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SUNNINESS (7) 「だから平野遼を評論する」

振り向くと、その人はこちらを見て立っていた。それは上着とズボンがつながった黄色い作業着を身に着けた女性だった。遠くへ去っていく車の音を聞きながら私はその女性を見つめた。胸をぐっとそらしながら細おもての顔をこっちへ向けている。絵具で汚れた繋ぎには北窓をとおして入ってくる光がやわらかい影を落としている。行きずりの人と目が合っても、さして動揺はしないが、あまりに無防備な状況での美しい女性との出会いに私の目は一瞬大きく見開いた。そのわずかな震えは彼女にも伝わったようだ。 すると女性は手に持った筆を持ち替え、袖に肌を入れながら「学生の方ですか?」「ここに何か用でしたか?」と矢継ぎ早に声をかけてきた。私は気おくれしたが、とりあえず謝っておくことが先決と思い「すいません」と軽く頭を下げ「学生です」と返した。彼女は一瞬で私の素性を読み取り、力量を読み取り、あまり気の利かない男であると見抜いた気配だった。彼女は自分の気分を隠す必要を認めていないらしく、いらいらとした調子で私に迫った。絵具の方を見やりながらムスッとしたしかめ面で「私は二年です」と応じ「隣の教室で絵をかいていたら物音がしたもので」と間を置かずに付け加えた。そして、ますます不審そうな目つきでこちらを見つめた。どうやら私がアトリエを物色していると思われたらしい。疑われるのがもっともだとはいえ、あまりに露骨な表情に私はますます呑まれ、平謝りし、弁明を試みようとした。が、そんな必要はなく私は彼女の職務質問に独楽のようにくるくる回され忙しく応じるしかなかった。  「そうでしたか、私はてっきり…」彼女は最後まで言い終わらずに口を閉じた。 しかし疑いが晴れると今度は彼女の方から「疑ってしまい軽率でした」と頭を下げてきた。あまり表情が豊かではないが美しく組み立てられた動作だった。そして、すぐに名前を名乗ってきた。私はありったけの機転を利かせ「僕はマンマです」と名乗った。妄想の中ではすらすらとやり取りができるの、現実の席ではどうしようもなく駄弁だ。 すると彼女は「誰かと思い、驚きましたよ」と云うと私をじっと見た。私は何か云う必要を感じたが一度出した用心深さはにわかには引っ込められず、半間であると自覚しながらも黙っていた。 「アトリエに忍び込む割におとなしいですね」と彼女は云った。 この「おとなしい」というセリフはそれこそ何度も聞かされたことがある。しかし、そのありきたりの事実を否定したことは一度もない。「あぁ、またか」と思うだけだ。そして沈黙によってそれを是認するだけだ。こういう時、私は心の平静を保つのがやっとで返す言葉を考える余裕がないのだ。私は屈辱に先回りして自分に言い聞かせた。確かに私は話が下手だ。でも考動はする。全存在をかけて云うが、私は絵描きなのだ。 すると彼女は私の眼の中の炎をとらえたらしく、ほんの数秒ほどだったが苦い顔をした。とんだことを口走ったと気付いたらしい。 「ごめんなさい、つまらないことを云いました」彼女の小柄な体は、小刻みにふるえていたのだろうか。だが目の奥から漏れる溜息は、たとえ忘れようとしても、忘れることができない。いかなる言語をもってしても表せないものを眼は表現し得るものなのだ。 「話し相手になれそうな方だったので、つい」と云い、私に目を上げた。 「分かってくれますよね?」彼女は本心ではないということを示そうとしたのか急に子供っぽい表情を作った。その緩急の使い分けには実際目が回るようだったが、それは彼女の意志に反して大人の心理となって私にとどいた。 「許してくれますか?」彼女は私の目をのぞき込みながらいった。 そうされてうなずかないぐらいなら鼻からビーフジャーキーを食べた方がましだったが、私は気持ちを抑えてしかめ面をした。ただし案外素直にというか体は正直に「ええ、許しますとも」とうなずいてしまった。 彼女は「よかった」と云い「ゆっくり見ていっていいんですよ。いつも、この部屋は誰もいなくて寂しいぐらいですからね」と、なおもぎこちない態度で付け加えた。 私は照れてはにかんだ。しかし、その出会いを私は熱にかわいた笑顔を交わすだけにとどめ立ち去ろうとした。束の間ではあったが、すぐ前に目撃したあの絵がいつもは軽率な私の心にしっかりとした決意を与えてくれていたのだ。私は簡単に邪魔をした旨の口上を述べた。そして引きとめる気もないだろうとそそくさと歩き始めた。

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