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虹と涙    (短編

今日、虹と別れた。

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味も素っ気もないファミリーレストランの片隅で花占いのように繰り返す。
どうしようもない、どうしようもあった、否、やはりどうしようもない。

ぽろぽろと言えば聞こえのいいそれは実際のところぐだぐだである。
池に呑まれそうな置き去りのお札をしまう気にもならない。
そこで、ふと伝票に目がいく。まだサラダしか注文していない。
最低限残っていた良識から、慌てて甘味を追加する。テーブルを占拠して申し訳ない。気の毒だな、お店の人。何だこの客帰ればいいのにと冷ややかに思っていることだろう。
大きなグラスを持って来たウェイトレスに怯えと謝罪の目を向ける。ごゆっくりどうぞと眼鏡の彼女は笑みを浮かべた。
銀色の細長いサジに少量のアイスクリームを掬い、力なく運ぶ。
口一杯に広がる容赦ない慰め。これは、甘いということだ。またも目頭が熱くなる。
こんなに最低な日でも、世界はわりと優しい。
けれども、他人の思いやりと安っぽい糖分で、この空虚感は満たされない。

百人から共感を得たとしても。たった一人、変えることができなかった。
歩み寄ろうと駆け足になろうとも、ひらいた距離は一向に縮まらない。
まるで、虹だ。
ついさっきまでそこにいた彼は、だんだんと薄くなり、やがて完全に姿を消した。

次にあらわれる日など予測できない。どの空に架かるのかも分からない。
それを身勝手だ気まぐれだと罵ったところで、理解を得られないのは当然だ。
元来、生身の人間と関わり合いを持つ事ができない。あれはずっと独りなのだ。
たまたまある時に思考を持ち、ヒトの姿を得て、私と出会った。

彼がヒトであるとき、私は心の底から幸福だった。
思考は常に冷静で、時に温情に欠ける事もあったが、甘やかされる機会の多い私はそれを歓迎し、また感謝していた。
ちょっとした事だが、手を離す瞬間に一瞬だけ強く握るのは、「またね」と言われているようで嬉しかった。
時折見せる影は、虹であった自由な日々に思いを馳せていたのかもしれない。
それでも、少しずつ、着実に、変わっていたのだ。本人は気づいていなかったかもしれないが。
家電量販店で馬鹿高い炊飯器を買おうか悩んでいたときの表情は紛れも無く人間のそれであったし、さらに驚いた事に、その際、彼は私の意見を求めたのだ。
「お米が美味しく炊けるのがいいね。・・きみも使うかもしれないし。」
決して迎合しなかった虹が、少しずつヒト型になっていく。
その様を見るのが嬉しく、自分がそのキッカケであることが誇らしかった。

彼は虹に還り、空の彼方へ消えた。
ほんの数週間前の出来ごとが、ひどく昔に感じる。あれだけ近くにいたことが嘘みたいだ。
永い年月を重ねても消えるのは一瞬。なんてあっけないんだろう。

最後に見た、彼の顔が忘れられない。
じっと私を見据える瞳には水膜がゆらめき、口元は震えていた。
私が流した千の涙より、それは深い何かを暗示しているようにも思えた。
認めたく無いかもしれないが、虹は私といるときが一番人間らしかったのだ。

消えないで。ここにいて。虹にならないで。
のどまで出かけた言葉の羅列を、次々と呑み込んだ。
いつ架かるとも知れぬそれにヒトの幸福を望んでも、明るい未来は無い。

虹がふたたびヒト型になり下界に姿を現したとき、また私は出会うのかもしれない。
そのときは、駆け寄るまい。追いかけまいと心に誓う。
消えてしまう事に怯え、色が薄くなる度に焦り泣くのは懲り懲りだ。


それでもきっと、街角で出会えば無視などしないだろう。
高い炊飯器は買ったのかと、茶化すぐらいの余裕をもちたい。

虹、さようなら。
どうかお元気で。

窓から射し込む光で、こぼれ落ちた涙が七色に光る。
虹の子供みたいだ。ふっと笑い、時計を見る。午後二時。
外を眺めると、憎らしいほどに美しく晴れた春の空だった。

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