言葉の大切さ

皆様こんにちは。足をお運びいただきありがとうございます。以前より興味のありました「note」ですが、私も意を決して、「言葉の大切さ」と題し、ひとつ投稿をしてみることにしました。少し長くなりますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

この記事をご覧になる方々の多くはTwitterからやってこられた方々であると思いますが、皆様は、「言葉」について深く考えてみたことがありますでしょうか。

本稿でいちばん皆様にお伝えしたいこと、それを先に太字で表しておきます。

「言葉」をたくさん手にしている人々は、そうでない人々に比べて、とても多くの物事を理解し、とても豊かな感受性を持ち、とても色鮮やかな世界を見ている、

ということです。

このことについて、例を挙げながら、詳しくここに記述させていただくこととします。

「言葉」。

産まれて初めて覚えた言葉を、皆様は覚えていますか。

私たちは皆、お母さんのお腹の中からおぎゃあとうぶ声をあげ、この世界にやってきました。初めて言葉を覚えたのは、それは、うぶ声をあげた半年後かもしれませんし、一年後のことかもしれません。きっと初めて覚えた言葉を記憶している人はいないでしょう。

お母さんの丸い顔を見て「まま」と言ったかもしれませんし、あるいは、いつも口に運ばれてくる美味しい食べもののことを「まんま」と呼んだかもしれません。

お腹の中から産まれ、うぶ声をあげた瞬間の、その赤ちゃんの目に見える世界を想像してみてください。

今、大人になってこの記事を読んでいる皆様は、そこが分娩室であり、さまざま医療機器が設置され、医師と看護師、助産師の会話が聞こえ、母親が嬉し涙を流している様子をきっと想像できるでしょう。

それでは、当人の赤ちゃんにとって、その世界はいったいどのようなものでしょうか。きっと、何が何やら分からないもやもやとしたものが何となく目に写り、なんの意味も持たない物音が聞こえ、そこは何も区切られていない、何も整理をされていない、混沌とした世界が横たわっているに違いありません。

そんな混沌とした世界を、ひとつづつ整理し、少しずつ理解をしていく、それが「言葉」の持つ力です。

混沌とした、ぐちゃぐちゃの世界の中から、自分をいつも愛してくれるお母さんの丸いその顔を「まま」という言葉で切り取った瞬間に、その赤ちゃんは「まま」の存在を理解することになります。あるいは混沌として、何が何やら分からない世界の中から、いつも口に運ばれてくる甘くて美味しい食べ物を、「まんま」という言葉で切り取り、それをそれとして理解します。

分娩室であること、医療機器のこと、医師たちの会話のことは、それを表す言葉を未だ持たないので、きっとその赤ちゃんはまったく何も分かりません。

「言葉」によって世界を切り取る。この感覚が、とても大切です。

くだんの赤ちゃんは、成長するにつれ、音が鳴り走る車のおもちゃのことを、「ぶーぶー」という言葉によって横たわる混沌とした世界から切り取り、また、お姉ちゃんからちょっかいをかけられて不快に思うその気持ちを「いや」という言葉で切り取り理解します。

世界を言葉で切り取る。

言葉によってでしか、世界を理解することはできない。

他にも例を挙げてみましょう。

皆様、この世界には、いったい何色の色がありますか。色の数について、考えてみてください。

ある人は、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、の七色と答えるかもしれませんし、ある人は、それに桃色や黄緑色、水色などの色を付け加えるかもしれません。

ここで忘れてならないことは、そもそも、「色」という世界は、無限の連続性を持ち、あくまでもアナログのグラデーションの世界である、ということです。

その無限の連続性を持ち、アナログのグラデーションの世界である「色」の世界を、私たちは、「赤」、「黄」、「青」、「水色」、といった「言葉」により、それを切り取って理解しています。

千年以上も昔、遠い平安時代には、「藍色」、「葵色」、「青柳」、「浅葱色」などといった、百を超える「色」を表す言葉が存在したと言われています。

グラデーションの色の世界を、さまざまな「言葉」で切り取り、彼らは理解していました。

それだけたくさんの「言葉」を持った昔の人々は、いったいどれだけ色鮮やかな世界を見ていたことでしょう。

一方で、台湾のとある部族の中には、世界の色を表す言葉をたった三種類しか持たない部族もあると言われています。南アジアには、色の言葉をたった二種類しか持たない部族もあるそうです。

つまり、その国、その民族の持つ言葉によって、切り取って理解する世界が異なっている、ということです(良い、悪い、ということでは決してありません)。

さまざまな言葉を持つ人々が、あるいはさまざまな言葉を持つ文化が、いかに色鮮やかな世界を見、いかに正確に世界を理解しているかが、少しお分かりいただけたでしょうか。

少し見方を変えてお伝えします。

正確に世界を理解する、という手法の一つに、「科学」があります。「科学」とはいったいなんでしょうか。インターネットで調べてみると、「一定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動」と定義されていました。少し分かりづらいですね。シンプルに「科学」の定義をお伝えすると、次に挙げるようなものになりそうです。

科学とは、「世界を、物事を、可能な限りバラバラに分解し、それらに言葉を与え、それをそれとして理解すること」です。

現代の科学は、一本の木を、葉、枝、幹、根などに分解し、それぞれに今挙げたような言葉を与え、さらには葉緑体、なんとか原子、にまでバラバラにして言葉を与えて理解します。

言葉がなければ、それはただ、ただの一本の木に過ぎません。茶色い土から根っこが立ち上がり、徐々に太い幹となり、背の高さを超えたあたりから枝葉が分かれて、先には小さな蕾をつける。このような連続したグラデーションの木を切り取って理解するには、言葉の力を借りるより他に方法がありません。太い幹と、その外側の空気との境目は一体どこにあるでしょうか。境目なんて、本当はありません。全ては連続しています。それを、「幹」と「空気」や、「炭素」と「酸素」などといって、「言葉」を使って切り取っています。それが、「科学」です。

科学の一部である、医学においても同様です。ひとりの人間を、解剖という手段によって役割ごとにさまざまに分解し、それらひとつひとつに名前(言葉)を与え、それをそれとして理解していきます。言葉がなければ、それはただ一つの人体に過ぎません。全てが連続した、肉の塊に過ぎません。西洋医学と東洋医学との差異なども、根本的にはそういった言葉の与え方の違いが関与しています。つまり、役割をどこに置き、どこで分けるか、どこに境目を作るか、ということです。

境目は、つまり「言葉」があるかないか。理解できるかどうかは、つまり「言葉」を持つかどうか。

「理解する」という日本語は、他に「分かる」と言いますね。つまり、人は、「(言葉によって)分け」なければ、物事を、そして世界を理解することはできません。

それだけ、「言葉」というものは、大切な意味を持っています。

巷でよく、子に幼い頃からさまざまな言語を教育することの是非について議論がなされていますが、これについては皆様はどのように考えますか。

産まれたての赤ちゃんに、母親は日本語を、父親は英語を投げかけて育てることにしたとしましょう。うまくいけば、あるいはその子はバイリンガルに育っていくかもしれません。しかし一方で、複数の言語を子に教育することで、発達障害となるケースがあると言われています。つまり、子が世界を切り取って理解していく上で、基準となる言葉が複数にわたることによって、物事の理解に滞りが生じることが、実際にあり得るのです。どういったケースが存在するのか、皆様も一度考えてみてください。アナログのグラデーションの世界を、さまざまな言葉(複数の文化における言語)で切り取ろうとすると、そこには重複と包合と漏れが生じ、人によっては、混乱を生じます。子に対し、複数の言語を与える際には、その辺りのリスクをしっかりと考慮しなければなりません。

話がいろいろと飛びましたが、「言葉」の持つ本来の意味について、また、どれだけ「言葉」が大切な意味を持っているか、についてお話しさせていただきました。

「語彙力こそが教養」(?)といったような書籍があったかと思いますが(読んでないので分かりませんが)、きっとそのようなことが書いてあるのだろうなと勝手に推測しています。

「ことばと文化」という岩波新書の書籍や、「倫理という力」といった書籍にもたしか同様の記述があったように記憶しています。気になる方はぜひ手に取ってみてください。

たくさんの言葉を持つことが、世界をとても深く理解することに繋がること。

これを本稿で皆様にお伝えできていれば幸いです。

次回は(もし記事を書くエネルギーがあれば)、「文章を組み立てること=考えること」といったような題にして、「文章を書くこと、言葉を発すること」こそが、「考えること」なんですよ(同義であるということ)、ということについて記事を書ければと思います。

応援してくれれば頑張ります。

本稿での疑問、質問、補足などなど、もしございましたら、直接ご連絡ください。長らくお付き合いありがとうございました。

いつもふざけてますが、少しだけ真面目に書いてみました。

あは。












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