革命と救世主

宇宙小戦争

 3月に公開された『映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』は、1985年の旧作ストーリーを全体的には踏襲しつつ、幾つかの点で改変が見られた。「女の子を危険な目に合わせるわけにはいかない」から「君ひとりを危険な~」への台詞変更などジェンダー的視点からの改変もみられたが、根本的な作品テーマに関わる変更としては、巨大化が果たす役割の違いがある。
 旧作では、巨大化はドラえもんたち及びピリカ星を救うための決定的な役割を持つ。今作でも、巨大化はドラえもんたちの生命にとっては確かに決定的なのだが、巨大化が始まる前から革命はすでに始まっている。ピリカ市民を決起させたのは巨大な異星人たちではなくパピの演説である。パピは姉を救うために独断行動したとみられていたが、実はそうではなかった。パピは自身と姉の生命をもろとも差し出して、ピリカ市民を立ち上がらせようとしたのだ。物語の転換点はこの瞬間にある。仮にあの瞬間にドラえもんたちが処刑されていたとしても、革命は続いていただろう。今作では自由同盟の地下組織は壊滅してはおらず、蜂起は元々の計画に即したものだった。ドラえもんたちの巨大化以前に地上軍は既に民衆によって無力化されていた。したがって、あとは無人戦闘艇との果てしない攻防となったはずだ。
 もちろんスネ夫の戦車がなければ自由同盟はとっくに壊滅していたはずだし、強大な無人戦闘艇との戦いで市民には多数の犠牲が生じ、鎮圧されてしまったかもしれない。巨大化されたドラえもんたちが決定的な戦力となって、革命の過程で起こりえた数万の犠牲をゼロにしたとはいえる。その意味ではドラえもんたちはピリカ星の救世主だ。しかし革命の主体はあくまでピリカ星市民であって、救世主はそれを援助する者として描かれているのである。
 今作では独裁政権下の市民生活が旧作よりも垣間見える。独裁体制の描写としては、よりリアルかもしれない。もちろん街には暗いムードが漂ってはいるのだが、無理に権力に逆らわず、口をつぐんで生活していれば、そこそこの日常は送れそうなのだ。それでも自由を求め、命を賭してでも屈従を逃れようとする市民の、ある意味では非合理的な行動こそが、革命の原動力となる。これは善悪の問題ではない。生命の危機を括弧にいれて、衝動的に運動に参加してしまうのが革命の本質なのである。ドラえもんたちは、気軽な気持ちで生命がかかった革命に参加する。今作の映画感想で、スネ夫の葛藤のシーンが旧作に比べて真剣さに欠けているという評価をいくつかみたが、真剣さのなさは、それはそれで革命の寓話としては、革命の本質的なものを表現している。つまり、革命は革命家の計画を超えたところに起こるのだ。だから、あらゆる革命は時期尚早である。ベルリンの壁は、東ドイツ当局のミスや集まった市民のノリと勢い、その他さまざまな偶然が重なった結果、崩壊した。
 自身の生命がかかっているにもかかわらず立ち現れてくる革命の気軽さの対極にあるのが戦争である。戦争はカール・シュミットが述べるように友と敵との真剣な敵対であり、真剣だからこそ国家は国民に生命の犠牲を要求できる。だから、真剣さに対抗する気軽さは、戦争を克服する原理でもある。ただし実際には、戦争は革命の原理を容易に簒奪してしまう。侵略者の手から大地を守るために集った国内外の市民たちの物語に、我々は惹かれてしまう傾向にある。しかしそれは国家による戦時プロパガンダの産物なのではないか、と常に疑いの目を向ける必要がある。そうでなければ我々は、国家のために死ぬことの美学を避けがたくなってしまうだろう。しかしそれは自由のために死ぬことの対極にあるのである。

マトリックス

 昨年12月に公開された『マトリックス レザレクションズ』を最新作とする『マトリックス』シリーズで描かれる救世主像は、『宇宙小戦争』とは大きく異なっている。むしろ、この映画は近年のヒーロー映画の主流とは異なった救世主の描写を行なっているといってもいい。一般的にヒーローは民衆のために戦う。それはスーパーマンのようなザ・ヒーローから、ややダークなアンチ・ヒーローじみたヒーローも同様だ。守られる市民と守るヒーローという単純な図式は現代では通用しない。だからこそ近年では、ヒーローと民衆との関係はひとつのテーマとなる。
 一方、『マトリックス』で問題になるのは、あくまで救世主とマトリックスの支配から逃れようとする一部の人々との関係である。マトリックスの中にいる圧倒的多数の民衆ではない。マトリックス・シリーズでは、マトリックスにいる人間が集団で覚醒するシーンは描かれなかった。マトリックスから目覚め、立ち去る人間は、必ず一人ずつ出て行く。もちろん外部の手助けは必要だとしても、出て行くかどうかを決めるのは、あくまで個人の決断なのである。この不文律のルールは、ル・グィンの短編「オメラスから歩み去る人々」を彷彿とさせる。楽園都市オメラスの矛盾に気づいた人は、必ず一人ずついなくなることになっている。ル・グィンのこの倫理についての寓話は、オメラスの内部で集団的な蜂起が発生する可能性をあらかじめ排除しているのだ。
 『レザレクション』では物語の結末で、エージェント・スミスが挑発的な台詞を投げかける。人類の多くは羊のように飼い慣らされたがっているというのだ。この部分のやりとりは奇妙だ。そもそもマトリックスの人民の大多数が、自由を求めて立ち上がった瞬間など一度もないのだから。
『マトリックス レザレクションズ』については、脚本の可能性だけでいえば、同じく仮想現実を扱った映画『フリー・ガイ』のような構成にすることもありえただろう。民衆はクズだが、何某かでその良心を示す展開もありえた。たとえば、いかにゴッサムの市民がどうしようもないとしても、映画『ダークナイト』では囚人を犠牲に自分たちだけが生き残る選択はしなかったのである。
 非当事者が言うべきことではないのかもしれないが、『マトリックス』シリーズの、民衆への希望を描かない徹底さは、監督であるウォシャウスキー姉妹が公言しているように、この映画がトランスジェンダーをめぐる寓話だということと無関係ではないように思える。マトリックスに眠る人たちは覚醒する潜勢力を持つが、覚醒するのは一握りである。眠れる大多数の人々については、覚醒した人々は無関心なのだ。
 連帯できるのは覚醒した人々たちの間であり、大衆との連帯――それはある意味では大衆への不信と言ってもいい――は存在しない。救世主が救えるのも特定の人々だけなのだ。救世主が権力に対して獲得できるのは、覚醒の強制ではなく覚醒の自由だけなのである。
 『マトリックス』の救世主像は、私も含めたマジョリティにとって、安易なエモさに走らせないような彼岸さがある。覚醒した者たちの戦いは真剣なものだが、それは悲愴ではありつつも戦争のように美学へと回収されることはない。大衆への不信は独裁への第一歩だが、他方でその戦いは生の解放へと導くのである。

Ex Captivitate Salus
 
 民衆の内にある救世主と民衆の外にある救世主。この二つの救世主が目指す革命は異なった様相を帯び、それに伴い人々が救世主に対いて警戒するべき点も異なる。ただひとつ共通していることがあるとすれば、救世主とは囚われの身からの解放を切実に希求する者のみに対して現れる表徴だということである。
 救世主の物語はひとつの精神的な寓話ではあるのだが、安易な消費や現実への当て嵌めを許すことはない。囚われの身からの解放を要求する革命は「カフェイン抜きのコーヒー」ではない。それは非合理的な禍々しさを常にともなったものなのだ。

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