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詩集を買ったことはありますか?

皆さんにとって「詩」ってどんなものでしょうか。
役に立つでしょうか? 面白いでしょうか? 理解できるでしょうか?

hoka booksでも詩集をいくつかは仕入れていますが、なかなか扱いが難しいジャンルだと思っています。どんなふうにお客さんに勧めたらよいだろうかと……。

今日は「詩」について、hoka books西尾が考えていることを書いてみます。
気が向けばご一読ください。


詩を、我々が日常使っている論理や文法から外れた言葉のつらなり、だと考えてみると、そこにはある非日常が現れているのではないかと思います。そこで、

「詩は言葉の事故である」

と定義してみましょう。

まず、事故というのは、ある物理的慣性、法的ルールや、文化的慣習を逸脱するときに発生します。たとえば、階段を駆け足で降りれば、脚を踏み外すかもしれません。道路交通法を破って信号無視すれば、車にぶつかってしまう。場の空気を読まない行動をとれば、文字通り「事故る」わけです。

事故ったとき、人はどんなリアクションをとるでしょうか?
多くのシーンにおいて、人は驚嘆するはずです。
事故は人に驚きの感情を誘発します。
何かが、あるいは誰かが、「事故った」状況において、平然といられる人がいたとすれば、それは危機管理能力に乏しいか、常識を欠いているか。他者に無関心、と言われても仕方がないでしょう。

すると、さきほどの定義によれば、そうした「事故」を言語表現でもって起こそうとする試みが「詩」だということになります。詩集にならぶ言葉たちは、はじめて見るような言葉のつらなりや組み合わせでもって、新鮮な驚きを読者にもたらすはずです。

物理世界の事故はある瞬間に発生することがしばしばでしょう。
だんだんと発生する交通事故には驚きがありません。むしろ冷静になれば避けることができるはずです。事故になりえない。
思いがけないことや、予想できないことが、不意に起こるのが事故なのだとすれば、「だんだんと起こる事故」という表現は、それ自体が詩のようなもの、事故ではない「事故」だというわけです。

しかし言語世界の事故、これを「詩的事故」と呼ぶとすれば、それは必ずしも瞬間的に起こるものではありません。少なくとも、再現性があります。繰り返し読むことができる。
詩の形式にしても、どこまでが詩で、どこまでが詩ではないのか、わからないようなものもある。特に現代詩であれば、一見ふつうの文章に見えるけれども、繰り返し読んでいるうちに詩であることがわかってくるような詩。「だんだんと起こる事故」が発生しうるわけです。現代の詩の形式は実に多様です。

「事故は人に驚きの感情を誘発」すると書きましたが、多様な詩の世界をよくよく観察していると、驚きが転じて笑いを呼び起こす詩もあります。その一つが漫才でしょう。
漫才は書かれた詩ではありませんし、身振り手振りや表情を含めて表現され、また少なくとも二人以上による言葉が掛け合いによって紡がれますが、そこにはやはり「言葉の事故」が起きています。一回だけの瞬間的な事故に限らず、玉突き事故のように立て続けに起こったりもします。その結果、爆笑が発生することもありますし、「スベる=事故る」こともあります。
また詩は誰かに予期されたものではありませんから、同じ詩であってもそれに対するリアクションはいつも同じとは限りません。

事故に直面する人の感情や状況、環境によって、それが「事故でありうるか=詩でありうるか」は、変わっていい。そう考えると、詩は捉えやすくなる気がします。詩は思いのほか柔軟なものです。評価が定まった歴史上の詩人の作品を、学者の解説通りに解釈しなければならないということはありません。驚いてもいいし、笑ってもいい。漫才を見て涙を流すのも、悪くありません。なんとも詩的じゃありませんか?

そうそう、「美しい」を「詩的」と表現することがあります。なぜでしょうか?
そこには「詩は役に立たない」ということが関わっているように思います。

たとえば、新築の建物には機能があります。
図書館とか、美術館とか、住宅とか。それらは役に立つから、高いお金を投じて建てられるわけです。しかし時間とともに、なんらかの「事故」によって、建物は使われなくなります。住んでいる人が亡くなったり、地震で壊れたり、バッティングセンターの防球ネットの支持柱が住宅街に倒れてきた、なんてニュースも昔ありましたね。
事故って建物が壊れると、次第に朽ちて廃墟となる。すると今度は、「廃墟が美しい」なんて言い出す人が出てくる。軍艦島についロマンを感じてしまったりする。
廃墟は役に立たないけど、そこにはなぜか美しさがある。美しいゆえに人を惹き付ける存在。廃墟もまた詩的で、詩のようなものだと言えないでしょうか。
「役に立たないこと」と「美しいこと」には何らかの相関関係があるようですが、それについての考察は、またあらためて書きたいと思います。

長くなりましたが、もう一つだけ。
さきほど、「事故る」ようなやつは「常識外れのKY野郎」(そこまでは言ってないけど)だと書きましたが、その事故現場には、居合わせた人たちのヒンシュクを買う代償として、新鮮な驚きが発生します。
私たちが驚きに出会うとき、つまり外部から強い刺激が脳にもたらされると、脳内のニューロンネットワークには新しいシナプスが生まれます。これが「ひらめき」の一つシステムだと考えられています。非日常の驚きが人間の創造性を刺激しうることは、言うまでもありません。

たとえば旅からインスピレーションを得た経験のある表現者は、世界中に5万といるでしょう。旅に出るということは、事故に出会いに行くようなものです。旅もまた詩の一つの形式だと言えるかもしれませんね。
旅も詩も、事故によってつくり手の創造性を刺激する。
「すべてのつくり手のための本屋」を掲げるhoka booksとしては、詩集はとても大切なジャンルになりそうです。同時に「詩的な詩集以外の本」があるとすれば、それもまたオススメできそうです。


さて、つらつらと思いつくまま書いてしまいましたが、今日の詩についての考察をまとめると次のようになります。

詩は、読み手に「驚き」と、そこから導かれる様々な「感情」を呼び起こす。その形式はとても「多様」で「柔軟」なもの。「役に立たない」が「美しい」。そして、つくり手の「創造性を刺激」する。ただし、たまに「事故」ってる。

少し詩と仲良くなれそうな気がしてきました。映画も詩のようなものだと捉えることができるのではないでしょうか。

では最後に、映画監督・ロベール・ブレッソンのもう一つの作品とも呼ばれる名著『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から、詩的な一節を引用して終わります。

「感情が事件を導くべきだ。その逆ではなく。」

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