気がなかった、というのが、ちょっと自分でも面白い。

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