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厚揚げ──母の思い出①

もう15年くらい前のこと。芝居か映画の帰りだったか、母と三軒茶屋の「赤鬼」という居酒屋に行ったことがある。母はフレンチとかイタリアンに行きたかったのだが、16時半で開いている気の利いた店がそこしかなかった。

カウンターに並んで座り、酒を頼み、いくつか料理を頼んだ。「お待たせしました」と店員が持ってきたのは厚揚げだった。母がそれを見て「こんなの頼んでない! 私が頼んだのはさつま揚げだよ!」といきなり怒鳴った。私はビックリして、「いいじゃん、お母さん。私、食べるよ。さつま揚げは新しく頼もう」と言うと、「間違って出てきたものをなんでアンタは食べるって言うの!」と言ってシクシクと泣き出した。

「すみませんでした」と店員が厚揚げを引っ込めようとするのを私は制し、新しくさつま揚げを頼んだ。実は厚揚げには馴染みがなかった。家では一度も出たことがない。だから頼んだこともないし、味も知らなかった。でも食べてみたら美味しかった。軽く焼いてあるのか中まで熱々で、かつぶしと醤油だけなのにこんなに美味いのか、と思った記憶がある。

その帰り道、「お母さん、さっきビックリしたよお…」と言うと、母が「ごめん」と謝った。そして冷静になってみれば、さつま揚げが間違って厚揚げで出てきたくらいで真剣に怒鳴った自分がおかしくなったみたいで、笑い出した。

そんなわけで、いまでも厚揚げを見ると、母の怒鳴り声と涙を思い出す。

いま思えば更年期障害なんだろうが、とにかくそのころの母は過敏だった。これは母が長年の女友達と呑んで帰ってきてから聞いた話なのだが、ふたりで小料理屋に入って、母はほうじ茶を注文した。喉が渇くから小さな湯飲みのお茶はすぐ空になる。そこで母が店員に「ねえ、土瓶でもってきて」と言うと、その女友達が「やめなよ、みっともない」と言ったのだそうだ。

「何がみっともないの? 何度もテーブルまで来させるのが悪いから、頼んでるんじゃない」
「タダのものを土瓶で頼むなんて、店に失礼だって言ってるのよ。ここ、私の行きつけなのよ。恥、かかせないで」

さすがに食事をやめるほどの口論にはならなかったみたいだが、帰宅した母は「ねえ、私、間違ってる?」と私に訴え、「もうアイツとは二度とご飯しない!」と悔し泣きをしていた。私は女子高生の母親にでもなったかのような気持ちで、「まあまあ」と母を宥めた。

たぶん、私ももう5年あたりするとつまんないことで被害妄想的に泣いたり僻んだりするんじゃないかと思いますが、そんなときは厚揚げを頼もうと思う。きっと笑える。

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