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シン・エヴァンゲリオンの残酷さ

公開初日の最速上映から3日たっても気持ちが収まらないので書き残します。


大ネタバレ感想


集落の「労働は美徳」描写の違和感

序盤の集落でのシーンを見てわたしは宗教やマルチ商法に似た胡散臭さを感じました。宗教施設勧誘VTRの導入かな?オウム真理教のサティアンかな?と。それか庵野は過激オーガニック派になった?ヴィーガン主義になりました?かと。

その理由はあまりにも何もかもがリアリティーがなく理想的な集落すぎたから。誰が指揮をとる訳でもなく平等で皆が不満なく幸福そうに労働し必ず配給で平等に飯が配られる。生きるためにみんなが足並みそろえて仲良く平等に自分の頑張りが報われるから。現実の集団行動ではそんなことは絶対にありえない。ましてプラグスーツを着たあまりにも風変わりな綾波レイをにっこり笑ってようこそと全員が受け入れる事なんてありえない。

平日朝7時の映画館で綾波レイの「あなたは働かないの?」を正面から喰らって死人が出てました。わたしも気絶しました。あれは庵野が必ずレイに言わせたかったセリフだと思ったのですがそのセリフは大きな衝撃とショックを残すけどよく考えるとお門違いなんですね。庵野が思い考えているであろう労働と現実世界を生きるわたしたちにとっての労働はあまりにも違いすぎたのではないか?いや、労働は偉い。偉いよ。偉いのは分かってるけどさ!

集落の「命は尊い」描写の違和感

恐らく新しい命の尊さとか世界は命を紡いでいくもの、命は美しい!ってのを伝えたかったと思うんですがゾンビ映画とか地球滅亡映画とかで出産シーンがあるとえ?その状況でも子供拵えちゃうの人間って?自分がいつ死ぬかも分からないのに子供を守れるの?本当に子供は幸せなの?という気持ちになるんですがまんまそれでしたね。結局子を産む事って親の都合でしかなくて確かに出産は生命の神秘ですしとてもめでたいことですがそう思うのは産む方でしかなくてその子供はどう思うんだ?という。

ミサトさんの子もそう。美談のように語られているけれど本当にそれでいいの?って。現実世界でバリキャリが妊娠して私には子供を育てる資格はないと子を手放したら非難囂々じゃないですか?人によって答えは違うと思うから強くは言えないけどわたしは子供のこと思ってとか言ってるけどそれまじ?その選択って自分のための免罪符でしかなくね?と思ってしまいましたね。

「庵野、子供できたか?子供はいいぞーモードに入ってる可能性があるぞ」と翌日の通勤中にふと思った。子供までとはいかなくても犬とか飼いだしてドックランに行き他の飼い主との交流を楽しんだりしてますか?そうじゃなければこれまでの序、破、Qからは全く繋がりのないまとめ方だった。

トウジ家での胸糞

Qで死んだとされていた同級生のトウジくんやケンスケくんが生きていてやったー!と思うけど矢先にトウジくんはお医者さんになってる訳です。和解したとはいえシンジくんを殴ったりしていた学生時ヤンチャだったトウジくんがお医者さまと慕われる事実。これあるあるだと思うんですけど、いじめてた側は何にも覚えていないけどいじめられてた側は一生覚えてるぞっていう。しかも結婚して子供いるんですよ。グロッキー状態のシンジに何の配慮もなく自分は年を取って家庭があり幸せな生活をしているのを見せて一緒に生活しろと善意で言うのはかなりグロテスクで気持ち悪かった。

「血縁と向き合う事が成長に繋がる」は時代遅れ過ぎる

ゲンドウがただの毒親で終わって悲しかった。まじでただの毒親だった。そうなるとこれまでの序とか破でエヴァに乗れ乗れ言ってたミサトさんは自分の姿を重ね合わせたエゴでしかない。他の人々が「お父さんと向き合え」と強く主張していたのも本人しか分からない苦悩に自分のエゴを無理矢理擦りつけてただけじゃんか。ほっといてくれよ。逃げさせてやれや。血縁から逃げていい。親は勝手にただ産むだけなんだから。

もう言わばゲンドウってネグレストじゃん、父を知りたい分かってもらいたいと思い寄り添ってくる子供に対しての虐待行為じゃん。それらに真っ向から向かい合う事が庵野が描きたかった「成長」の通過儀礼ですか?

孤独なヒロインアスカのおちんぽエンド

無理なんですけど?は?まじ?長年描かれたアスカの孤独とシンジへの想いの葛藤はケンスケとかいうどこぞのおちんぽで片付けられちゃう感じですか?集落でのケンスケハウスでは2人オセッセしてたって訳ですか?なんてことしてくれてんだよ庵野。まじ?こんなもんでいいの?3作品で描いたあの孤独感は最後に男あてがわれて片付けられてしまうの?

ケンスケと一緒になるってのはアスカが選んだように見せかけてあの状況ではそれしか道がなかったと思うだって集落ではケンスケ以外に接触していなかったじゃないか。

シンジへの恋が終わったのなら最後まで1人で立っていて欲しかった。アスカが例え幸せでなくても本当に自分で選んで決める恋の終わり愛のはじまりであってほしかった。

シンジは誰と結ばれればすっきりしたか

まだレイかアスカどちらかだったら納得できた。シンジとは友情でも恋愛感情でもない命懸けで戦った特別な何かが絶対に流れているから。しかしマリだけは本当に納得できない。作中でのシンジとの絡みは記憶に薄い。マリがシンジに胸を押し当て迫るシーンの記憶しかない。無口で謎めいた綾波レイとツンデレの起源といっても過言ではないアスカ・ラングレー2000年代の美少女アニメ萌えコンテンツの基盤をつくった2トップ、アニメからは卒業しろというメッセージですか?なぜマリなのか全く分かりません。(マリちゃん嫌いなわけじゃないです。ごめんね。)


マリアスカ、カヲルシンジと同性愛を匂わせる描写をふんだんに盛り込んでおいて結局関わりの薄い男女を互いにするのは「おい!じゃあ今までのは何だったんだよおい!!結局オタクに喜んでほしかっただけなのかよおい!!」と思いました。

シンジには誰の手も取らないか全員の手を取ってほしかったです。


オタク「大人になれってこと(笑)」

大衆オタクくん達の「まぁ庵野から俺達に大人になれってメッセージだな(笑)」って感想わたしは本当に好きじゃないです。反吐が出る。
その「大人になる」ってなんですか?説明できるのか?仕事に勤しみ子をつくること?どんなに嫌でも他人とコミュニケーションをとること?全てを手にいれる事を諦めて妥協して前に進む事?運命を受け入れ逃げないで向き合う事?この映画を観て無理矢理納得すること?

我々がコンクリートジャングルでキーボード叩きまくっても田舎に疎開して畑仕事に励んでも最後に迎えに来てくれる救いのマリは現れない

全てを手に入れる事はできないから受け取ったそれを仕方がないと思い前へ進むのが大人ならば一生大人になりたくねえーーーーーーーーー。ふざけんな殺すぞ。



シン・エヴァンゲリオンで何を伝えたかったのか

シンゴジラでゴジラを冷凍保存しいつ動きだすか分からないというあの世界の人々にとっては完璧な終わりではなかったように、ラブアンドポップで少女達が色んな大人に出会い未来が明るくなる訳でもないがそれぞれが沢山の気づきを得ながら日々は続いて行くことを表していたようにエヴァもそう終わってくれると勝手に思っていた。それを何年も温め続けた訳だからそれぞれがそれぞれの理想の終わりがあっていいと思う。

しかし、まさか、まさか庵野が最後に人との繋がりと生殖の尊さを強く打ち出すとは全く思っていなかったから受け止めきれなかった。

「人は誰かと手を取り合って生きていく」みたいなのは細田守や新海誠が映画1本で上手い事描いている訳であって庵野がそれを14年かけて4本分のエヴァンゲリオンの全ての答えにしてしまうのは残酷すぎると感じた。

だってシンジがマリをアスカがケンスケを見つけられたのは奇跡でそんなのは我々の日常で探したって見つからないどんなに努力して行動しても全員に降り掛かる物ではない。だから他の映画や本、庵野作品やエヴァンゲリオンにそれぞれの救いを求めるのだと思う。

シン・エヴァンゲリオンは庵野作品の中で1番所謂「普通っぽい」終わりだったのでは。登場人物を散々酷い目にあわせて表現しずらい日々の葛藤を上手く描いてラストに人との繋がりによって成長することを描きたかったのならば4本も映画作らなくてよかった。

しかも全て色恋前提で救済を設定してたように感じた。

今までの序、破、Qのアンサーに全くなっていない。

恋愛、繁殖、労働は正しく美しいこと?それが生きるということですか?独りよがりで期待し過ぎていたのは認める。私自身がそれは生きることの正しさの全てではないと庵野に言って欲しかっただけだったのも認める。

庵野は大衆向けの正解ではないけれど誰かにとっては救いの正解を絶妙に突くのが最高に上手くてエヴァンゲリオン完結ということで14年かけた集大成の生きる救いになるようなそれを期待し過ぎてしまったのかもしれないけれどすごくすごく寂しくなりました。もっと色々な理不尽に抗って欲しかったし、チルドレン達には仕組まれた運命を壊して自分で選び取って成長してほしかった。

14年前、序公開時に今回のラストまで全て決まっていたのなら納得です。諸々がアップデートできてないのも仕方ないよねとなるので。もう一層の事そうであってくれと祈っている。

オタクが考察する余地もなく全てに答えを与えたかったのだと思う。意味が分からないと言われ続けたQを反省するように終盤、ゲンドウを筆頭に鬼説明モードに入る。それぞれがまるで計算式を解説するように自分の気持ちを鬼ラッシュ説明する。庵野自身がエヴァンゲリオンとケリをつけ決別したかったんだろうなーと思った。それがどんなにこじつけの辻褄合わせであろうとも、もう1ミリも関わりたくねえ…ってのがあまりに露骨だった。

映像表現と戦闘シーンと宇多田ヒカルは最高だった

美術の映像の授業?と思う程に色々な表現がめまぐるしく使われていた。

やってみたい事を箇条書きしていって順番に入れこみました?というくらいに次々と見た事のない表現が使われていてそれはきっと素人目ではわからない細かい革新もあったのだろうと思う。

序盤のぱちぱちパソコンを叩くシーンはおぉ!エヴァはじまったーーーー!!!!と胸が高まったし集落シーンでの自然は土の匂いまで感じた。戦闘シーンは相変わらずため息でるくらいに美しかったです。オタクの感性をぶっ刺してくる。「美少女が乗る汎用人型決戦兵器人造人間がガトリング砲をぶっ放す」という字面だけでエクスタシーを感じてしまう。

あと宇多田ヒカルですね。宇多田ヒカルありがとう。

映画が終わった後ズタズタのボロボロになった心に『One Last Kiss』からの『Beautiful World』がかなり気持ちを穏やかにさせてくれた。

誰かを求めることは 即ち傷つくことだった

そのままじゃん、この映画のコアの部分に対してこの一言で片付くじゃん。

『桜流し』もQに対しての最高のメッセージだったけど『One Last Kiss』からの『Beautiful World』はもうまんまだった。

映画内で受け取ったものをかなり美化してくれました。

宇多田ヒカル最高あいしてる本当に心からの感謝を。


庵野がエヴァンゲリオンの答えだから仕方ないんですけどね!!!!

これに尽きる。全く納得できなくても夢に出る程色々考えても結局庵野がやりたいことできたならいいんじゃないですか?

それぞれにはそれぞれの解釈がありますしね。

絶賛している人達を否定するための文章ではない。

映画を観た後15時間寝込んで起きてからも何も手に付かなかった自分の気持ちをただただ整理したかっただけです。

こんなにも考えさせられてるんだから結果、創作物としてはかなり素晴らしいのかもしれませんね。はい。

やっぱり全っ然納得できませんが!!

今月中にたくさん睡眠をとってから万全の体制で字幕付き上映を観に行く予定なのでそれで全く違う解釈してたらごめん。2回目で手放しで絶賛してたら庵野チョーごめん。

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