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子供がほしくなかった人が親になったおはなし

30代の半ばまで、こどもが欲しくなかった。理由は色々あった。

現状にとても満足していたから、その現状をわざわざ変えるような行動としての妊娠出産が愚行に思えた。子供を持つことで得られることもあるだろうけど、今持っているものを手放すこととそれは釣り合うのか?と思っていた。

一方で、夫は結婚当初よりずっと子供を持ちたいと考えていたし、そうありながらわたしを急かすようなことはなく、夫婦の気持ちが折り合うのを静かに待っているような態度だった。

しかし結婚して10年が経っても折り合わない。それなのに正面切って「子供はいらない」というのも申し訳なく、さりとて離婚を提案するにはわたしは夫との暮らしが好きすぎた。そんな宙ぶらりんの状態が長く続いた。

でも結局、子供を産んだ。別にわたしの内面に変革があったわけではなく、臨月に至ってもなお「子供って本当に可愛いの?可愛いと思えなかったらどうしたらいい?」などと実の母に聞いて「それをわたしに聞くかね」と呆れられた。それくらい自信がなかった。子供を愛せるか、子供のいる暮らしを良いものと思えるかということに。

わたしの場合は、医療の力を借りての妊娠だった。積極的に計画的に妊娠したことになる。子供が欲しくもないのに時間とお金を使って妊娠したことになる。嫌だったけどうっかり妊娠した結果オーライというものではない。

ひとまず夫のために産もうと思った。夫がわたしの人生を楽しくしてくれた、という思いが常にあった。猛烈に支配的で権威主義的で保守的な両親の元を離れて夫と暮らしたことで、ここに書ききれないくらいの変化が自分にあって、わたしは自分の人生が楽しく風通しの良いものに変化したことをいつも実感している。そのことに当の夫にも想像がつかないほどの感謝をしていて、とにかく恩に報いたいという気持ちがあったし、今もある。

そういう風に気持ちを固めたものの、自分のなかに「子供がどうしても欲しい」という気持ちが生まれるわけではなく、とても複雑な気持ちで妊娠するための通院を続けた。期間にして2年半。通院は辛く費用もかさんだので、最後の方は子供がほしいほしくないという問題よりも「この生活を終わらせたい」という気持ちが大きくなっていた。

そして妊娠した。ああやっと通院が終わる、という気持ちが、嬉しい!という気持ちよりも大きかった。妊娠中も、体の変化が鬱陶しくてそれほどハッピーな気持ちではいられなかった。猫が子供をストレスに感じたらどうしよう、ということも心配だった。どんな人が生まれてくるのかと楽しみに思う反面、憂鬱な気持ちがいつもどこかにあった。

それでも時は経ち臨月に至り出産し、子供のいる暮らしが始まって、気付けば子供が可愛くて仕方ないということになっていて唖然としている。

乳児のいる暮らしは慌ただしくて、あれこれ考える間がなかったということもあるのかも知れないけど、いつのまにか子供を可愛いと思うようになった理由もまた、夫の存在によると今は思う。

産後、わたしは里帰りをせずに、産院から退院後は自宅に戻った。猫と離れがたい、両親とは少し離れている方が仲良くいられる、実家よりも自宅の方がお風呂が使いやすい、という理由だった。産後の数カ月のあいだ、夫は仕事を調整して食事の支度の全てと子供の沐浴を担当してくれた。夕飯と子供のお風呂はそろそろわたしがやるよ、とわたしが言い出すまで。朝食は産後2年半が経過した今もまだ夫が作ってくれている。

夫の仕事は忙しいし、夫は仕事を大事にしている。その人がここまでやってくれている、とありがたく思った。そのなかで、この人と子供を育てるのはちょっと面白いかも知れない、という気持ちが生まれた。それは、わたしが母になることへの自信の萌芽でもあった。無理そうな仕事が、チームの顔ぶれを見ているうちに「なんとかなるかも」ということになる経験は働いてきたなかで何度かあったが、それと全く同じことが育児でも起きたのだ。

そうやって気持ちに余裕が芽生え、目の前で日々変化を続ける小さな息子を夫婦で見ているうちにどんどん面白くなってきた。面白さと愛おしさはなぜか同期していた。子供が現れたことで、夫婦で一緒に夢中になれることがまたひとつ増えた、という感覚もあった。

もちろん、相手は子供なので疲れたりうんざりしたりすることもある。でも、そのストレスを解消する術はいくつもある。手放したもの・諦めたものもあるけど、いつか取り戻すこともできる。そう考えるようになって、気付けばわたしは育児を楽しむお母さんになっていた。

案ずるより産むが易し、という言葉があるけどそれは絶対ではないと思う。わたしの場合はたまたま一緒に子供を育てるパートナーに恵まれて、自信をつけて今に至っているだけだ。何かひとつでも条件が欠けたら、今とは全く違う生活をしていたかもしれない。

なぜあんなにも頑なに、子供のいる暮らしを恐れていたのか、と考えた。出産に至るまで女性にかかる負担がとてつもなく大きいということが、わたしの目を曇らせ、頭を揺すっていたのかもしれないと思った。なぜか、わたし1人で産んで育てるような気持ちでいて、絶望していた。お腹から子供が飛び出したら、子供を育てるのはわたしひとりの仕事ではない、ということに全く思考が届かず、子供を持つということを全くの個人的な出来事ととらえていた。これは大きな勘違いだったと反省している。パートナーへの信頼が、子供への愛情の源になるということは、子供を持つまでわたしにはわからなかった。そして、何がその人を母にするかは、人それぞれで、わたしの場合はこれだったということなのだろう。

もし今、子を持つことに悩む人がいたら、こんなケースもあるよ、というつもりでこの文章を書いた。子供のいる生活はなかなかに楽しい、だけど10年以上に渡る子供のいない生活だって本当に最高だった。どっちが良いという比較には意味がない。人生の一番の目的は生殖ではなくて、楽しく暮らすことなのだから。

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