世界的なオピニオンリーダーの「資質」とはカトリック信仰である
オピニオンリーダー像
偉大な「オピニオンリーダー」となった人物は共通して「カトリック信仰」を持っています。
ただ現代の「テレビコメンテーター」や「有名芸能人」の「発言」は「カトリック信仰」から程遠いだろうと思う訳です。
その理由は非常に明確であるだろう。
それは「ヲタク」という概念によく現れています。
「ヲタク」とは「カトリック信仰」を拒絶した「倒錯集団(冒涜集団)」を意味しています。
「ヲタク」とは「神の光」が照らし出す「真実」を拒否し、「倒錯集団(冒涜集団)」が形成する「ドクサ」(デマゴギー)を崇拝するあり方なのです。
「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」は「真実」を報道し、「ヲタク」の「オピニオンリーダー」は「虚偽」を大宣伝していく訳です。
このあり方は「知識の廃棄」(カトリック)が「イマーゴ(神の似姿)」を信仰し、「知識の鵜呑み」(ヲタク)が「倒錯偶像(冒涜偶像)」を崇拝しているとも言えます。
対象的な例を2つ挙げたいと思います
1つ目は東京放送(TBS)の実力者「今道潤三」とフジテレビジョンの鬼才「鹿内春雄」です
東京放送(TBS)の黄金時代が「オピニオンリーダー」の創出を可能とした
又、「ブリタニカ百科事典」で有名な「TBSブリタニカ」も今道潤三の主導と言われている。
日本の民間放送は足立正初代TBS社長と鹿倉吉次TBS専務によった東京放送(TBS)体制から始まったと言っていいと思います。
その後に足立正は初代民放連会長となりました。
足立正は王子製紙の社長を務めた財界の実力者だった。
しかしマス・コミュニケーションに関して素人であった。
彼は実質的な経営を担うTBS専務の人選を自分が決めることを条件に初代TBS社長を引き受けました。
そして選ばれたTBS専務が毎日新聞社を公職追放となっていた鹿倉吉次だった訳です。
後に鹿倉吉次TBS専務が2代目TBS社長となり彼に見出された今道潤三TBS専務が3代目TBS社長となって行きます。
今道潤三3代目TBS社長は足立正民放連会長の後任として2代目民放連会長となって行きました。
この時点で民放連会長人事は2代続けて東京放送(TBS)から選出されています。
その後、今道潤三2代目民放連会長の提案により民放連会長人事は現在の「テレビネットワーク・キー局の持ち回り人事」へ変更されました。
いつまでも民放連会長人事が東京放送(TBS)の独占人事では民主的ではないという判断があったのかもしれません。
ただ民放連会長とは「カトリック信仰を持つ公共性」を必要とします。
そういった「カトリック信仰を持つ公共性」が専権事項であるなら毎日新聞社系の東京放送(TBS)が民放連会長人事に最も相応しかった。
それを裏付けるように「TBS今道潤三の死去」を狙って「カトリック信仰を持つ公共性」は倒錯対象とされました。
東京放送(TBS)の主導する日本民間放送の絶頂期(黄金時代)の「テレビ文化」は荒廃することになるのです。
※最悪と言われる「黒ミサの儀式」(バフォメット)が執行されました。
東京放送(TBS)とは当初「電通、毎日新聞社系、朝日新聞社系、読売新聞社系」への放送免許の割り当ての都合から合同で創設した放送局だった。
しかし当時、最有力の放送局は毎日新聞社系であり最も準備が出来ていたと言われています。
実質的に東京放送(TBS)は毎日新聞社系色の強い放送局なのです。
何故なら当時最も実力があったのは毎日新聞社系だったからです。
この辺りの経緯は「建前論」と言えるものでした。
毎日新聞社系が順当であることは実は周知の事実であった訳です。
「建前論」を守りながら順当に毎日新聞社系が東京放送(TBS)を担っていくことになりました。
毎日新聞社系がその後、経営危機に見舞われ失墜していった事件は日本国にとって大きなマイナスであったと思います。
何故なら実力のある会社が経営危機に陥ることは不運でしかありません。
この毎日新聞社系失墜事件の顛末に関する良書を今のところ私は発見できていないのです。
だから私は毎日新聞社系失墜事件の真相を知り得ていません。
何故このような大事件がタブーとされているのか不思議なのです。
ただここで言えることは日本の民間放送とは東京放送(TBS)が実力を持った「オピニオンリーダー」となっていくことで成立したという事実です。
従来、日本のマス・コミュニケーションでは毎日新聞社から「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」が多く生まれています。
その理由を私は存じ上げておりません。
私の実家では名古屋在住時に中日新聞(1983年迄)を購読し、千葉県在住時に朝日新聞(1983年から購読開始 ※今は新聞購読中止)を購読していたのです。
中日新聞関係者が親族にいました。
その関係もあって名古屋在住時は中日新聞一択であった訳です。
東京新聞は中日新聞社傘下でありますが関東圏でわざわざ中京圏系の新聞購読を続けるのも抵抗があった訳です。
このように私は毎日新聞とあまり縁がなかった訳です。
ただ実家の朝日新聞購読は毎日新聞の経営危機の数年後であり、毎日新聞社系失墜事件がそうさせたのかもしれない。
もし毎日新聞社系失墜事件がなかったなら実家は朝日新聞ではなく毎日新聞を購読していたかもしれない。
ただ大阪毎日新聞社の社長を務めた実力者「原敬」は「キリスト教・カトリック信仰」を持った人物だと明らかになっています。
原敬は後に日本国首相に任命され任期中に暗殺されたと言われています。
私が存じ上げている「カトリック信仰」を持った「政治的トップ(オピニオンリーダー)」の暗殺事件とは「原敬首相」と「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領」の両名です。
そして東京放送(TBS)の創設時にTBS専務を務めて実質的な会社運営を行っていたとされる鹿倉吉次とは毎日新聞社出身の実力者であった訳です。
ただ彼は慶應義塾大学で学んでは居ますが大学生ではなく職員の身分であったらしい。
鹿倉吉次は「労働者であって学生であり、学生であって労働者だった。」と言えるのです。
鹿倉吉次はどうやら慶應義塾大学の職員として学んでいただけで慶應義塾大学の学位は取得していなかったようです。
又、毎日新聞社に於いても新聞販売営業の担当を務め、新聞紙面編集の担当を務めていなかったようです。
ただ良い紙面を作るために意見はしていました。
そのようなことから鹿倉吉次は自らが「オピニオンリーダー」となって発言することは殆どなかったようです。
鹿倉吉次はそのような役目は大学を卒業した方の役目だと見做していたようでした。
その代わりかどうかは分かりませんが鹿倉吉次に見出された京都大学出身の今道潤三が偉大な「オピニオンリーダー」となっていきました。
そういう意味で今道潤三とは毎日新聞社系の東薫を受けたことで花開いたと言えます。
今道潤三は鹿倉吉次に見出され「カトリック信仰」を持った偉大な「オピニオンリーダー」となって行きました。
そして今道潤三は日本民間放送に於いても偉大な「オピニオンリーダー」として異彩を放っていきました。
現在の情報戦の中でテレビ局の放送免許の順番だけで日本テレビ放送網が日本民間放送を主導していたかのようなイメージ操作が行われています。
しかしそれは明らかな「ドクサ」(デマゴギー)であった。
東京放送(TBS)には「カトリック信仰」によって良い番組を制作していくという「理想(理念)」があった訳です。
それは真っ当な商売こそが良い商売であるという意味でもあった。
そうやって東京放送(TBS)は「黄金時代」を築いて行きました。
その「黄金時代」は日本民間放送の絶頂期と言えるかも知れません。
その後の「テレビ業界」は東京放送(TBS)の「理想(理念)」へ敵対する「視聴率競争」(広告収入重視)を扇動した「倒錯宣伝(冒涜宣伝)」の番組制作が支配し「荒廃状態」となって行きました。
「テレビ業界」の簡単な流れを指摘する
1985年7月フジサンケイグループ全体のCIとして、目をイメージしたマークを発表。
CIの先頭に立っていた故鹿内春雄議長は、「これは何だろう、と意表をつくもの」を求めていた。
「楽しくなければテレビじゃない」というフジテレビの方針があった。
視聴率も上昇気流にあった。
フジサンケイグループのCIは鬼才「鹿内春雄」が主導しました。
鹿内春雄は若くして急死されました。
鹿内春雄議長の死後のフジサンケイグループの権力は鹿内宏明が継承しました。
しかし鹿内信隆の死後に日枝久のクーデターが起こり鹿内家の支配は転覆されました。
鹿内家はフジサンケイグループの株式を多く保有しており今でも大きな発言権はあるでしょう。
しかし現在のフジサンケイグループの権力構造がどうなっているのかを私は全く知りません。
ただ公にはクーデターの首謀者「日枝久」が今でも実権を握っているとされています。
私には日枝久だけでこのようなクーデター後の支配は無理ではないかと推測しています。
何か明らかにされていない裏側の関係性があるのでしょう。
ライブドアの堀江貴文による株式買い占めが起こった事件もありました。
それはフジサンケイグループの持ち株関係の盲点を突いた堀江貴文等の仕掛けであったらしい。
ただ株式の操作だけで権力を掌握しようとすることについては私は疑問を持っています。
それは「理想(理念)」を持った会社に対する冒涜についてであってフジサンケイグループは当初から株式を多く所有していた鹿内家の支配下にあった。
だからそれほどは同情されない訳です。
当時は東京放送(TBS)も楽天の三木谷浩史の株式買い占めによって経営統合の提案がなされた事件もありました。
東京放送(TBS)はそれを拒否したと思います。
ただ東京放送(TBS)は「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」を受け入れることはできるだろうと思います。
しかし楽天の三木谷浩史はそのような人物でしょうか?
実は私は楽天の三木谷浩史の実像を全く知りません。
IT企業の一大グループを率いている大人物であることは認めます。
それは当時の堀江貴文も同様でした。
ただ堀江貴文に関しては「ITバブル」と「株式操作」によって権力と財産を得たに過ぎす「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」というより「倒錯集団(冒涜集団)」の「オピニオンリーダー」に見えます。
では三木谷浩史はどうでしょうか?
ただ現在、三木谷浩史の楽天グループは企業買収などにより事業拡大をすることによって「楽天経済圏」と呼ばれるまでになっています。
それを見ていくと三木谷浩史が提案した東京放送(TBS)と楽天グループの経営統合案に東京放送(TBS)の「理想(理念)」に対する「オマージュ(イマーゴ)」はあまり感じられません。
この経営統合案は三木谷浩史等が構想した「楽天経済圏拡大」のための企業買収事案に過ぎなかったようです。
こうなると三木谷浩史に「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」の欠片が見当たらない訳です。
三木谷浩史にとって東京放送(TBS)との経営統合案は楽天グループの拡大路線の延長プランに過ぎなかった。
三木谷浩史にとっても「カトリック信仰」は「倒錯対象(冒涜対象)」となっていると想像される。
そうなると三木谷浩史も「倒錯集団(冒涜集団)」の「オピニオンリーダー」と見做されると言うことです。
当然の如く東京放送(TBS)は経営統合案を拒否しました。
この時期から自社株式を管理する企業防衛が盛んになされるようになりました。
「TBSホールディングス」もそういった企業防衛の結果として出来あがった企業形態なのです。
鬼才「鹿内春雄」が主導した「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」について
ではフジテレビジョンの鬼才「鹿内春雄」が主導した「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」へ話題を戻したいと思います。
鬼才「鹿内春雄」の急死に「陰謀論」を感じる方もいらっしゃるかも知れません。
私も「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」を主導した危険なカリスマの若き死に不信感を感じずには居られません。
暗殺事件の可能性を感じる訳です。
しかしそれは私の憶測の範囲を出ない話です。
生前の鹿内春雄は「ヲタク」の「オピニオンリーダー」でありました。
鹿内春雄は「倒錯集団(冒涜集団)」の「オピニオンリーダー」として非常に強い影響力を持っていた。
それは「カトリック信仰」を「倒錯対象(冒涜対象)」として「倒錯番組(冒涜番組)」を制作するという「俗悪」なものでした。
何故「俗悪」かと言えば全てを貶めることを良しとするからです。
東京放送(TBS)の「理想(理念)」を持った番組を「倒錯対象(冒涜対象)」としてフジテレビジョンは徹底的に潰していった訳です。
そうやって「倒錯番組(冒涜番組)」は制作されていきました。
このようにフジテレビジョンは「視聴率競争」(広告収入重視)に於いて勝ち進んで行きました。
フジテレビジョンは「潰し屋」(殺し屋)だった訳です。
そういった鹿内春雄のやり口は彼の父「鹿内信隆」からフジサンケイグループの権力を継承したことで可能となりました。
そしてその実情はサリン攻撃と同じ意味を持った「倒錯番組(冒涜番組)」によって「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」の大宣伝活動(キャンペーン)を行っていくものであった訳です。
東京放送(TBS)の「理想(理念)」を持った全ての番組を潰して行きました。
フジサンケイグループは「イマーゴ(神の似姿)」を貶めた「潰し屋」(殺し屋)だった訳です。
鹿内春雄は今で言う「ヲタク芸術」の神様(ルシファー)でした。
そして「俗悪番組」(倒錯と冒涜)を大宣伝して行きました。
フジサンケイグループのCIは全てこのような「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」として形成されていました。
フジテレビジョンの横澤彪プロデューサーが制作したバラエティ番組によって「倒錯(冒涜)が芸風」であり「倒錯(冒涜)がお笑い」であると言った「お笑い文化」も形成されていきました。
しかしここに最大のパラドックスが存在していました。
「文化社会」とは「カトリック信仰」を持った集団を形成することであり得ます。
「大学」とはその象徴的な存在である筈です。
「キャンパスライフ」で豪遊すると言った発想は本来は「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」と言えます。
そしてそういった「大学」という「信仰集団」に於いて「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」が「救世主」として待望されます。
それが「ユダヤ・メシア待望論」又は「キリスト教・カトリック信仰」と言えます。
しかしフジテレビジョンの横澤彪プロデューサーは「倒錯(冒涜)が芸風」であり「倒錯(冒涜)がお笑い」であると言って「文化社会」を冒涜する「お笑い文化」を大宣伝した訳です。
それは「文化」と名乗っていますが有名無実でした。
「キャンパスナイトフジ」といった「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」を大宣伝した訳であります。
女子大生は水着ギャルと言った倒錯イメージ(冒涜イメージ)です。
このような「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」とは「黒ミサの儀式」を意味しています。
要は「バフォメットの偶像崇拝」を示していました。
「異端教団」の存在を示していた訳です。
「信仰集団」である筈の「大学」と相反した「異端教団」が「キャンパスライフ」としての「大学生の実態」とされました。
「大学生の実態」とは「倒錯学生(冒涜学生)」と言う訳です。
そのような「お笑い文化」により「文化社会」が荒廃していく訳だから「文化破壊」に陥った社会の崩壊は必定だった。
一般的に大学生が「文化破壊」を正当化したら「文化社会」は死んでしまうと言われています。
柄谷行人先生は「千手観音」だった
私は柄谷行人先生が下北沢の講演会で労働者と学生について話していたのを聴きました。
それは労働者であって学生でもあると言った話です。
柄谷行人先生は自らを学生だと言われました。
柄谷行人先生は高名な学者で居られますが自らを学生であると言われたのです。
そして労働者は学生でもあると主張されました。
その逆も然りです。
それによって「文化社会」は復権すると言われていました。
「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」は「文化破壊」を招き「末法思想」へ陥る
ただ最大のパラドックスは「倒錯文化(冒涜文化)の不可能性」から来ていました。
フジサンケイグループの宣伝活動(キャンペーン)による「文化破壊」が「テレビ文化」とされることで矛盾が起きていました。
例えば「トレンディードラマ」や「お笑い文化」は「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」の宣伝番組でしかなかった訳です。
「文化破壊」が「視聴率競争」(広告収入重視)に於いて優位となったことで「人間存在」も終わりを迎えてしまった訳です。
「文化破壊」という惨状に対して「末法思想」が起こっていくのは必定でした。
このような「倒錯文化(冒涜文化)」とは「文化」への「黒ミサの儀式」でありアンチカルチャー、アンチカトリック、アンチキリストを示していた。
柄谷行人先生の導き
このような「文化破壊」に対抗するには柄谷行人先生が言われるような「労働者」を「学生」として見做す必要がある訳です。
確かに現在の大学は荒廃しております。
それに対し大学の特権的なあり方を反故にして「カトリック信仰」を持った「学問集団」を「労働者」の中に見出していくべきなのです。
それが「学生は労働者でもあり、労働者は学生でもある」といったあり方です。
これによって柄谷行人先生が言われた「労働者」を「学生」として見做すことが可能となって行きます。
学生の特権的地位は全ての人に平等にあり得ることを示していく訳です。
こういったあり方が「カトリック信仰」です。
又それは「千手観音」を信仰することです。
「末法思想」とは一般に「阿弥陀如来」を崇拝します
阿弥陀如来は餓鬼道(信用詐欺)を示しています。
「カトリック信仰」では「千手観音」を信仰します
千手観音は芸術(純愛)を示しています。
「禿頭のウェヌス」(ウェヌス・カルワ)という奇妙な名はペルソナ(自然林)を示している。
自然林は「神の言葉」(誠実と真実)を示している。
人工林は「統帥権」(絶対命令と絶対服従)を示している。
「神の言葉」(誠実と真実)は牧羊犬(善き羊飼い)を示し、「統帥権」(絶対命令と絶対服従)はバカ犬(盲目の道案内)を示している。
例を挙げれば聖宮崎駿は牧羊犬(善き羊飼い)であり、高畑勲(※鈴木敏夫)はバカ犬(盲目の道案内)である。
石原慎太郎や安倍晋三や豊田章男、そして靖国神社もバカ犬(盲目の道案内)の日本代表と言える。
安倍晋三は次男坊であったが名前に「三」をわざと刻む試みが為されている。
父安倍晋太郎は「生まれた赤ん坊」がバカ犬(盲目の道案内)であることを公共に示す為に「三下」の意味を黙示したらしい。
要するにギャンブルに於いて「欲望とドクサに拘る者」は「下っ端の者」と見做されるのです。
私も競馬ギャンブルを趣味としていた経験がありますからその感覚をよく理解できます。
少なくとも「欲望とドクサ」に拘ったらギャンブルに於いて勝てる見込みは全くありません。
そのようなギャンブラーは当たり前の三下奴なのです。
安倍晋三は欲望にイノセントでした。
まさに安倍晋三は三下奴だったのです。
「次男坊なのに三男坊の名前」とは人間性が「三下」でバカ犬(盲目の道案内)であることを如実に示していたのです。
安倍晋太郎は公共の意識のある牧羊犬(善き羊飼い)であり、ダビデだった。
リクルート事件の真相
このようにダビデの資質のあった安倍晋太郎は次期総理大臣の最有力候補となった時点でリクルート事件が発覚し失脚することになった。
安倍晋太郎はその後の大病もあり日本国総理大臣にはなることはできなかった。
この意味するところはリクルート事件は安倍晋太郎一人を狙った疑獄事件であったと言えるのです。
その理由としてリクルート事件の証拠映像をスクープしたのは日本テレビ系徳光和夫がキャスターを務めた『NNNニュースプラス1』であった。
本来、自民党政権よりであり反政府報道のあり得ない筈の日本テレビ(読売新聞社系)が義憤を持ってスクープしたとされるリクルート事件の映像は明らかに違和感があった。
しかしこのリクルート事件の標的が毎日新聞社系のカトリック安倍晋太郎を潰すことであったのなら全ての疑問は氷解するのです。
この多くの大物代議士が巻き込まれた大疑獄事件とは安倍晋太郎という一人のカトリック代議士を日本国総理大臣に絶対に就任させないための奸計としてあったのです。
安倍晋太郎の失脚は「ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領を暗殺せよ!」と同様の号令だったと言えるのです。
「第二のケネディ大統領の誕生を阻止せよ!」と号令が掛かったのです。
日本国に於いて安倍晋太郎という第二のケネディ大統領が誕生するかしないかの瀬戸際だった訳です。
この時点で起こったリクルート事件は手広く多くを狙ったように見せながら実際は安倍晋太郎一人を狙った大疑獄事件(暗殺事件)だったと見做されます。
ケネディ大統領も安倍晋太郎もかなりの頭脳を持った人物だったのでしょう。
カトリック系の天才とは「本物」を意味しています。
だから安倍晋太郎は「大甘」と言われながら実際は「敵」が多かったのでしょう。
だから露骨に殺られたのです。
それは安倍晋太郎も認識していた筈です。
その後の安倍晋太郎の大病についても暗殺事件の匂いを感じるのはそれほど的外れではないだろう。
何故なら一部の日本国の医師は聖ヒポクラテス信仰を倒錯するオリエントの異教であるからです。
医師により暗殺されるカトリック系日本人は日本国内で意外と多いと想像される。
日本国内の一部の病院と医師はカトリック系日本人を付け狙う暗殺部隊であったのです。
牧羊犬(善き羊飼い)は神に恭順し、バカ犬(盲目の道案内)は人(ペルソナ)を見れば侮辱していく。
安倍晋三が朝鮮人をヘイトスピーチで侮辱していたことは有名な歴史的事実である。
牧羊犬(善き羊飼い)は神の意に従うエルサレム(ダビデ)であり、カトリック信仰者だった。
安倍晋太郎が毎日新聞社の記者だったことはその証しと言えるでしょう。
一方でバカ犬(盲目の道案内)は「海の民」であり、ペリシテ人(ゴリアテ)であり、パレスチナ人だった。
そういったバカ犬(盲目の道案内)は三下奴なのです。
それは安倍晋三でした。
愛はペルソナ(自然林)を立て、色欲は人誑し(人工林)を産む。
自然林のコリーは牧羊犬(善き羊飼い)であり、人工林のコリーとは「盲目の道案内」である。
私は1983年10月に名古屋市立小幡小学校の修学旅行で三十三間堂を訪れました。
三十三間堂は一番楽しみにしていた場所でした。
小学校の音楽の時間に歌った童歌の影響かもしれません。
音楽信仰とは神楽ですね。
愛はペルソナ(自然林)を立て、色欲は人誑し(人工林)を産む。
TBS愛!餓鬼道(信用詐欺)は芸術(純愛)にあらず!✡
「テレビ業界」の「浄化政策」とは「黒ミサの儀式」をタブーとすることを意味する
柄谷行人先生は「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」です。
それは「千手観音」を信仰することと同じです。
一方でフジテレビジョンの様々なキャンペーンは当時かなり有名であり強い影響力を持っていました。
特にフジテレビジョンは「視聴率競争」(広告収入重視)に於いて抜きん出た存在となって行きました。
フジテレビジョンの「倒錯番組(冒涜番組)」は「視聴率競争」(広告収入重視)に於いて「最大の武器」となっていました。
このようにしてフジテレビジョンは「勝者」となっていきました。
「倒錯番組(冒涜番組)」という「最大の武器」はフジテレビジョンの「必勝戦術」であった訳です。
しかしその時期に形成された「倒錯番組(冒涜番組)」を讃美する風潮は現在の「テレビ業界」をすっかり荒廃させてしまった訳です。
「倒錯対象(冒涜対象)」さえ見当たらないほど荒廃した番組制作となってしまった訳です。
現在のフジテレビジョンの凋落とは「倒錯番組(冒涜番組)」という「害虫」が食い荒らした「テレビ業界」に於いて「黒ミサの儀式」の失効を意味しています。
フジサンケイグループは「倒錯対象(冒涜対象)」を失った「倒錯集団(冒涜集団)」なのです。
又フジサンケイグループとは「黒ミサの儀式」しかできない無能集団とも言えます。
すべてを潰してしまった中では「倒錯番組(冒涜番組)」の成立も不可能となった訳です。
ただ「テレビ業界」はもうお終いです。
何故ならば東京放送(TBS)が「理想(理念)」を持った番組制作を復権させたとしてもそれに対してすぐに「倒錯番組(冒涜番組)」が制作されてしまうからです。
そのような「黒ミサの儀式」の有り様は目に見えるように明らかになっています。
すでに「倒錯番組(冒涜番組)」のやり方が分かってしまった訳です。
それは「テレビ業界」に浄化作用がないことを明確に示しています。
「黒ミサの儀式」をタブーとしない限り「テレビ業界」の復権はあり得ません。
そのことについては今道潤三の名著「アメリカのテレビネットワーク」に記されています。
そこにはジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領が「アメリカのテレビ業界」の「浄化政策」を行っていたことが記されていました。
「アメリカのテレビ業界」も「黒ミサの儀式」によった「倒錯番組(冒涜番組)」が制作されていた訳です。
しかしケネディ大統領はテレビ宇宙中継で見せしめのように暗殺されてしまいました。
この「暗殺劇」は「黒ミサの儀式」によった「倒錯番組(冒涜番組)」の最たるものであったかもしれません。
ケネディの死はイエス・キリストの磔刑を想起させます。
ケネディの死は殉教であった訳です。
彼は「聖ケネディ」と呼ばれて然るべき存在なのです。
しかし「聖ケネディ」に対する「倒錯宣伝(冒涜宣伝)」としてネガティブキャンペーンが日本でも多く行われて来ました。
様々なスキャンダルが実しやかに宣伝され続けている訳です。
一方で東京放送(TBS)には「倒錯番組(冒涜番組)」の制作が絶対にできなかった。
何故なら「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」は会社の「理想(理念)」に完全に相反していたからです。
そういった状況で東京放送(TBS)は「視聴率競争」(広告収入重視)に於いてフジテレビジョンに大敗北を喫していくことが必定となりました。
このように「良い番組を制作しても評価はされない。」と言う奇妙な諦観が東京放送(TBS)さえも支配してしまった。
「倒錯番組(冒涜番組)」が「視聴率競争」(広告収入重視)に於いて優位とされた状況では東京放送(TBS)は「必敗の宿命」を背負ったも同然だった訳です。
他のテレビ局も世間も敗北者となった東京放送(TBS)を馬鹿にするようになりました。
「東京放送(TBS)には威張る理由がない。」又は「東京放送(TBS)は真面目であるだけで面白味が全くない。」と言った「倒錯宣伝(冒涜宣伝)」がなされていきました。
これは「聖ケネディ」へのネガティブキャンペーンに似ています。
ただ「倒錯番組(冒涜番組)」を最後まで拒否したのは東京放送(TBS)だったことを忘れてはいけません。
これが東京放送(TBS)が「最後の良心」(最低限の倫理)と言われる理由だった訳です。
2つ目はヲタク教団の神様(ルシファー)として崇められている庵野秀明様である
庵野秀明様はかなり厄介な存在であった。
何故ならば才能を高く評価された「ヲタク」という「倒錯偶像(冒涜偶像)」であったからです。
庵野秀明様は「ヲタク」の「オピニオンリーダー」でありました。
現在、隆盛を極めている「ヲタク芸術」の「オピニオンリーダー」の一人でもあります。
しかし先程も指摘したように「ヲタク」とは「カトリック信仰」を否定した「倒錯集団(冒涜集団)」が「ドクサ」(デマゴギー)を崇拝するあり方です。
そういう意味で庵野秀明様はカルト教団の「オピニオンリーダー」でした。
「ヲタク」の「オピニオンリーダー」が「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」を扇動している訳です。
こういったあり方はオウム真理教の麻原彰晃教祖(松本智津夫)と非常によく似ています。
しかし現在の庵野秀明様の社会的地位は不動のものとなっているように見受けられます。
これは危険信号が発せられる状況だと思います。
何故なら「ドクサ」(デマゴギー)を崇拝する「オピニオンリーダー」が社会的地位を築いていく時の危険性は「歴史」が証明しているからです。
アドルフ・ヒットラーの登場を神演出したヨーゼフ・ゲッベルスがいました。
それは「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」の大宣伝だった訳です。
庵野秀明様の社会的権威は「倒錯象徴(冒涜象徴)」であって「明けの明星」(ルシファー)を意味しているのかもしれません。
もしかしたらそれはユダヤ人大虐殺(カトリック信仰の大虐殺)の「凶兆」かもしれません。
それは「イマーゴ(神の似姿)」を「倒錯対象(冒涜対象)」とする「黒ミサの儀式」であって「最悪の凶兆」とされます。
庵野秀明様は「イマーゴ(神の似姿)」を貶める「潰し屋」(殺し屋)です。
その出現によって世界は荒廃して行きます。
「荒廃状態」を「末法思想」として賛美する訳ですから庵野秀明様の思想とは「浄土教」であった訳です。
「ヲタク芸術」とは全部ブチ壊して「浄土教」という訳です。
結局、「千手観音」による「現世」の「浄化政策」を否定することが「浄土教」だった。
「浄土教」は「現世」の「救済」を否定している訳です。
そして「阿弥陀如来」による「あの世」の「極楽浄土」を約束している訳です。
それは「風の谷のナウシカ」の「腐海」を殊更賛美する思想となっています。
「浄土教」とはこのように「阿弥陀如来」を崇拝することを示しています。
しかしそれは最悪と称される「バフォメットの偶像崇拝」でありました。
自称「愛されキャラ」(倒錯と冒涜)の誕生なのです。
どんな嫌な奴でも「愛されキャラ」(倒錯と冒涜)とされます。
人間性の腐った「愛されキャラ」(倒錯と冒涜)の成立は「現世」が「末法思想」となっている兆候です。
それは「浄土教」という訳です。
どんな嫌な奴でも「阿弥陀如来」と唱えるだけで「あの世」が「極楽浄土」とされることと同様です。
「浄土教」は「最強の偽善者」です。
「呪術崇拝」(呪文)による「倒錯偶像崇拝(冒涜偶像崇拝)」なのです。
それが「バフォメットの偶像崇拝」でした。
安野モヨコ夫人が描いた庵野秀明様の「ヲタク善人の肖像」と同じです。
アドルフ・ヒットラーを神演出したヨーゼフ・ゲッベルスと同様なのです。
ただ「風の谷のナウシカ」の「ナウシカ」は「千手観音」を信仰しています。
「ナウシカ」は如何なるものであっても救済を試みて行きます。
彼女は「虫」や「腐海の木々」さえも救済して行くのです。
「ナウシカ」とは「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」と言える訳です。
まさに「千手観音」なのです。
「ナウシカ」とは「千手観音」による「現世」の「浄化政策」だった。
「虫達」が守護している「腐海の木々」とは「天の私の父が植えられた植物」と言えるかもしれません。
「オピニオンリーダー」は最重要だが危険を伴う
アニメージュの人気投票の一位
こう見ていくと「オピニオンリーダー」とは非常に重要なポジションであってアニメージュの人気投票で決められるものではありません。
しかし庵野秀明様の「ふしぎの海のナディア」がアニメージュの人気投票で一位となった結果を強調することで聖宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を追い抜いたとした「ドクサ」(デマゴギー)の大宣伝がなされていきます。
何故それが「ドクサ」(デマゴギー)であるかと言えばキャラクターの「内容」の違いが激しいからです。
ナウシカは「カトリック信仰」から三位一体のペルソナを形成した本格派です。
それは「イマーゴ(神の似姿)」です。
一方でナディアはそういったペルソナの形成は存在せずセックス・シンボルを多用したデザインによって人気を博しただけであり少女売春と大して内容は変わりません。
それは「バフォメットの偶像崇拝」です。
そこにはアニメキャラクターの「ペルソナ」とアニメキャラクターの「倒錯偶像(冒涜偶像)」の決定的違いがあった訳です。
ロリータ・コンプレックスとは「倒錯嗜好(冒涜嗜好)」ではないでしょうか?
私も若い女性に好意を持つことはありますが「ペルソナ」を抜きにしてはロリータ・コンプレックスとなってしまいます。
ただ若い女性というだけではなく「ペルソナ」を見い出すことが人間関係の形成となっていく訳です。
今まで私が指摘して来た通り「オピニオンリーダー」には「カトリック信仰」が必要です。
ではアニメージュの人気投票に「カトリック信仰」はあり得たでしょうか?
アニメージュの人気投票には「カトリック信仰」は全くあり得ないでしょうね!
「アニメ・カトリック信仰」と「アニメ・倒錯崇拝(アニメ・冒涜崇拝)」
アニメージュの人気投票とは何だったのでしょうか?
私も実は何冊かアニメージュを買ったことがありました。
確か十代の頃です。
中学校3年生の頃(1986年頃)が多かったです。
その後も「風の谷のナウシカ」の連載を読むためにアニメージュを定期的に本屋で立ち読みしていました。
ただアニメージュの人気投票は「カトリック信仰」を否定した「倒錯集団(冒涜集団)」の「ドクサ」(デマゴギー)と言えるものでした。
ここで疑問を持たれる方が多くいらっしゃるでしょう。
では何故「風の谷のナウシカ」は長くアニメージュの人気投票の一位を誇っていたのでしょうか?
それは「風の谷のナウシカ」が「カトリック信仰」を持った「オピニオンリーダー」となり得ていたからです。
それは「カトリック信仰」が起こした「奇跡」だったのでしょう。
しかしそれがアニメージュの人気投票で「ヲタク」の「オピニオンリーダー」に敗北したと見做されました。
この事実に於いて「信仰集団」が「倒錯集団」に屈服したと見做されてしまった。
そしてその「ドクサ」(デマゴギー)が大宣伝された訳です。
「風の谷のナウシカ」と「東京放送」(TBS)
これは「風の谷のナウシカ」のあり方が東京放送(TBS)と似ていることを同時に示しています。
結果的に視聴率競争(広告収入重視)の争いで荒廃した「テレビ業界」となってしまいました。
当たり前のように「黒ミサの儀式」としての「倒錯番組(冒涜番組)」が視聴率競争(広告収入重視)で勝利するなら「テレビ業界」の荒廃は必定でした。
この同じ流れで行くならばアニメージュの人気投票で勝者となった「ヲタク」の「オピニオンリーダー」によって「アニメ業界」はきっと荒廃していくでしょう。
何故ならアニメージュの人気投票に於いて「倒錯アニメ(冒涜アニメ)」が勝利するなら「アニメ業界」の荒廃は必定となっているからです。
すでに「アニメ業界」は荒廃しているのかも知れません。
ヲタクを文化へ導く
このように「ヲタク」の「オピニオンリーダー」によって世界は荒廃して行きます。
こういった「倒錯崇拝(冒涜崇拝)」は「最高悪」と言われます。
もしかしたら「世界の危機」が迫っているのかも知れません。
ただそういった警告は「イエス・キリスト」によってすでに為されています。
イエス様の警告に拠れば「ヲタク」の「オピニオンリーダー」とは「盲目の道案内ども」なのです。
「天の私の父が植えられたのではない植物はすべて、根こそぎにされるであろう。彼らをそのままにしておくがよい。彼らは[盲人〔を導く〕]盲目の道案内どもだ。しかし、もし盲人が盲人の道案内をするなら、両者とも溝に落ち込んでしまうであろう」
アーメン