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SUNNINESS (1) 「だから平野遼を評論する」

はじめて狸小路エリと口をきいたのは、新学期がはじまって何日かたった頃だと思う。いや、夏休みに入る前だったろうか。自分のことならまだしも、彼女の画家としての死にまつわる出来事を思い出すのに、あの頃あの教室で彼女の声を聴いたようにいうのは、不正直な態度ではなかろうかと思う。私はもうすぐ五十で、自分の無知無力を人前にさらけだすのは気が引ける年だ。いっそのこと他人に悪く言われる危険性を回避して、むかし意気込んでいた油絵でも始めた方がましなのかもしれない。しかし、それぞれが抱えることになった時計を止めたままにして、寝顔に流す涙をカーテンでさえぎるのは、やるせない思いもする。白いものが針のように髪にまといつく年齢ではあるが、波立つ孤独が過ぎ去るのを待つだけでなく、つきまとう涙が枯れることを差し控えるまで、完全に白日のもとで絞り切りたい。そして、もう枕は濡れることはないなと思う自分を笑いたおしたいと思う。小説とは飾られた悲劇よりも、低く腰を折った真実でなければならない。したがって、いつも私がするように、おおらかに、一歩踏み出すような調子で話を始めたいと思う。ただ、あの頃のことはすべて過去のものとなり、私の思い出自体も、手ごたえを感じ取れる記憶ではなくなっている。私がこうしてキーボードをいじり、記録をしている今も、微かに蘇るのは、一分のすきもなく身なりを整えて、頬をつんと冷たくこわばらせたあの表情だけだ。彼女の肌は、幸福な女性の温かさをもたず、気性も一つの場所に留まっていなかった。そして、興味ある事実だが、彼女はその移り行く表情に満足しているようだった。生真面目に人とぶつかり、あらかじめ用意していた社交辞令は封印する心の小波が、まぶたの裏で固まっていくのを楽しんでいるようだった。彼女の個性といえば、まだ心もとない攻撃性というか、ときおり痛烈な意見を天に向かって放つ、冷笑的なところというのは、奇妙な言い方なのかもしれない。 
ただ、彼女の奥底で確かにうごめいていたのは画家的なシニスムであり、実際、彼女は誰かの情けで、職業をあてがわれる輩を批判していた。そして、社交と恋にうつつをぬかしながらも、順調な出世コースをたどる大学の寄生虫どもを泥棒野郎と罵っただろう。世には懇願やご機嫌うかがいの才能を説くものもいるが、彼女はその出世の道のもたらす利益を得ようとはしなかった。独立独歩の筆を持ち、えげつない名誉を笑い飛ばす、あのアッパレな狸小路エリは、相手が偉い先生だからといって媚びを売り、尊敬して引き下がるようなところがなかったのだ。
私は彼女が好きだ。嘘偽りのない眼差しで、怒りの色を率直に表に出す、あの性格をだ。この意味が分かってくれるだろうか。私は狸小路エリという人間を鮮明に描き出し、しっかりとした書物として歴史に刻み付けたいのだ。しかし、私の記憶というものは、鱗のように覆いかぶさっている。黄色い嘴のように曲折もしている。はたして大学時代のものがありのまま心に映っているだろうか。彼女の晩年の作風は、主題からして紛うことなき社会派ではあるが、私はその中にひそむ平野遼の影響を感じ取らずにはいられない。私にはその覚書ともとれる作品があるのだから、悲しくて美しい匂いを嗅ぎ取りながらも、せめて彼女の創作の人間味だけでも蘇らせたいと思うのだ。もちろん、恋に関するディテールも少し残っているが、しかし、あまり強い力でかき混ぜると微妙な色が濁ってしまいそうなので、私は彼女に関係する絵を糸口に、薄皮をはぐように、一枚一枚を回想し、語っていくという手法で、物語を展開しようと思うのだ。一枚の絵には、いわゆる時代の、その時期の情熱がそこに震えているものだ。だから、その絵によって示された心理や法則をたよりに、私は彼女にとって切り離しえない特殊の事柄を記していきたい。たとえ出来上がった書物が失敗していても、後年、誰かが私の意志を引き継いでくれるに違いない。そう思い、書くことにする。

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