野矢 [1999]をいまどこまで批判できるか

野矢茂樹 [1999]、『哲学・航海日誌』、春秋社。

2023/01/02
私が大学のゼミを決めた頃、この本は、さらには野矢さん(以下敬称略)は、自分が何かを書くときに、決して謎を謎めかさずに書くという模範を体現していた。奥先生は『無限論の教室』を評して「もっと簡潔に書けることを延々書いている」みたいなことを言って笑っていたけれど、『無限論の教室』が出された1998年に愚かな高校生だった自分にとって、あの文体はとても愛着のあるものだった。そして、文体・スタイルを受け入れることと、書かれていることを受け入れることは全く違うのに、野矢 [1999]とはっきりと距離をおく、というのは私にとっては難しいことだった。

2023/01/11
野矢は『哲学・航海日誌』の前著『心と他者』で、「意識の繭」を食い破ろうとしていたはずたが、『哲学・航海日誌』においてもなお「知覚の繭」の中にいるように思える。『心という難問』ではどこにたどり着いただろう。

2023/04/29
野矢 [1999]、第Ⅰ部 他我問題 において気になるのは、「知覚因果説の誤り」である。「私は知覚の原因に出会ったことなどないし、その可能性もない。」(p. 97)私は野矢と共にこう言い切るのが躊躇われる。

素朴に問うてみよう。私はいまスマホの画面を見ながらこの文章を書いている。私はいまスマホを見ている。そして物理的対象としてのスマホが光を反射して...といった知覚に関する科学的知見も受け入れている。私は、私の知覚の原因たるスマホも、私の知覚も、物理的世界に住まうものだと言いたい。
――君は知覚の原因に出会ったことがあるのか?

あると思うんだけど。
――僕はないな。

えっ?そうなの?
――そう。僕が生きているのは知覚の世界だけでしかない。撮影現場とモニターの比喩で言えば、僕は撮影現場を見ることができないんだ。

でも、ちょっと待って。いまここにリンゴがあるよね。指差してみて。
――ほい。

いま君が指差したものは私には「撮影現場」に思えるけどね、決して君の知覚なんか指差してないよ。
――いや、僕の指もリンゴも「君に見えている」ものだろう?相変わらずリンゴも「誰かに見られたもの」という地位を免れてはいないわけさ。ただ、その眺めは非人称的だから、他我問題はもはや生じない。

うーん。まだ納得いかないな。結局、野矢 [1999]にとっての「実在」ってなんなんだろう。

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