143.教祖が悪口を言われた時の対処法を教えられた話し


はじめに

高野友治氏が執筆された、「教組余話」には、稿本天理教教組伝や稿本天理教教組伝逸話篇にも出てこないような、教組の御話しがたくさん載っています。
その中で僕が面白いなーと感じた御話しをピックアップして紹介したいと思います。


悪口を言われたときの対処法


奥野通三郎から話を聞いた河内の柏原の山本利三郎のことは、私は何べんも書いていますから、私の書きものにたびたび出てくる人です。この山本利三郎の話のなかにあるのですが、教祖が山本利三郎に、
「人が悪口を言うたら、その人のうしろ姿を拝んでとおるんやで、そうしたら、その人がこちらの因縁を取ってくださる恩人になるのやで」
ということをおっしゃったといいます。これは大した教理です。

天理教でよく聞く話の一つに、
「悪口を言われたら、相手を名医だと思いなさい」
といった話しがあります。

病院の医者は身体の悪い所を見つけてくれます。
それと同じで、自分の悪口を言う人は、自分の心の悪い所を見つけてくれる人です。
だから悪口を言う人は、自分にとって名医になるという考え方です。

また、ある企業が、自分の会社の悪口大会を開き、優秀な悪口には賞金を出す。
と言った企画が数年前に流行りました。
悪口の中から、自社商品の改善点を探すという狙いは、良く出来ていると誰でも思うのではないでしょうか。

こういったことから分かるように、よく考えれば考えるほど

「人が悪口を言うたら、その人のうしろ姿を拝んでとおるんやで、そうしたら、その人がこちらの因縁を取ってくださる恩人になるのやで」

この御言葉は、人間にとってとても大切なこと表していると思います。


後ろを拝んで通る


それでは、ちょっと噛み砕いて教祖のお言葉を考えていきたいと思います。

このお言葉のポイントは
「後ろ姿を拝んで通る」
ではないかと思います。

「後ろ姿を拝んで通る」ということは、当たり前ですが前から拝まないということです。
ですから、
相手に気付かれないように拝むことが、大切だと考えます。

なぜ面と向かって言ってはいけないのか、僕なりに考えてみたところ、
まず第一に考えられるのは、相手と争わないためです。

前から拝んで相手と会話を始めてしまったら、人間ですから悪口を言われた事に対して反論したくなることもあると思います。
また、悪口を言っているのに拝まれた側からすると、皮肉を言われているようで、これまた争いに発展しかねません。

後ろから拝んでいる分には、相手と争いの起こりようが無いので、矢印を自分に向けることができます。

第二に考えられるのは、「陰徳を積む」ことと同じ構造ではないかということです。

「陰徳を積む」ということは、よく種まきに例えられます。

良いことをして誰にも言わないのは、土の中に種を植えるようなもの、やがて芽が出て大きく育つ。
良いことをして人に言いふらすのは、アスファルトの上に種を蒔くようなもの、周りから良く見えるが、芽を出すことはない。
それなのに人は、良い種はアスファルトの上に蒔き、悪い種は見つからないように土に埋めてしまう。
これでは良い結果は生まれてきません。
良い事をすれば誰にも言わず土に埋め、悪い事をすれば正直に話して反省する。
それが、大きな視点で人生を見た時に、良い結果を生むことに繋がります。

相手に分からないように「後ろから拝む」というのは、このような意味で陰徳を積むことにも繋がるのではと考えられます。

また他にも、
「相手に喜ばれる徳を積んでもらうため」
「自分が腹立たないようにするため」
なども考えられます。


そんなこと言っても腹が立つでしょ


そうは言っても、自分の悪口を言われていたとなると、冷静になれない人がほとんどだと思います。

腹も立つでしょうし、逆に相手の悪口を言いたくなるかもしれません。

ですからまずは、教祖のこのお言葉を知っているということが大事になると思います。

知らなければ何も始まりません。

何も変わりません。

そして次に、思い出せるということが大事です。

知っていても、その場面になった時や振り返った時に思い出せなければ意味がありません。

さぁ僕は今、めちゃくちゃ当たり前なことを言っておりますが、この記事を読んだ方、もしくは元々教祖のお言葉を知っておられた方であっても、実際に悪口を言われた時に、このお言葉を思い出すことが出来ない人の方が多いと思いましたので、あえて当たり前のことを言っています。
(僕自身に言い聞かせている節も否めません)

僕はよく、働いている信仰者の友達に伝える言葉があります。

それは、
「仕事しながら信仰したら駄目ですよ、信仰者として仕事して下さい」
という言葉です。

「信仰者として仕事をしているんだ」
という自覚があれば、仕事をしていて思い通りいかないことがあった時や、問題にぶち当たった時、例えその場では思い浮かばなくても、後で思い返したときに、指針となる教えや御言葉が心に浮かんで来ると思います。

しかも、
心に浮かぶのは全て「陽気ぐらし」に繋がる希望に溢れた答えばかりになります。

天理教を信仰していて、暗い気持ちになる、怒りがこみ上げてくる。
一時だけの感情ならそうなっても仕方ないと思いますが、この感情が継続して続くようでしたら、そもそも教えを十分理解していない、知らないんだと断言出来ます。
言い過ぎかもしれませんが、そもそも、その状態は信仰していないと言っても過言ではないかもしれません。




…言い過ぎました。


しかし、はっきり言えることは、その状態は、
信仰する上での良い所(俗に言えばメリット)を何も知らずに信仰している状態だと言えます。

言い換えれば
「ミカンの皮だけを食べて不味いと思い、ミカンを食べない」
「温泉の湯を飲んで不味いと思い、温泉に浸からない」
「動物園は臭いから行かない」

こんな感じで、美味しい所、良い所を経験せず、検討違いなだけで判断している状態と全く同じではないでしょうか。
(さすがにここまで極端な人がいらドン引きですが笑)

ですから、信仰する楽しさや嬉しさ味わうためには、まず教理を知り、その教理が腑に落とさなくてはいけないと思います。



おまけタイム


どーも!今更になって鬼滅の刃に手を出した男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

昨晩更新すべきところを、今日は大分更新が遅れてしまいました。

実は後輩が、鬼滅の刃を20巻まで貸してくれました。

昨日は記事を書いて、
「よし、あとはおまけタイムだけだ」
となったところで、
「その前にちょっと借りた漫画でも読もう」
と思い、漫画に手を伸ばしたところ、いつの間にか15巻まで進んでいました。

時間は午前2時です。

不思議です。

そのため、おまけタイムがまだ書けていなかったという理由で更新が遅れてしまいました。

これは誰が悪いのかと言われれば、十中八九漫画を貸してくれた後輩が悪いと思うのですが、僕の心はアイスの中で言うとパナップくらい深いので、後輩のことは責めません。

強いて言うなら、昨日が24時間しかなかったところが悪かったと思います。


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!





サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!