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求めていた夢の気分を味わう

ある晴れた朝、私はふと窓際に置かれたオリーブ色のリクライニングチェアに座り、コーヒーを飲みたいと思いついた。普段は慌ただしく弁当や朝食を作り、ただ自動的に流れていくような朝の時間。その気分を少し変えてみたいと思った。

お気に入りの丸いフォルムをした芥子色のマグカップを用意し、コーヒーの粉を入れた容器を開けて鼻先を近づけ、深く息を吸う。コーヒーは好きだけど、正直そこまで味の違いは分かっていない。始めは店で焙煎をしてくれる豆を購入していたが、夫婦そろって味覚に疎いことを痛感してからは、我が家のコーヒーは普通のスーパーで大量販売されている粉のもので十分という結論に至った。価格に比例しているのか、容器の蓋を開けた瞬間が香りのピークだ。慢性鼻炎の私の鼻には届かないほど微かな香りを漂わせるコーヒーを手に、リクライニングチェアにゆっくりと腰掛けた。

半分開けた窓から入る風は薄手の長袖をひんやりと冷やす、1年の中で寒暖差が最も大きい春の朝を感じさせた。澄んだ空気に包まれながら、私はゆっくりと窓の外へ視線を向け、小鳥たちのさえずりに耳を傾けた。

「なんて贅沢な時間なんだろう」

そう心の中で思い、自然と表情が緩む。

コーヒーを一口飲むと、ふと思い描いていた夢が思い浮かんだ。いつか自然豊かな場所に移り住むこと。木々のざわめき、澄んだ空気、鳥のさえずりが聞こえるそんな場所で、夫と二人で過ごす至福の時間を夢見ていた。

その夢を抱くようになったのは3年前の山梨への旅行がきっかけだった。愛犬のハルが喜ぶようにと予約したドッグラン付きの貸別荘。どこの窓からも見える景色は緑に囲まれていて、目に優しい景色が広がっていた。予約をする段階から朝食はウッドデッキで食べようと決め、ホットドック用のパンとソーセージ、コーヒーを用意していた。普段はスマホを見る時間が多い夫も、そこではゆっくりと景色を楽しんでいて「優雅な時間だね」とお互いにそんなことを言いながら、自然の中で朝食をとり何をするでもなくただのんびりと過ごした。それ以来、自然豊かな地方での移住生活についての話題が時折私たちの間で持ち上がるようになった。

しかし、その夢は遠い未来の話のようで夢を夢見ているだけで何もしないまま、隅に追いやられて存在は限りなく薄まっていた。それはきっと住宅ローンや日々の生活費など、現実の問題が夢を遠ざけていたのかもしれないし、私の稼ぎの少なさに何となく感じる後ろめたさから積極的に、その話題をあげられなかったからかもしれない。そんなことで後ろめたさを感じる必要はないと思う反面、それでも心の壁に薄く張り付いている。忘れかけていた夢の片鱗に触れたような気がして、カップに目を落とした。「いつか、そんな日が来るのかな」と、つぶやいた。

ふと、窓の外に目を向けると、裏庭の少しばかりの緑が生い茂っているのが見えた。鳥たちが飛び交い、楽しげにさえずっていて、その光景に心を癒されると同時に、驚くべき気づきを得た。

「この感じ…私が味わいたいと思っていた気分そのものなのかもしれない」

再びコーヒーを口に運ぶ。今、こうしている時間の過ごしかたこそ、まさに夢見ていた自然の中でのひとときに似ていることに気づいた。

「私が求めていたものは毎日の中にもあったんだ」

心の中でつぶやく。

夢がすでに叶っていることに気づいた瞬間だった。もちろん、願っていた状況と完璧に一致しているわけではなく見える景色も理想のものとは程遠いのだが、この静かで贅沢な朝の時間は、私が求めていたものと同じ幸福感を感じることができた。

「夢って、形だけじゃないんだ」

静かに微笑み、コーヒーをもう一口飲む。その温かさが心まで染み渡るようだった。今ここで感じている幸せが、遠い未来でしか得られないと思っていたものと同じであることを実感し、心から満たされていた。

自分のために用意した静かな朝のひとときは、何気ない日常の中にある小さな幸せだった。



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