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学校という存在意義

最近、近所の公園を散歩してしていて、近くの幼稚園のお迎えの様子を見ていました。たくさんのお母様方がお迎え時間の前から待ち構えています。その幼稚園にはバスによる送迎もあるので、お迎えに来ているのは近所の方達です。朝から昼過ぎまでの幼稚園。数時間の話ですが、その間子ども達は一箇所に集まって活動するわけです。

それを見ているとふと思いました。3、4歳~6歳くらいまで幼稚園に行き、7歳から小学校、13歳から中学校、16歳から高校、18歳から大学・・・と考えると非常に長い時間学校に行ってることになりますよね。その学校という空間に行くというのはどういう意味があるんだろうと思いました。高校や大学は日本では義務教育ではないので、必ずしもいく必要があるとは言えません。ところが、高校はほとんどの生徒が行っていますので、実質義務教育と同じような役割を担っていると言えるでしょう。大学進学に関しては増加傾向にあるとはいえ、高卒で就職や専門学校にいく選択肢もあるので、高校ほどの割合になることはないでしょう。ということは、大学は自己実現、生きていくための手段として行く意味を見いだすことが出来るかもしれません。何がしたいのか、どうやっていきたいのか、決まっていない場合はそれを見つけに行くこともできるでしょう。

では、幼、小、中、髙は何のために行くんでしょうか。

日本の教育制度は近代になってから急速に発達し、色々な制度変更を経ながら現在の形になってきました。義務教育制度が始まった頃は就学率が低く、いかに通ってもらうかが課題となっていました。その時の日本に取れば、教育を行い、一定水準の知識を共有することで文化的発展を狙っていました。幼い頃はまだしも、高等教育に進む人間の数は少なく、一部の優秀な者、経済的に裕福な者に限られ、高級官僚等になっていきました。

そういった経緯から、日本の教育は高級官僚のように国の政治に関わる人間を育てる役割を担う部分と、基本的な読み書き、ルールを守るなど、工場労働など勤勉に働く働き手を作るための性格をもった学校に分かれます。未だに挨拶や起立、礼などをしますよね。秩序を守る礼節を学校で学ぶようになったのです。

ところが、今の学校はどうでしょうか。世の中はどんどん変わっていきました。社会が変わることで求められる人物像が変わっていきます。昔は言われたことを言われたとおりにやる勤勉で丈夫な人間が好まれました。しかし、今はそういう人材だけでなく、主体的に行動できる人間を求める社会に変わってきています。それは「個性」という観点がクローズアップされ、浸透してきたからかもしれません。それはそれで、良い面もあれば今までと相容れない面もあるでしょう。

学校教育にも「個性」が入り込んできました。「個性を磨け」「個性的であれ」さまざまなに「個性」が唱えられています。そして、その個性は「自由」という風に変わってきました。「自由」を権利として主張するのです。そうなると、「自由」を旗振り、皆自由に振る舞うようになってしまうのです。学級崩壊、学校崩壊など、どんどん低年齢化しています。一時は教員の指導力不足として騒がれ、指導力不足教員を辞めさせる動きが加速し、実施されましたが、それでもなお、学級崩壊、学校崩壊は収まっていません。ただの指導力ではどうしようもなくなっているのです。

さらに動きは子どもだけではありません。保護者も権利を主張し始めます。「我が子ファースト」が起こったのです。我が子がかわいいのはそれぞれの家庭で思われることですが、「我が子を優先しろ」という発想を持った保護者が現れたのです。これはお客様視点と言われています。「我が子は教育サービスを受ける権利がある」という権利を主張するのです。他の子どもとの折り合いを考えて、そんなこともあるかと思う方がまだ多数だと思いますが、一部でそういう保護者が現れています。現場はどうしようもなくなり、運動会では順位をつけない、桃太郎の主役が7人もいる・・・といった事態を生み出したのです。

このような状況が全ての学校ではないにしろ、起こり始めています。そして、昔ながらの方法がどんどん通用しなくなっています。体罰の厳罰化、校則の変更、その場その場で問題になったことにだけ対応している状況です。本質的なところは変わっていません。つまり、学校自体は義務教育によって、学校に通うのが当たり前になったころから変わっていません。そして、高校や大学まである程度の子どもが通うようになってからというもの、昔でいう、「言われたことを言われたようにやり、勤勉に丈夫な子」が評価されるシステムのままなのです。

通知表制度が、そのことを物語っています。学校の各教科の成績が記載され、先生の一言が通信欄に載せられるようになっています。つまり、各教科の授業を受け、頭に記憶を残し、テストで良い点を取る。欠席が少なく、先生の言われたことをその通りにやるのが良い子だと評価されるのです。だから、テストの点数が低い、言うことを聞かないとなると、「問題児」としてのレッテルが貼られます。例えば、大人の前だけいい顔をして、成績もある程度取っているけれど、陰でいじめをしているような子でも、学校では高評価となるわけです。

これは、社会で言えばボーナス査定や昇級基準になるかもしれません。昔は年功序列制度が浸透していたので、黙って言うことを聞いて仕事をこなし、勤続年数が高くなれば給料が増えるわけです。学校教育と社会のシステムがうまく合致し、学校をリトル社会と呼ぶことができたのです。

しかし、現在の社会はどうでしょうか。年功序列制度を維持しているところもありますが、外資系などは出来高制です。ボーナスという概念がなく、普段の給料そのものに反映されているところもあります。そういうところほど、学校の成績がよいから雇いますとはならないのです。学生時代にどんな活動をして、どういう人間なのか。人間性というものを見るようになってきます。

そういった情報をいち早くつかんだ場合、学校というものの存在意義に疑問を持つ生徒が現れてもおかしくないと思います。今やYouTuberなど、中高生から目に触れやすくなっています。彼らの活動は学校の教育とはほとんど関わりがありません。むしろ、そこからうまく抜け出して努力によって成功した者です。(YouTuberの難点は成功者しかネットで見ることがないため、生徒は安直にYouTuberになりたいと思ってしまいます。動画の撮影、編集はもちろんのこと、どんなことをネタにするかなど色々と苦労がありますが、それを見落としてしまうのです)

私自身、学校に行く意味が見出せずいかなくなった時期があります。中学2年生です。中学校は荒れていたので、私は学校に行っていませんでしたが、気付かれませんでした。2年生の1月に初めて担任から電話があり、担任に「おまえってこんなに学校に来てなかったっけ?」と言われました。やっぱり行く意味ないなぁと思いました。3年生になると高校入試に内申書というのがあり、成績が関わると友だちから聞いたので、行くことにしましたが、それがなければ行ってなかったと思います。(高校も行くつもりは最初ありませんでしたが、みんなが行くからせめて高校は行ってくれと言われたので、行くことにしました。結局高校は楽しくいけました。)

以上のことを踏まえて、親からも過剰な要求がされ対応出来ない。社会の変化についていけず、求められる人物像になるように教育できていない。教科指導は学習指導要領に沿った内容、進路指導は一つ上の学校におしつけて終わりです。これだけなら、学校はただ生徒を一定時間学校に縛り付けているだけになってしまいます。保護者からすれば学校に行ってくれている時間自由な時間が増えるので、助かるなぁというようになるでしょう。その時間仕事をし始めるかもしれません。そうして家に誰も居なくなります。仕事は学校よりも時間が短いです。授業が終わって帰ると家に誰も居ない。そんな子が学校にも居場所を見つけられなくなると、もう行き場所がなくなってしまいます。

そうならないためにも、中・髙ではクラブ活動があります。授業後もクラブをすることで帰宅時間が遅くなります。親が帰ってくる時間まで拘束しておくのです。居場所作りとしての機能があります。ところが、それをすればするほど、教師の労働環境は悪化します。授業準備が出来なかったり、学級経営に手が回らなくなる。そうなると、学校に居場所がない生徒にとっては、もっと居場所がなくなるんです。

つまり、世の中の変化により学校の存在意義が変わってきていると思います。適切な表現かどうか分かりませんが、「託児所」になっている気がします。そして、子どもにとっての世界は狭く、学校に大きく頼っている場合、その中で居場所を見つけられないと、家にも居場所が無く、不登校や引きこもり、非行になってしまうと思われます。男女参画社会を推し進め、男女ともに働くと言うことは家に誰も居なくなると言うことです。子どもにとって、居場所に一つになるはずの家庭がそうならなくなってしまっています。

学校と家庭、車の両輪のように喩えられ、それぞれで子どもを育てていきましょうと言われます。ところが、それはある程度の居場所をそれぞれに見つけられた人にとっては有効に働くかもしれませんが、そうでない子どもにとっては孤独な戦いになり、地獄です。そういう子どもに手をさしのべる場所が必要になるでしょう。

これからは地域が、社会がそういう子どもの現状をしって動いていく必要があると思います。

今回は学校という存在意義を考えてみました。

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