わたしがゴミの絵を描く理由

わたしは、言ってしまえば街中のゴミが好き。写真をよく撮る。そこから絵も描く。

その理由は、汚いものが好きとか、ポイ捨てに対する風刺をしたいわけではなくて、そこに人の体温を感じるのが好きだから。例えばゴミでなくても、何かに夢中でぐちゃぐちゃになった作業風景とか、玄関の靴とか、人間の姿は見えないんだけれど人の体温を感じるものが、なんだか、うん……好き…なんだよね。そこから想像するのが好きなのかな。どういう人間がどうやってこうなった…とか。そこに答えはいらなくて。ふわふわと漂う体温みたいなのが好きで。

体温体温と言うけれど、それが別に心地良いものだけとは限らなくて。ゴミのなんか特にそうなんだけど、気持ち悪いよね汚いよね。でもさ、それやったの、おそらくうちらと同じ人間なんだよ?同じ人間なのに、どういう思考からゴミをポイ捨てできるのか、はたまた何も考えずにそうなるのか、何も考えないなんてことができるのか…。ゴミから見える人間像を想像して写真を撮ったり絵を描いたりしている。

ちょうどそういうものに関心を持ち始めた時期に、宮崎学さんの「アニマル黙秘録」という写真集を読んだ。人間が出したゴミを利用する野生動物たちにフォーカスを当てた本なんだけれど、これが本当に面白い。特に(誰とだったかは記憶が曖昧ごめんなさい)対談が面白くて、「ゴミは社会のウンチ。排泄物を見れば健康状態が分かるように、人間社会から排泄されたゴミを見れば社会が見えてくる」たしかそんなことを言っていたはず。そうだよ、これ。すごくピンときた。街ごとに捨てられているゴミの毛色って違うし、もちろん綺麗な街にはゴミは落ちていないし、ゴミは社会のウンチか〜、上手いこと言うなあと。そしてこの写真集は、人間のゴミを食べたり、ゴミで巣をつくったりしている動物たちの姿が写されているわけで、そこにはある種小さな生態系のようなものができてる。もちろんゴミは体に害のあるものが多いからそんななんちゃって生態系は推奨できないけど、そうやって人間の出したゴミを利用する野生動物がいることを知ると、やっぱり人間も自然の一部なのだと実感する。そんなこんなもあり、ゴミを追求するのも良いかもしれないと思った。

しかしです。それでゴミを描いていると、友人と街を歩いていてゴミを見つけると、やたら写真撮る?と聞かれるようになってしまった。それが親切心であることは分かるし、面白がっているとしても、助かる時もあるのでやめてほしいとも言えず。そこには、友人と見ているところが違うのだと最近気づいてきた。ゴミならなんでも写真を撮ろうと思うわけではない。なんで?みたいなゴミを撮りたい。なんで?というのは、どうしてこうなった、どんな人間がどういう風にしてこんな風にゴミが捨てられたんだ。そういう想像の余地があるものが撮りたい。もちろんポイ捨てなんてやる奴に理解は及ばないのでみんな想像の余地はあるんだけど、いらなかったんだろうなあとか、落としちゃったんだろうなあみたいな、イレギュラーを感じないゴミはちょっと飽きてしまった。

そして気づいた。わたしの撮るゴミは、なんで?が基準なんだけど、そこには人間の作用と雨風等々の自然の作用も盛り込まれている。つまりは人間だけでなくて、わたしの想像の及ばない力が働いていたであろうこと。それがきっと面白いのね、好きなのね。

ということで、1番最近は突然折れていた花を描いた。周りはみんなピンと立っているのに、一部分だけ突然グシャリと折れている。見たときにインパクトがあって、これだ、と思った。

この文章はアレですよ。わたしが忘れてしまったときに思い出せるように記録として残しているので、結局何がしたいの?とかはちゃんと分かんないし言ってることめちゃくちゃだと思いますよ。だからツッコまないでね。

どうでもいいけど書き出したかったこと。ゲロ袋。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。